前編
朝靄の中にいた。眩しいほどの光に包まれて、目の前には美しい女が羽衣らしきものを肩にかけている。顔はよく見えないのに、なぜだか美しいと感じ、羽衣を見て、目の前の娘が天女だと判った。 「もう二度と…、あなたにはお逢いすることも、触れることも出来ませんが…、ずっと心はあなたの側にいます…」 「姫…!!」 どうして娘を”姫”と呼ぶのか判らない。だがかけがえのないものだと言うことは直ぐに知れた。 手を伸ばせば、月の輝く光のような美しい姫は寂しそうに微笑んで、薄れていく。 光と靄が取り払われ、ようやく天女の顔が露見した。里見ははっとして息を呑む。 「…立花!」 その姿が、教え子に重なる。いや、立花未来そのものだ。 昨夜の切なくて今にも泣き出しそうな表情が、今、目の前にある。 消したかった。その表情を自分の腕で抱きしめてやることで、消し去ってやりたかった。 里見は必死でその姿を腕に捕らえようとする。だが…。 「…天に還ります…。さようなら、里見教授…」 儚く微笑んだ後、未来は里見に背を向け、光の中にとけ込んでいく。 「立花!!」 手を伸ばしても、もう未来はそこにはいない。あるのは、ただ明るい日溜まりのみだった。 □□□ 覚醒を促す目覚ましの鋭い音で、頭にもやがかかったまま目が覚めた。 呼吸が荒い。寝汗をひどくかいたのか、今朝は気分が悪い。背中にはまだその余韻すらあった。 「たかが夢ごときで、こんなに取り乱して、俺はどうするというのだ…。あの夢に出てきた天女が立花だなんて、ばかばかしすぎる…」 時計に視線を配れば、何時もの時間。何事にも邪魔されることなく、自分で決めた綻びのない完璧なタイムスケジュールで今日も過ごす。 そう出来る筈なのに、脳裏に浮かぶのは昨夜の傷ついた教え子の顔。 胸が軋む。今まで感情に左右されたことなど、一度もないというのに、自分の中で旨く感情をコントロール出来ない。 寝乱れた髪をかきあげながら、里見はメンソール味の煙草に手をかけた。口に押し込み、ライターで火を付ける。 何時もなら、メントールが寝起きの頭をすっきりとさせてくれるが、今日はもやがかかったままだ。 ただ自分をいつものコンセントレーションが取れた状態に戻すために、煙を宙に吐いた。 昔、メンソールの煙草を吸い過ぎると感覚が麻痺して、不感症になり男の機能が駄目になると聞いたことがある。 感情も感覚も総てがコントロール出来る自分には、そんなことは戯言にしか思えなかった。だから今でもっている。結局あれはただの戯言に過ぎなかったことを、自分で証明して見せたのかもしれない。 柔らかな日差しが注ぎ始めた窓辺を見ると、屈託のない明るい笑顔と、昨夜の傷付いた表情が交互に思い浮かぶ。 再び胸が軋んだ。 踏みにじった相手の表情を見ても、感情等は湧いてこない。今までは…。 だが、今朝に限っては、教え子のくるくると変わる表情が目に浮かぶ。そして、傷ついた表情も…。 何故だか解らない。昨日、ユカリの疑惑を話されたから動揺しているのではない。あんなことは予想の範囲内だ。 女の泣き顔も、野心を達成するには仕方のないことだと思っていた。そのことについてはどうこう思ったことすらない。 だが立花未来だけは違っていた。 初めて出会った時から、どこかで出会ったことがあるのではないかという錯覚を覚えた。彼女を見るだけで、初めて感じる内側から湧き出る甘い感覚に、戸惑ったりもした。不思議な雰囲気を持った、美しく、どこか透明感のある少女だった。 ずっと、この手で触れたかったのかもしれない。 昨夜、ようやく触れることが出来た。生まれた時から未来を探し、触れたかったのかも知れない。 だからなのか、彼女には選択肢を与えたようで、本当は与えなかった。 熱く滑らかな肌は、遠い昔に失った何かを思い出させてくれる。 触れたい。 その激情が感情をコントロール出来なくしていた。 いつもならセックスは運動と同じで、深く感じることもない代わりに、快楽すらもゲームのようにコントロールすることが出来る。 だが立花未来だけは別格だった。快楽をコントロールすることが出来なかった。経験のなかった彼女を相手に、今までで最高の快楽を得られた。 触れてしまった以上、本当の彼女を識らなかった昔には戻れない…。肌にも、腕にも、唇にも、そして全身に未来が刻まれている。 胸が甘く切ない感情に彩られる。