ALL I WANNA DO

1


「さくらちゃん!!」
 悲痛な声と共に、愛する者の華奢な肩が更に小さくなったような気がした。哀しさの余りに震えているのが判る。相馬はそれを拭ってやりたくて、力を込めて、震える肩を抱きしめてやった。
「…未来ちゃん…」
 愛する者の名前を心の底からしっかりと呼んでやると、僅かに彼女の震えが止まったような気がする。
 ベッドの上に花びらだけを残して、今、さくらが消え去った。
 未来と相馬が、妹や我が子をのように可愛がっていた少女-----実態ではなく、過去の未来が桜の精の力を借りて現れた、”幻”だった。
 それに相馬が気づいたのは、つい先ほど。
 「大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになりたい」----そんなことを小さい頃、未来はよく口にしていた。夢だと言っては、七夕の短冊に記していたのを優しい思い出として覚えている。
 未来の自分と相馬が、もどかしいほど恋に足踏みをしていたから、きっと手助けに来たのだろう----自分の夢を叶えるために。
 その証拠に、小さい頃、未来がよく言っていたことを口にしていた。
”お母さんが作った料理を食べたい”
”お父さんとお母さんと手を繋いで遊園地に行きたい”。
 相馬の記憶にも、未来の小さな頃の姿がありありと蘇ってきた。
 どうして忘れていたのか。かけがえのない大切な存在だったはずなのに…。そう考えるだけで胸が痛くなる。幼い約束をずっと大切にしてくれていた未来に、何だか申し訳ないような気分でいっぱいだった。
「さくらちゃん…」
 まだ涙をいっぱい出す未来を、相馬は思いきり抱きしめてやる。未来は逞しい胸に顔を埋めると、更に肩を震わせて泣いた。
「…先生…。せっかく、さくらちゃんと一緒に暮らせると思ったのに…」
「そう…だね。僕たちが結婚して…さくらちゃんの両親になって、さくらちゃんと楽しく一緒に暮らせたかもしれないね」
 本当にそうなれば良かったと、相馬は思わずにいられない。さくらを養女に取り、いずれは生まれるだろう未来と自分の子供に囲まれて暮らす。きっとこれ以上の幸せはなかったかも知れない。そんなことを言葉の端々に滲ませて呟いた。
「うん…」
 華奢な躰を強く抱きしめると、切ないほど柔らかい。温かな温もりが白衣を通して伝わり、愛おしさで胸がいっぱいになった。
 昔から、ひたむきで純粋な心はちっとも変わっていない。この無垢な心を、本当に愛しく思う。
 今なら判る。約束を果たす為に、純粋な心の持ち主である”未来”を、ずっと捜していたのだ。だからこそ、外見だけを美しくした、心のない女に心底惹かれなかったのだ。
 自分の心の空洞を埋めるために付き合った数多の女。
 自分の手が作り出した血の通っていない顔を持つ女たちも、そこに数多く含まれていた。
 彼女たちを相手にした欲望だけを満たす、愛のない冷たく虚しいだけのセックス。
 それを繰り返すたびに、自分の中の空洞がどんどん広がっていた。
 それを埋めてくれたのは、美しい心と躰を持つ未来。元々、彼女にしか埋めることが出来ない空洞だったのだ。
 彼女とのセックスは、軽々しくそう呼べないほど、愛の営みである本来の意味を備えていた。”愛し合う”-----まさにその言葉がぴったりだった。魂が結び合うのを感じ、心の空洞が一気に埋められた。
 空虚が埋められた途端に、未来が倒れ、途方に暮れたが、愛の奇跡が未来を自分の元に返してくれた。
 初めて神の存在を信じることが出来た。
 もう、今までのようにどん底で後ろ向きな気分じゃない。未来がいるから。愛しい者がいるから。前を向いていられる。
 彼女がここにいる。そのことを確かめるために、相馬は未来をもう一度強く抱きしめた。
「…先生…」
「…病室に戻ろうか…」
「待って…。あの桜を持って行きたいの…」
「判った。僕が持ってこよう」
 相馬は頷くと、未来から離れてベッドに向かう。その後ろを、ふらつきながらも、未来がついてきた。
