前編
花を置いて、孟徳は三日ほど視察に出なければならなくなった。 結婚したばかりの愛妻花を置いてゆくのは、とても忍びない。 だが、今回は致し方ない。 しかも視察は短いのだから、納得するしかないのだ。 丞相ともなると、やはり様々な職務から逃れることが出来ないのだ。 それはもうしょうがないとしか言えなかった。 愛する花と離れ離れになるのが辛いのは、本当は孟徳のほうだ。 花と一緒にいたくてしょうがないのだから。 花といれば持病の偏頭痛もすっかり治ってしまうのだ。 一緒に住んでいても、なかなか花とふたりきりの緩やかな時間を持つことは出来ない。 それは孟徳としては苦しかった。 花と僅かな時間も離れ難いが、丞相としては視察に行かないわけにはいかない。 重い責務を背負っている以上は、きちんと果たさなければならないのだ。 そのあたりは花も充分過ぎるぐらいに解ってくれているようだった。 結局、出立する前日は、花を激しく愛してしまった。 たった三日でも、花を腕の中に閉じ込めておけないのは、孟徳にとっては心苦しいことであったのだが。 花を殆ど寝かせないぐらいの勢いで激しく愛してしまったのに、今朝はちゃんとこうして見送ってくれる。 それが嬉しい。 花は美しく漢服を着こなして、堂々と丞相の夫人として立ち回っている。 これは嬉しい。 昨夜は殆ど眠っていないのに、それを感じさせずに花は笑顔だった。 今朝の花の肌は透明感があり、益々艶やかで美しい。 孟徳もついうっとりと見惚れてしまうほどだ。 このまま抱き締めて寝台に連れ込めたら良いのだが、なかなかそうはいかない。 元譲に何を言われるかが解らない。 「…花…、しっかりと留守を守ってくれよ」 「はい。孟徳さん」 花はしっかりと言うと、孟徳に笑顔を向けた。 だがその大きな瞳は、切なそうに潤んでいて、このまま離せないぐらいに艶やかだった。 「…じゃあ、行って来る」 「はい、いってらっしゃいませ、孟徳さん」 花は孟徳を丞相の妻としてしっかりと送り出してくれる。 理解がある可愛い妻を置いていくのはしのびなくて、孟徳のほうが離れ難い。 本当は、花に比べて孟徳のほうがずっとずっと依存をしているから、余計なのかもしれない。 花の姿を見るだけで、後ろ髪を引かれる思いをしながら、孟徳は視察に向かった。 早く帰ってきてやると、心から誓いながら。 孟徳が行ってしまい、花は脱力感と寂しさを深く感じずにはいられない。 花は、今にも泣きそうになるのをグッと堪えて、室に戻った。 先ほどまで愛し合っていた痕跡が残る寝台を見つめる。 今朝はもう少し一緒にいたかった。 もう少し抱き合って眠りたかった。 そうすれば、幸せな気分を味わうことが出来たのに。 三日間なんてあっという間だ。 すぐに過ぎる。 それは解っているのに、なかなか切なさは拭えない。 花は孟徳にただ逢いたいと、出掛けたそばから思っていた。 こんなに寂しがっていてはだめなことぐらい解っている。 丞相の妻なんて務まらない。 だが、やはり寂しいものは寂しかった。 花は涙だけは何とか堪えて笑おうとする。 新婚だから今は慣れていないからしょうがないのだろうか。 そのうち慣れるようになるのだろうか。 花はそんなことを考える。 孟徳に甘えて貰えなくて、寂しい。 だが、丞相府にいる使用人たちには、なるべく悟られないようにしなければならないと、花は気丈に考える。 沈んでなんかいられなかった。 ようやく視察が終わり、孟徳はホッとした。 早く帰って、早く花に甘えたいとばかり考えてしまう。 今までは、誰かに逢いたくて堪らないなんて感情を持ち合わせたことはなかった。 