これでは、恋に溺れる子供ではないかと、里見は苦笑した。 自ら恋愛小説を人間考察の道具として使い、描写をしてきたが、まさか自分が小説の中の人物と同じ気分になるとは、思わなかった。 触れた以上、このままでは消えてしまう…。 ふと、ひとつの言葉が里見の脳裏に浮かび、想像以上に驚いた。 「…どうして私が、立花が目の前からいなくなるぐらいで動揺しなくちゃならんのだ…」 声に出してみて僅かに震えていたので、益々自分が動揺していることに気がついた。夢が現実になるような気がして、心が痛む。 「…今日は少しおかしいらしいな…。私は…」 苦笑して煙草を灰皿に押し付けると、里見はベッドから出た。 これ以上考えていても、時間は徒に過ぎていくだけだ。 時計を見ると、考え込み過ぎたせいか、思った以上に時間が経過している。これでは、栄養バランスの取れた朝食を作り、取るには不十分な時間だ。 どうせ胃がむかついて食欲もない。シャワーを浴びるまでの間コーヒーメーカーでコーヒーを落とし、それを飲めばいい。好みはアメリカン、ブラックと決めている。 頭からシャワーを浴びて、頭をすっきりさせようとする。だが、一向にすっきりしないどころか、余計に未来の泣き顔が思い浮かぶ。大きく息を吐くと、里見はシャワーを止めて、バスルームを出た。 頭をがしがしと乱暴にバスタオルで拭き、未来の愁いのある影を追い払おうとする。だが、出来ない。 いつもの身支度が終わる頃には、諦めに似た溜息が唇から漏れた。鏡を見ればいつもと同じはずなのに、違うように思えてならなかった。 今日何度目か判らない溜息を吐いた後、点てておいたコーヒーをカップの中に注ぎ込み、それを一気に飲み干す。いつもに増して苦い味が口の中に広がり、不快だった。胃酸が充満してむかついてくる。 いつものようにブリーフケースを片手に、マンションの自室から出る。駐車場に停めてある車に乗り込むのも、いつもと同じ時間。いつもと同じようにエンジンをかけ、大学までの道程を行く。 同じはずなのに、違う。車窓に流れる光景も同じはずなのに、全く違う場所に行くように感じられた。 □□□ 定刻通りに大学に着き、研究室に入る。なぜか、緊張した。 ブリーフケースを乱雑に机の上に置き、講義の準備を始める。今日の予定は午前中と午後にそれぞれ1講義を担当している。 午前中に担当する講義は、立花未来が必修で取っている講義だ。それを思うだけで、喉がからからになるほど、里見は緊張した。 足音が聞こえた。一瞬躰を硬くする。どうと言うことのない足音なのに、彼女のような気がしてときめく。 ときめくだけなら良いが、舞い上がってしまってどうしようもない。 かつで小説の中で、嘲笑しながら表現したあの状態が、よもや気分に起こるとは思わなかった。 ピタリと研究室の前で足音が止まる。 ノックを聞いた瞬間、里見は肩を落とした。このノックの仕方は、立花未来ではない。 「先生、木村です」 「-----木村か…。入れ」 大きく深呼吸をすると、里見はいつものポーカーフェースで教え子を迎え入れる。そう言えば、この青年は立花未来を高校の頃からよく知っているのだった。 「里見先生、短編小説が完成したので、見て頂きたいんです!」 相変わらず真っ直ぐな木村は、明るく強引に原稿用紙を出してくる。 「…判った。また、見ておこう」 「有り難うございます! この間先輩に代筆して頂いて、なかなか面白いと言って頂いたんです! 学園もののミステリーですけれど、先生に是非読んで頂きたくて!」 先輩。それが誰を指すか里見はよく知っている。原稿に記された、性格を現す、今時繊細な美しい文字に、意識が奪われた。 今までこんな事は一度もなかったというのに、木村に対して、どす黒い感情がわき上がるのを感じた。決して口にしてはならない、切なくも恥ずかしい感情。 「ああ」 一呼吸置いて、わざと何でもないように里見は答えると、木村の小説を机の引き出しに直した。 「そろそろ、授業だろう…。君も講義の準備をしたまえ」 「はい! では、失礼します!」 豆台風のように、木村は慌ただしく去っていく。 里見は、木村の原稿に再び目を落とした。中身ではなく文字に。そっと文字をなぞってみると、言い様のないほど胸が締め付けられる。 木村が羨ましかった。