「さくらちゃんの形代に、お守りとして持っておきたいの」
「そうだね。僕たちのお守りにしよう」
 優しくも切ない気分で、ふたりは花びらを見つめる。桜の季節はもう終わりを告げているはずなのに、不思議と花びらは透明感があり美しかった。
「うん…。このままだと萎れちゃうからドライフラワーにして、持っていましょう。お守り袋は私が作るから」
 丁寧に相馬はガーゼの上に花びらを置き、それを未来に持たせる。
「有り難う…」
「じゃあ、病室に戻ろう」
 このまま歩かせても、上手く歩けないだろう。まだふらふらとしているので、相馬は未来を軽々と抱き上げた。
「先生…、大丈夫…。病室までなら歩けるよ…」
 恥ずかしそうにする未来に構わず、相馬はそのまますたすたと歩き出す。この温もりを、今は片時も離したくはなかったから。
「君にまだ余り無理をさせたくはないんだよ」
「有り難う…」
 はにかみながらも承知してくれたのか、未来はようやく首に自分の腕を絡める。その仕草が可愛くて、相馬は華やいだ気分になった。
 病室に戻り、ベッドに座らせると、未来は涙目で相馬を見つめてくる。それがどれほど艶やかなのかは、きっと相馬以外にには判らないだろう。
「我が儘なのは判っているけれど…、先生、傍にいて…」
 切なさが声に滲んでいた。ぎゅっと腕を掴まれて、相馬はふっと微笑む。彼女に必要とされている。それだけで満足を覚えた。
「ああ、いるよ」
「よかった…!!」
 未来が抱き付いてきたので、抱き返してやると、一端包容を解いて、その横に腰を下ろす。また再び、抱きしめてやると、未来の唇から安堵の溜息が零れた。それが幸せ色に染まっているのを、確かに感じることが出来た。
 髪を優しく撫でると、甘えるように肩に額を付けてくる。仕草一つ取ってみても、未来を愛らしく思わずにはいられない。
 甘くぽってりとした桜色の唇に夢中になってキスをすると、未来は僅かに官能の呻きを上げた。
 ずっとこうしたかった。未来以外に欲しい者なんてなかった。
 最初はためらいがちに優しくソフトなキスをし、徐々に深めていく。
 彼女が今、ここにいて、温かく自分に接してくれていることを確かめる為に、その唇から熱とリアルさを計った。
「…んん…」
 息が弾んでくる。同時に、お互いの躰を這い回る腕が官能を帯びてきた。
「はふ…」
 未来が大きく呼吸をしたところで、相馬は唇を離した。このままキスを続けてしまえば、行き着く先に辿り着かなければ気が済まなくなるだろう。だが、今はそれは避けたかった。
 まだ未来の躰が本調子でない以上は、致し方ないだろう。まだ負担を掛けることは控えた方がいい。
 その代わりに、唾液で濡れた未来の唇を軽く舌で舐めた。
「…ん、先生…」
 情熱を抑え込むように相馬は未来を抱きしめると、細く笑う。
「----まだ、君は意識を戻したばかりだからね。ちゃんと検査を済ませて、医師である僕が良いと判断したら、その時は遠慮しない」
 相馬の穏やかな瞳の奥には熱い情熱が宿る。それに気づいたのか、未来は僅かにうっとりと見つめてきた。
 柔らかな頬に手を当てる。目を閉じてその手を包み込んできた未来の温かさに、相馬は安らぎと情熱を感じた。
「さくらちゃんが教えてくれたこの愛を、僕はもう二度と離す気はないよ」
「私も…」
 またさくらのことを思い出したのか、未来の瞳が僅かに潤んだ。あれほど泣いたのに、まだ枯れることは知らないらしい。
 相馬は慰めるように未来をしっかりと抱いた後、そっと背中を叩いてやる。子供の頃の未来も、背中を優しく叩いてやると、安心したものだ。
「先生の鼓動を聞いてると、凄く安心出来るの」
「僕も君の温もりを感じていると、安心するよ」
 本当に未来の温もりは心を癒す。この温もりをもう二度と離さない。
 ゆっくりと目を閉じると、温もりと彼女の鼓動に耳を立てる。
 すると、今までのことが走馬燈のように蘇ってきた  

   □□□