人に依存をするという考えが、孟徳には全くなかったからだ。 依存したからと言って、どうなるのだろうか。 依存してもどうせ裏切られるだけだと、ずっと考えていた。 だが、花と愛し合うことによって、誰かに心地好くさり気なく依存するのは悪くないと思えるようになった。 これも花のお陰だ。 信じることの素晴らしさを孟徳に教えてくれたのだから。 孟徳は夜空を見上げながら、花のことを思う。 花のいない寝台は寂しくて、落ち着かなくて、上手く眠ることが出来なかった。 以前の疑心暗鬼な自分に戻ってしまった格好だ。 花がいればいつも熟睡が出来る。 本当に快適な深い眠りが得られるのだ。 それだけ安心して眠れているということが言えた。 だが、花がいないとやはり良く眠れなかった。 たった三日間なのに、長くて堪らないと思った。 明日の夜には、花を思い切り抱き締めて眠りたい。 寝かせられないかもしれないが、それだけ求めていた。 早く花をこの腕の中で抱き締めたい。 息が出来ないぐらいに抱き締めて、自分の存在を刻み付けたかった。 今までは様々な女と一緒に過ごし、時には人妻すらも自分のものにしたこともある。 だが、それは過去の話だ。 今や孟徳は花以外の女性は考えられなかった。 夜空を眺めながら、花のことを思い出す。 天下の丞相の弱点が愛しい妻だということは、知られてはいない。 花がある意味、漢帝国で最強なのではないかと、孟徳は思った。 いよいよ孟徳が帰ってくる。 僅か三日間離れただけなのに、花は待ち遠しくて堪らなかった。 丞相府も帰還の準備でバタバタとしている。 花はいち早く逢いたくてしょうがなかった。 大好きなひとの顔を見たら、いち早く抱き締めたかった。 「丞相がお帰りになったぞ!」 官吏の声が高らかに響き渡り、花は慌てて室を出た。 孟徳を笑顔で出迎えてあげたい。 ただそれだけだ。 花が玄関先にゆくと、孟徳がまさに中に入ってくるのが見えた。 「花!」 孟徳は誰よりも早く花を見つけてくれ、直ぐに花に向かってやって来る。 いち早く挨拶をしてくれるのが、花は嬉しくてしかたがなかった。 「おかえりなさい、孟徳さん」 「ただいま、花」 まるで子供のようにニコニコと笑う孟徳に、花も笑顔になる。 可愛いと思った。 「今日はこれで仕事は終わりだよ。ゆっくりしよう、花」 「有り難う」 使用人が孟徳の荷物を持ち、孟徳は花の手をしっかりと握り締める。 その顔がとても可愛くてしょうがなかった。 室まで来ると、使用人がうやうやしく荷物を置いてくれる。 「有り難う」 孟徳が声を掛けると、使用人はうやうやしく室を後にした。 「ようやく逢えた」 「はい。おかえりなさい、孟徳さん」 花が改めて笑顔で出迎えの言葉を言うと、孟徳は微笑みながら、花を抱き締めた。 「逢いたかったよ、花」 「私も、孟徳さんに逢いたかったですよ」 花がはにかみがら言うと、孟徳は堪らないとばかりに更に強く抱き締めてくれた。 「三日間、こうして花を抱きしめたくて、しょうがなかったよ」 「私もずっと孟徳さんを抱き締めたかったですよ」 花は言葉通りに、孟徳をしっかりと抱き締めた。 孟徳を抱き締めると、それだけでとっておきの幸せを貰ったような気分になる。 「花、今夜は君をめいいっぱい感じたいからね。覚悟をしておいて?」 孟徳の言葉を、花は耳まで真っ赤にしながら聴く。 これでは今夜もきちんと眠ることは出来ないだろう。 少しだけ恨めしい気分になりながらも、花は幸せだった。 「…花…」 孟徳は花の名前を呼ぶと、唇を近付けてくる。 待望んだ甘いキスだった。 |