未来に素直に何でも言える彼が、接することが出来る彼が、本当に心の奥底から羨ましかった。 木村の代筆をし、的確で、それでいて控えめなアドバイスをする未来の姿が思い浮かぶ。 羨ましいと思うだけでなく、自分以外の男に例え好意がなかったとしても、して欲しくないと心の中の自分が訴えている。 「嫉妬? この私が?」 かつてこの感情を芽生えたのは後にも先にも一回だけ。袂を分かった、かつての親友古賀雅也にだけだ。 自由で闊達で、やりたいことには真っ直ぐに向かえる彼が、心底羨ましかった。明るく、信頼も厚い古賀が羨ましかった。自分が欲しいものを総て持っているような気がしたから。大学時代、恋愛に対してだけは不器用だった古賀から、嫉妬の余りユカリを寝取った。 あれ以来友情は決裂してしまい、ユカリは古賀を見くびり、自分についた。 そこから、この野心に満ちた道を歩き始めたが、それが果たして良かったのだろうか。立花未来に出逢ってからと言うもの、自分が歩んできた道が果たして正しかったかどうか、何度も自問自答の日々を繰り返した。 そして。今日ほど、その道が自分には相応しくないと思えた日はなかった。 昨夜の未来の悲痛な心の叫びが蘇る。 このままでは、最も自分が失いたくないものを、失ってしまうのではないか? 誰のせいでもない。自分のせいで失うのだ。 だがまだ迷いがある。安寧という名の幸せを望む自分と、野心を達成させたい自分が鬩ぎ合っている。 煙草を口に押し込み、里見は落ち着こうと火を付けた。 溜息と一緒に出された紫煙が、宙を漂う。 私はどうしたらいい? その答えは、未来の真っ直ぐな瞳を見つめれば、得られるような気がした。 一服し終わり時計を見ると、研究室を出るには良い頃合いになっていた。 準備をした資料を持ったところで、里見ははっとする。今朝はよほど慌てていたのだろう。なんと、眼鏡をかけてくるのを忘れていた。 何事もないかのように今までそれで過ごしていた。元々視力は悪いほうではない。今でも裸眼で車が運転出来るぐらいの視力は十分ある。ただ、眼鏡をかけることにより、相手に隙のない印象を与えられるから、掛けていただけなのだ。 余りにもの動揺ぶりに苦笑すると、里見は講義に向かった □□□ 教室までの廊下を歩く間、妙な緊張感が里見を襲う。今まで、一度たりとも講義で緊張をしたことはなかった。 彼女に会える-----ただそれだけで、緊張していた。それは物事をする前の緊張感ではなく、胸の奥が締め付けられるような、甘い緊張感。 ドアを開け、教壇まで歩いていく。いつもなら見ないのに、立花未来が座っている場所を無意識で探してしまう。 だが、未来はいなかった。 いつも一緒にいる、康平、堂本、春子はいるというのに。春子の声が聞こえた。 「ねえ、未来どうしちゃったの? あれほど教授の授業は真面目に出ていたのにさあ」 「今朝よお、迎えに行ってもあいつ出てこなかったんだよ。熱がある時でも出てくるぐれえのにな。鍵は閉まっていたし、何があったんだろうな」 未来と同じ授業のある日は、一緒に登校をする堂本が首を傾げている。それに康平が追い打ちを掛ける。 「そう言えば…、あいつ最近熱っぽいとか言って、かなり顔色悪かったもんなあ…」 「う〜ん。ちょっと、心当たりあるかも知れないから、調べてみる」 春子もかなり心配そうにしていた。 病気なのか…? そう考えると、里見の心は大きく波立った。心配の余り、心が重くなる。未来が本当に重い病気であったら…。 いつものように平常心に感情をコントロールしなければならないというのに、波は荒れてばかりだった。 それでもなんとか、生徒たちには悟られずに行動する。 「出席を取る」 生徒たちの名前をひとりずつ呼んでいく。いないことは判っているというのに、未来の名前を呼ばなければならない。 名前を出してしまえば、きっと、もっと切なくなる。だが呼ばなくてはならない。 「立花…」 わざとらしく一呼吸を置いて、里見は出席簿に視線を落とした。 「欠席か…」 いつものように言った後、里見は出欠を取り続ける。明らかに動揺していた。 それを敏感に木村が察したことを、里見は気づかない。 どのような講義をしたのか。里見は断片でしか覚えていない。ただ、口と手を動かしているだけといった感じだった。 心は総て未来に支配され、それ以外のことはなにも考えられない。 