 断片的に未来との思い出が蘇ってくる。本当に大切な思い出ばかりだ。
 未来と出逢ったのは、10歳の時。生まれたばかりの赤ん坊である彼女が、桜塚希望園で保護されたからだ。
 出逢った時から自ら彼女の世話係を買って出て、小さな妹のように、相馬は未来を慈しんだ。
 おむつが排泄物で膨らんでお尻が大きくなっているくせに、回らない舌で「ハヤトお兄たん」と言っては、追いかけてくる。その姿が可愛くて、おむつを替えてやったり、根気よく食事の世話をしてやったりした。
 相馬は12歳の時に里親に引き取られ、桜塚希望園を後にしたが、その時も未来のことが気がかりだった。
 そして、8年後に再び希望園を訪れる機会に恵まれた。
 桜塚希望園のOBとして、ボランティアリーダーを買って出たからだった。
 その頃、実の妹のように可愛がっていた義理の妹を白血病で亡くし、心に穴が開いていた。空しさを埋めるために、そしてお世話になった桜塚希望園に恩返しをするためだった。
 桜の花がほころぶ頃、希望園の子供たちと、桜の丘公園に遊びに行った。後ろからひょこひょこと一生懸命ついてくるのが、未来だった。
「大きくなったね。いつも僕の後ろを追いかけていたのに」
 頭を撫でてやると、はにかんで微笑む純粋な顔が、誰よりも心を癒してくれるような気がする。懐かしい少女の成長に、相馬も目を細めた。
 未来はあの頃と少しも変わっていない。一生懸命、ついて回るところも、真っ直ぐな素直な瞳も、一緒だった。
 どうしてこんなにこの少女に拘るのか---このころの相馬にはまだ判らなかった。
「ハヤトお兄ちゃん! 手を繋ごうよ!」
「はい、はい」
「未来、お兄ちゃんを独占してずるいぞ!」
 同じ施設の男の子に指摘しても、未来は舌を出して牽制して、相馬の手を離さない。それが可愛くて、相馬は微笑むと未来の手をぎゅっと握りしめた。
 相馬がいない時はあまり遊ばないくせに、相馬が来た日には、未来は大暴れするほど遊ぶ。
 鬼ごっこやかくれんぼをしながら、いつも笑っていた。
 その笑顔が何よりも相馬を癒してくれた。
「お兄ちゃんが鬼よ!」
「うん!」
 声を上げて追いかけ合って、みんなで楽しく遊ぶ。
「未来ちゃん! 捕まえた!」
 未来を追いかけて捕まえた時、一瞬、小さな彼女が止まったような気がした。それが恋心だということ、は今なら判るような気がする。
 疲れ果てるまで遊び、希望園までの帰り道は眠りこけた未来を何度も負ぶって帰ってやった。重みが心地よくて、心の穴の開いた部分が、癒してくれるような気がする。未来のあどけない寝顔を診ているだけで、疲れなどは吹っ飛んでいくような気がした。
 大学の医学部に通いながら、桜塚希望園に通うのが楽しみだった。勉強も忙しかったが、子供たちの笑顔を見るのが、なによりもの癒やしになった。その中でも未来の笑顔は、最高の活力と言っても良かった。
 いつも傍にいた妹以上に可愛い少女。
 たまに一緒に夕食の時までいると、未来は決まって傍にいてと泣いてせがんだ。宿題を見てやり、寝ているまで傍にいてやることが多かった。寝顔を見てから帰る事も多く、桜塚希望園の孤児の中で、やはり未来が一番思い入れの深い子供だった。
 赤ん坊の頃、連れてこられた頃から、未来は特別な子供だった。ずっと面倒を見てきたが故に、ここに来た時も、未来しか覚えていなかったのだ。
 未来の養子縁組が決まるかもしれないと、桜塚希望園の先生から聞かされたのは、相馬にとって複雑な気分だった。もう逢えないかもしれない。そう思うだけで、なぜか胸が軋んだ。
 確かに未来が幸せになるのは良いことだ。だが、あの笑顔が独占出来ないと重うと、なぜだか切なかった。
 まだ子供のはずなのに、どうしてそんなことを想うのか。まだ判らなかった。
 桜の丘でひとり座り込みながら、考える。
 多くの患者を救うために、優れた一流の医者になりたい。だが、日本では、”白い巨塔”的な体質がまだまだ抜けず、学閥がものを言う。どこの病院も、大概は大きな大学の医学部の息がかかっていて、”この病院は○○病院系”と言われる。医者は、大学病院から出て、あらゆる病院に行くのだ。
 日本のシステムだと時間がかかりすぎる。早く一流になって、白血病で死んだ義理の妹のような患者を減らしたかった。
 夢を叶えるにはアメリカに行くしかない-----そこまで考えたものの、未来のことを考えて踏ん切りがつかなかった。
 しかし、昨日、未来の養子縁組の話を聞き、その家族に未来を託していけるとも考えた。
 そう考えてみたものの、未来の笑顔を失いたくなくて、迷いが生じていた。
「お兄ちゃん、どうしたの…?」
 切なく心配そうな表情をして、未来は顔を覗き込んでくる。
「未来ちゃん…」
 未来はにこりと笑うと、相馬の横にちょこんと腰を掛けてくる。丁度、数年後に再会した時に一緒に座った時と同じように。そう、座り方すらも、未来は何も変わっていなかった。今ならそう想う。
「お兄ちゃん、未来には何でも言ってね」
「有り難う、未来ちゃん」
 柔らかな優しい瞳に、相馬は和んだように微笑む。この少女は、温もりが欲しい時にいつも傍にいてくれる。
 気だての良い未来に、相馬はまた頭を撫でた。
「未来ちゃんは…、お父さんとお母さんが欲しいと思うかい?」
 一瞬、戸惑ったような顔をしたが、未来は直ぐに素直に頷いた。
「お父さんと、お母さんは欲しいよ。お母さんに美味しいお料理を作ってもらって、お父さんとお母さんに手を繋いでもらって一緒に遊園地に行きたい…」
 夢を見るように未来が空を見つめたものだから、相馬の心は決まった。
 未来が両親を求めている。このまま養子縁組に行って、幸せになるのがいい。孤児の時代を引きずるよりも、新しい環境でいる方がいい。
「…そうだね。君は良い子だから、きっと叶うよ」
「だと良いなあ」
 二人揃って、桜の丘で夕陽を見る。その美しさはいつまでも心に残っていた。

 それから8年が経った。総てを忘れるように医学の勉強に励み、必死の努力のかいがあってか、有名大学病院の医局員となった。その実績を持って、日本の大学に戻った。
 傲慢なほどの自信をあの頃は持っていたからも知れない。自分腕さえあれば、人を救うことが出来るという思い上がった感情を持っていた。
 アメリカで名を売ったお陰か、通っていた国立の大学---桜塚大学医学部付属病院の医局員として、第一外科に入局することが出来た。
 移植医療では日本一の大学病院であり、最先端の設備環境が整っていたために、夢も沢山あった。
 だが、現実は厳しかった。日本の体質は相変わらずの上、まだまだ癌や他の疾患で亡くなる患者は後を絶たない。いくら自分が努力をしても、現実には限界があった。
 癌は発見が遅れてしまえば切除は出来なくなる。ステージ1なら可能だが、進めば進むほど困難になる。
 患者の死は、医者としての自分の敗北だと思っていた相馬には、苦しい現実だった。
 そんな時に彼女と出逢った。その時は”再会した”とは思わなかった。だが、未来はちゃんと覚えておいてくれたのだ。
「先生!! お兄ちゃんを助けてください!」
 逢うなりに、未来は大きな瞳に涙を浮かべて、相馬に縋り付いてきた。
 美しく真っ直ぐな瞳に、強烈に惹かれた。胸の奥が切なく軋む。甘く切ない思いに、相馬は焦った。
 『ようやく逢えた…』そんな声が、どこからともなく聞こえ、眉根を寄せる。彼女には逢ったことがないはずなのに、懐かしく、そして、ずっと探していた相手のように感じた。
 血液が逆流する。誰かにあった瞬間に、こんなことになったのは初めてだった。
 呼吸が取られる。胸が切なすぎて、相馬はめまいすら覚えた。
 深呼吸をする。
「…落ち着いてください。私は、お兄さんを担当している、第一外科の相馬隼人と言います」
 ”落ち着いてください”それは自分に言い聞かせている意味もあった。
 こんなに女性に胸をときめかせたことは、今までなかった。
「相馬…隼人先生…」