ようやくのことで90分の講義を終え、重い足取りで研究室に戻ろうとした時だった。 「里見教授!」 木村がまた小動物のようにして、里見の元にやってくる。 「先輩…、教授の講義に来ないだなんて、珍しいですね」 「そうだな…」 里見は深い声で言うと、木村を感情のない眼差しで見つめた。 「木村…」 「はい?」 「”かぐや姫”と”天女と羽衣”の天女は最後どうなった?」 いきなりの質問に、木村は面を喰らったように目を丸くする。まさか、里見がそんなことを訊いてくるとは思わなかったのだ。 「…確か、ふたりとも天に還って、二度と戻っては来なかったんじゃ」 「そうだったな…」 切なげに里見は天井を見つめる。 もし未来がそうであったとしたら。考えるだけで、苦しくなる。 「それだけだ」 里見はそう言い捨てて、研究室に戻る。戻って未来のことだけを考えたかった。今はそれ以外に考えることは出来なかった。 将来小説家志望の木村には、里見が心配していることは直ぐに判る。もちろん、彼はそれに気づかれたことを、まだ知らなかった。 研究室に戻り、荷物を机の上に置き、大きく溜息を吐く。 「この私が…、こんなことになるなんてな…」 里見は窓辺に凭れかかると、漆黒の輝く髪をかき上げた。 未来が昨夜、研究室から出た際の心許ない後ろ姿が思い浮かぶ。抱きしめなければ、崩れてしまいそうな背中だった。 抱きしめたくても抱きしめることが出来なかった。昨日は。 今ならきっと抱きしめてしまうかもしれない。 また、煙草に手を掛ける。今日は不思議と煙草の量が多くなってしまっていた。 煙草を吸いながら、先ほど聞こえていた春子たちの言葉を、心の中で反芻する。 本当に病気だったとしたら? そうしたら、今度こそ天に還って行くのか? -----また、逢えなくなる…。 そこまで思ってはっとする。どうして、またなのか。未来は出逢って以来、里見の前から消えたことなどないと言うのに。 苦笑しながら、初夏の日差しが降り注ぐキャンパスに、窓辺から視線を落とす。 未来が寝坊をしたと言って、走ってくるかも知れないからだ。ひょっとすると、里見の授業は遅刻は厳禁なので、中に入れずに、どこかにいるかもしれない。 彼女を見つけられるかも知れない。ただそんな想いだけで視線を動かす。 かつて自分の小説に、そんな切ない恋をする、男の話を書いた。その男が今自分そのものだと思い、嘲笑が漏れた。 自分が最もならないだろうと思っていた男の像に、今なってしまっている。 一回り以上も年の離れた若い娘に、狂おしいほどの思いを抱いて。 逢いたい。逢えないから切ない。あの笑顔を見たい。 里見は未来のことだけを思い、キャンパスをじっと見つめていた。 □□□ 遅れた昼食を取ったが、余り胃には入らなかった。じっとそこにいてもしょうがないので、研究室に戻る。 椅子に座ったところで、ヒールの足音が聞こえた。 今度は正真正銘女性の足音だ。しかも、少し急いでいるように思える。 立花だ。立花未来に違いない。 里見は目を閉じながら、段々と大きくなる足音に耳を傾けていた。 予想通り、自分の研究室の前でピタリと足音が止まる。同時に、ノックの音が聞こえた。それを合図に、里見はゆっくりと目を開く。 「…里見教授、いらっしゃいますか?」 どうしても聞きたかった声。心が華やぐ。甘い想いが心いっぱいに満たされてくる。優しい微笑みを浮かべると、里見は姿勢を正した。 「入りたまえ」 「失礼します」 どこかしら緊張感を含んだ声で言いながら、未来は入ってきた。 逢いたかった…。素直に心がそう言っている。 ゆっくりと近付いてくる未来は、どこか思い詰めているように見えた。切なく、そしてこちらが胸を締め付けられるような表情で見つめてくる。 「…里見…教授…」 声のトーンと僅かに震えていたことで、未来が緊張しているのが判った。大きく澄んだ瞳を、ただまっすぐ里見に向けてくる。何かを言いたそうな愁いを帯びた瞳に、心を射抜かれたような気がした。 あまりにも穴が開くほどじっと見つめてくるものだから、里見は甘い感覚に息が詰まりそうになる。 「どうした。私の顔がどうかしたのか?」 思わず訊いてみたほど見つめられた。未来には、自分も切なく思っていることを悟られないように、精神力で乗り切る。冷徹な話し方をし、感情を表に出さないように表情は凍てつかせた。 