 名前を呼ばれるだけで、胸が波立つ。もっとその唇で名前を呼んで貰いたいと思わずにはいられなかった。
 それからというものの、相馬は未来のために、必死に和希に尽くした。
 僅かな嫉妬を感じながら、和希が求めることをしてやり、未来が求めることもしてやった。
 元来、外科担当の自分が、オペが出来ないほどの末期患者を担当することはないが、ギリギリの状態で手術をして、なんとか奇跡を起こせればと思い、担当させて貰っていたのだ。
 抗ガン剤も拒み、ひどい意識障害に陥る痛み止めであるモルヒネですらも拒んだ和希に、最大限のことをする。本当は癌の痛みは壮絶で、モルヒネでないと抑えることが出来ない。それでも、未来に隠すことを選択した和希の気持ちを汲んでやりたかった。
 いつも笑顔で病院にやってくる、真っ直ぐで美しい未来を愛していたから。愛しているからこそ、同じ者を愛する和希の気持ちが理解出来たのだ。
 嫉妬と恋心、そして未来の事が絡む和希は、とても切ない、忘れられない患者となった。
 そして和希が逝ってしまった。未来に永遠の愛を残して、その心の中で永久に生きることになる。
 正直、悔しかった。嫉妬すら覚えた。
 もし、彼の病を治していたら、言ってみたいことがあった。
「未来を得るためなら、僕はあなたと正々堂々と戦いますよ」
 それはとうとう実現しなかった。最後にふたりになった時に、和希が言った言葉を思い出す。
「相馬先生…、未来を頼みます。あなたなら…、妹を託すことが出来ます…」
 壮絶な想いにも似た言葉に、相馬は胸が押しつぶされそうになった。
 思えば、和希は相馬が未来の遠い昔の初恋の相手であったことを、知っていたかもしれない。
 和希が亡くなった日のことは、ひとつひとつ事細かく想い出すことが出来る。彼は相馬に懇願して、未来と共に桜の丘に車椅子で向かった。手術の後で患者の様子を診なければならなかった相馬は、後から行くことにした。それに、これが恐らく兄妹水入らずで過ごす最後の時間だと判っていたから、一緒に過ごさせてやりたかった。
 だが桜の丘に辿り着いた時には、泣きじゃくって和希を抱きしめる未来の姿があっただけ。それだけ見れば、充分だった。
 明け方、清々しい朝陽が昇っているはずの澄んだ空気が息苦しく感じたのは、恐らくこれが最初で最後。
 泣きじゃくる未来にゆっくりと近付くと、和希の主治医としての最後の勤めを果たす。瞳孔を診て、脈を取る。冷静にならなければならないと、心に決めながら、乱れるばかりだった。
「午前6時20分…。ご臨終です」
 時計を見て、相馬はただそれだけを告げる。嗚咽しか聞こえなかった。
 未来が少し落ち着いた後、和希を車椅子に乗せて、ふたりで桜の丘を降りた。
 相馬が車椅子を引き、未来はその後に心許なく付いていく。
 抱きしめたかった。だが出来なかった。
 医者にとって患者の死は敗北を意味する。特に相馬はそれを強く思っている医師であった。
 だから、未来を抱きしめる資格はないと思った。大切な者の大切なひとを護れなくて、助けられなくて何が医者だ。
 そんな心の葛藤が、更に相馬を苦しくさせた。
 死亡診断書を書くのはいつも嫌な仕事だ。文字を書く手が震えることすらある。医者の悪筆とよく言われるが、相馬に限ってはそれはないはずなのに、和希の死亡診断書の字は、散々な出来であった。
 死亡診断書を渡し、病院での成すべきことは終わる。
 泣きながら弁護士に付き添われて帰っていった未来を見つめながら、相馬は和希の冥福を祈った。

 それから更に2年が過ぎて、未来と再会した。未来は記憶の中よりも更に美しく、綺麗になっていた。
 逢えなくなって2年。相馬は和希のことがきっかけになり、大学病院を辞めて、美容整形外科を開業していた。
 未来への思いは募り、それをぬぐい去るように、自ら執刀して出来が気に入った女性と、付き合っては別れていた。誰もが未来に見え、また誰もが未来に見えなかった。
 個人で営業をするようになったせいか、自由時間も出来、少しは息抜きが出来るようになっている。
 息抜き場所は、桜に誘われるままに、桜の丘の公園に通い始めてからは、すっとそこだった。桜塚希望園にいた頃からの思い出の場所。
 子供の顔を見てもほっとする場所だった。小さな命を見ているとなぜか懐かしく、心が和む。同時に、ここに探している者があるのではないかという、錯覚すら覚えた。
 その錯覚は現実になった。未来が度々訪ねてきてくれるようになったのだ。
 一緒に子供たちと遊んでくれたり、今の近況を語ってくれたり、楽しみだった桜の丘での一時が、大切な時間に変わっていった。
 未来だけに一方的に話させてしまっていたが、相馬には、今の自分の状況を、胸を張って言えなかった。
  ”病院から逃げ出した人間”そんな想いがいつもつきまとっていたからだ。
 自分の心の内を彼女に理解して欲しい。だが、言えない…。そんな葛藤が、未来に逢うたびに相馬を苦しめていた。
 楽しかったひとときも、未来の思いも寄らない一言で崩れおちる。幼なじみを手術して欲しいという。
 彼女の幼なじみが、オリンピックを勝ち得たナショナルチームのメンバーであることも知っていた。
 その幼なじみに力を貸して欲しい。
 正直、迷った。もう整形以外にメスを握るのは止めようと思っていたから。
 だが、結局は、未来の無垢な心と情熱に折れたのだ。
 愛している彼女をこれ以上苦しめたくない。ここまで自分を信じて縋ってきてくれた彼女の気持ちをむげにしたくない。それだけで執刀した。
 手術が成功したのは、未来のお陰だと思っている。彼女がいなければ、こんなに早く外科手術に復帰することなんて出来やしなかっただろう。
 ただ未来の笑顔が見たかった。彼女が幸せになる姿が見たかった。
 本当は自分が未来を幸せにしたい-----だが、未来が誰の腕の中で幸せになろうと、祝福して上げられる強さが、欲しかった。
 康平と未来の仲を思うだけでどす黒い感情がくすぶる。康平は、自分の知らない、空白の時間の未来を知っている。それだけで、相馬は胸の芯が傷むような気がしていた。
 だが、未来の無償の愛を感じ、一つの考え方に達した。
 未来が幸せであれば、自分も幸せ。
 相馬は康平の手術を通じて、愛の大きさについて学んだのであった。
 未来のお陰で、自信が回復し始め、たとえ彼女が幼なじみが好きでも、自分はずっと影から愛してつづけると決心を付けた頃受けた、あの情熱的な告白。
 ブレーキなど効くはずがなかった。普段は気をつけている避妊すらも、考えに及ばないほど、未来が欲しくて堪らない。
 情熱と至福の時間を忘れることは出来ない。今までで一番感じた、最高のセックスだった。
 これからようやく未来と真っ直ぐ前を見て歩いていける。そう思った矢先に、未来はあの原因不明の病気に襲われた。
 病で倒れる直前から、未来は少しおかしかった。
 未来の傍にいたくて、彼女を誰にも渡したくなくて、丁度空席だった午後診療の受付の仕事を頼んだ。
 いつも笑顔で応対してくれ、診療後は疲れ果てた相馬を癒してくれる。文字通りの女神だった。
 異変に早く気付くべきだった。自分の視線がない時、未来は明らかに気分が重そうな顔をしていたというのに。
 そして、あの、心臓が止まるかと思った一瞬を、忘れることは出来ない。
 病院の前に誰かが倒れているという通報を聞き、駆けつければ、なんと未来だった。
 そこからは未来を助けるのに夢中で余り覚えてはいない。
 彼女を抱き上げた時、想像以上に軽くて驚いた。ベッドに寝かせ、直ぐに処置を施したものの、未来は一向に目を覚まさない。
 昏睡の時間が長くなるにつれて、相馬の絶望が心に闇を広げ、初めて天を仰いだ。
 この状況で光があるとするならば、それは”もう一度未来の笑顔が見たい”という、自分の望みだけだった。
 あの時から家に帰らず、ずっと未来を診続けている。どんな医学書にも載っていない難病に、相馬はことごとく閉口した。