一瞬間置いて、未来の大きな瞳が涙で光るのを見た。 どうしてそんなに哀しそうな顔をするのか。未来がこのままどこかに消えてしまいそうな切なさを覚え、里見は珍しくその小さな顔を覗き込んだ。 「立花君…?」 明らかに声は甘く苦しい感情が投影され、乱れていた。 消えてしまう…。このままでは未来が消えてしまう。儚げに映った未来の眼差しを、里見は支配したくなる。 「…あ…、なんでもありません」 未来は誤魔化してしまい、何も言おうとしない。だが、何かを訴えたい眼差しは、里見は痛いほど感じる。 このまま誤魔化されたくない。彼女の唇から、言いたいことを聞いてみたい。その切ない表情を取り除いてやりたい…。。 「何でもないという顔ではなさそうだが。言いたいことがあったら言いたまえ。聞こう」 自然と言葉が出されていた。教え子にこんな言葉を投げかけたことは、今までなかったというのに。 「…ええと」 里見の意外な言葉に驚いたのか、未来は戸惑いながらも言葉を選んでいる様子だった。そして、またユカリに関することを言われるのかと思ったが、意外な一言を言ってきたのだ。 「あの…、明智光希っていうひとについて、何か思いますか?」 余りにも想像出来ない言葉だったので、里見は驚きを隠しきれなかった。 明智光希と言えば、一般的な知識しか知らない。 「明智…? 三日天下の明智か? 本能寺の変の…」 「はい! その人です!」 未来の答えは明快だった。だが、里見には彼女が何を言いたかったのか、イマイチ理解することが出来ない。 明智については研究材料ではないし、通り一編の知識しかない。里見は眉根を寄せると、未来の真意を知りたくて見つめた。 「別に語るようなことはないが…?いきなり、なんだ?」 「えっ…、そう、なんですか…?」 明らかに未来は驚愕と失望が見受けられる表情をする。どうしてなのか、里見には全くちんぷんかんぷんだった。 「私は専門が外国文学のものでな。戦国武将は余り詳しくない」 答えられるだけのことを未来に返してやる。するとまた切なそうな表情をして、彼女は肩を落とした。 「…そうですか…」 沈黙が走った時、それを破るように研究室のドアが乱暴に開く。こんな開け肩をするのは、大学中ただひとり。 「失礼します! あ、先輩、やっぱりここにいた!」 入ってきたのは木村だった。少し慌ててるようにも見える。 「木村君!」 未来の表情が一瞬軟らかくなるような気がした。 「あの、次の授業、教室が変更になったって掲示されてて、先輩、間違って行っちゃうんじゃないかなって思ったんですけど…」 一呼吸を置いて、木村は里見と未来を交互に見つめる。 「あ! すみません、ひょっとして、話の邪魔しちゃいましたか?」 「いや」 恐縮する木村に、里見は低い声で否定をする。確かに大した話はしていなかった。重要なのは、未来がここにいると言うことだけなのだから。 未来もまた柔らかな笑顔で頷いた。 「…うん、大丈夫。教えてくれて有り難う」 木村に向かっていった後、未来は穏やかな笑顔で里見に向き直る。愁いのある、本当に美しい笑顔だった。 「それじゃあ私授業に行きます」 「ああ」 里見もまた未来の笑顔につられて、僅かに口元に笑みを零した。 未来がドアに向かって歩く。その背中に一瞬、羽根が見える。全身に透明感が漂い、今にも消えてしまいそうだ。 消えて欲しくない。側にいて欲しい。誰よりも何よりも、未来が欲しい。未来がいれば、きっと…。 考えなければならない。本当に自分が欲しいものは何か。護りたいものが何か。 未来はそのチャンスを昨日くれたのだ。だからこそ考えなければならない。感謝して当然のことだろう。 自分の中で何かが抜けたような気がした。 今なら素直に未来に礼が言える。 里見は未来を呼び止める。 「…立花君」 流れるように未来が振り返る。ほんの少し驚いているように見えた。 「あっ、はい」 「…君の心遣いには感謝する…。私も少しは考えるとしよう」 自然と柔らかな表情になった。マイナスではなくプラスの感情が湧き出てくる。 「…はいっ!」 返事をしてくれた未来の表情は、明るく、今までに増して美しく見えた。里見はそれを心に留めて、僅かに笑う。 「行きたまえ。講義が始まる」 「はい、失礼しました!」 木村と研究室を後にする未来を見つめながら、心が澄んでいくのを里見は感じた。 |