 だが諦めなかった。諦めたくなかった。愛する女性を、誰よりも大切な女性の命を諦めたくはなかった。
 今までの医療も頑張って従事したつもりでいた。だが、愛する者には違っていた。病名すら特定出来ないとしても、それでも懸命に治療に当たった。どんなことでも見逃したくなくて、細部にチェックを続けた。
 今まで何を勉強していたのか  何度も自分を責めたが、結局は、未来に救われた。
 不思議な少女さくらを通じて、未来と話し、その美しい心に触れることが出来たから。目的を失わずに来ることが出来たのた。
 未来を愛している  それだけが、相馬を動かす唯一の原動力だった。
 そして。最後には勝利をようやく手にすることが出来たのだ。それは僅か1時間前のこと。
 未来が目を開けた瞬間のことは、きっと、永久に忘れない…。
 永遠に愛することが出来る相手にようやく巡り会えた。相馬はあの瞬間に、未来を愛する奥深さを知ったのだ。

   □□□

 ゆっくりと目を開けると、未来が心配そうな表情で覗き込んでいた。
「…先生、お疲れじゃないですか?」
「…未来ちゃん。大丈夫だよ。君が意識を取り戻したって言う、最高の栄養を頂いたから、疲れなんてふっとんだよ」
 そこまで言った後で、相馬は未来の胸に顔を埋める。もっと近くで、彼女の鼓動を聞きたかったから。
「先生!?」
「少し…、このままでいさせてくれ」
「はい…」
 優しい未来の声が聞こえたのと同時に、ふわりと頭を抱きしめられたのが判った。
 このままじっとしていたかった。
 未来の温もりをしっかりと感じて、この幸せを心と躰に刻みつけた。
 暫くして、相馬は顔を上げる。
「さっきね、どれぐらい君を大切に想っているか、どれぐらい君を愛しているか、思い出してた…。僕は、ずっと君を好きだったよ。それが愛って気付いたのは、君と再会した時だったって、改めて感じてた」
「私も、先生を愛している時間も、深さも誰にも負けません…。だって、子供の頃からずっと好きだったんですから…」
未来…」
 顔を上げて、相馬は未来の唇にキスをする。何度か啄むようなキスをしてもまだ足りない。くすぐったいキスをしても足りない理由はわかっている。
「先生…」
 はにかみながら未来は相馬の目を見つめてくる。その瞳に意味を、相馬はよく知っていた。未来は幼い頃から、相馬に願い事があると、決まってこのような目線を向ける癖がある。
 どんな願い事なのか。きっと可愛いことに違いないと、相馬は目を細めた。
「未来、どんな願い事なんだ?」
「…先生、私、自分ではすっかり良くなったって、思うんだけれど、先生にちゃんとチェックしてもらえたらなあって、思うんだけど…」
 そこに艶を滲ませていることを、勿論相馬は判っている。彼も同じ気持ちだ。未来を検査したかったのだから。
「判った、直ぐ検査と診察をしよう」
「有り難う!」
 未来の泣き顔と笑顔には本当に勝てない。相馬はつくづくそう思うと、検査の準備を始める。
 未来の病の根本的な原因は、結局、判らずじまいだった。
 あの病というのは、自分たちに神様が与えた試練なのかも知れないと、今は思えるようになっている。幸せになるための重要なプロセスだったかもしれないと。
 神の存在やその他奇跡と言った、目に見えないものを今までは信じてはいなかった。非科学的なものは、何一つとして。
 昔、授業で読んだことのあるとても有名な物語で、「目に見えないものの大切さ」を謳ったものがあったが、学生の頃は共感を得なかった。だが、今なら共感出来る部分はある。目に見えないものが大切だと言うことが、未来と出逢いようやく判るようになった。
 その証拠は愛だろう。ふたりの愛は決して目には見えないが、しっかりと根ざしているのが感じ取れるのだから。
 相馬は様々な器具を準備して未来の病室に戻る。彼女はじっとベッドに座って待っていて、その姿すらも可愛く思えるのは、相当な”未来病”だろう。
「さてと、患者さん。色々検査するけれど、痛かったら言うんだよ」
「はい」
 少し生真面目になった未来を相馬は見守りながら、ゆっくりとベッドに寝かせる。
「自分で出来るよ、先生…」
「ダメだ。今日、意識を取り戻したばかり何だから、無理は禁物だよ」
「はい…」
 寝かせた後、、先ずは血圧を測る。心電図をチェックし、体温を測った後、血液も採取する。
「しっかり握り拳を握っていて。少し痛いかもしれないけど」
 相馬は未来の白い腕から浮き出た血管に、注射針を刺して採決する。
「…先生、採決上手いんですね。全く痛くない…」
「それはよかった」
 相馬は僅かに笑うと、注射針の痕をアルコールコットンで押さえてやる。ほんの少し無水エタノールの匂いが鼻を掠めた。
「先生の匂い…」
 未来は甘い微笑みを向けてくると、幸せそうに相馬の指に自分のそれを絡める。
「血圧とか、心電図、体温は異常ないよ。昏睡状態だったのが嘘みたいだよ。けれど、血液検査の結果が出るまではちゃんとおとなしくしていろよ」
「はい、先生!」
 おどけたように言う未来が言うと、相馬はそっと彼女の腕から手を離した。
「直ぐに検査に掛けてくるから、少し眠って待っていなさい…」
「はい」
 未来の血液を持って奥の検査室で、相馬は直ぐに成分を検査し始める。今すぐ小さな外科病院なら開業出来るほどの設備を、既に投入している。
 本当は、小さくて良いから、美容整形外科ではなく、自分の外科病院を持つのが夢だ。
 だが、人の死に関してデリケートすぎた相馬には、見果てぬ夢でもあった。
 だが  今なら出来るかもしれない。
 未来がいるから。彼女が傍にいれば、どんな夢でも叶うような気が相馬にはしていた。
 今回の血液検査はかなり本格的なものにしていた。様々なウィルス性の感染症から、腫瘍マーカーまで、あらゆるものを調べていた。
 そうしなければ、相馬の気が済まなかった。未来に関しては、どんな病気の兆候も逃したくはなかったから。
 これからもすっとそのつもりだ。未来を大切にして、病気や総ての彼女に降りかかる災難から守ってやりたい----相馬の決意は固かった。
 血液検査をし、結果は、未来の血は健康そのものだった。どこにもくもりはあろうはずがない。
「よかった…」
 何もないだろうとは、彼女のいきいきとした顔色を見れば判っていたが、やはりきちんとした形で結果が現れたのが嬉しかった。
 直ぐに待っている未来に知らせてやりたい。相馬は今までで一番明るい気分で彼女の病室に向かった。
 中に入るとはっとする。
 未来が愁いを帯びた瞳で、じっと窓の外を見ているのがひどく印象的だった。
 いつしか、夕方になっていた。夕焼けの空に横顔を映えさせる姿は、本当に美しい。こんなに綺麗な女性は見たことがないと、相馬は思った。ただ魂を吸い寄せられるように、相馬は未来を見つめていた。
「未来…」
 名前を呼ぶと、彼女がゆっくりと印象的に振り返る。それはまるで、映画の1シーンのように、くっきりと相馬の心に焼き付けられた。
「先生…」
「血液検査結果が出たよ」
 未来のベッドの前に置いている椅子に腰掛けると、じっとその顔を見た。
「どうでした?」
「文句が付けられないくらい、君は健康だよ。3日後にもう一度同じ検査を念のためにして、結果が今日と同じだったら、退院だ」
「よかった!」
 心からほっとしたように、未来は笑う。ようやくベッドから縛られずに済むのだ。だが、少し寂しそうな表情をする。
「…どうした?」
「退院は嬉しいけれど…、もう、先生にこんなにたっぷりいつでも甘えにくくなっちゃうって、思ったの」
 少し恥ずかしそうにするのは、やはり恋故の仕草。恋をすれば、本当に誰もが美しくなれるが、未来は一等美しく輝く存在だった。
「いつでも甘えてくれていいさ。退院してからも、ずっとね…」
「先生…」
 未来が”先生”とまだ呼ぶものだから、少し物足りない。晴れて彼女の恋人になった者としては、それよりももっと愛の籠もった呼び方で呼んで欲しい。思いを込めて、その唇を人差し指で軽く塞ぐ。
「名前で呼んではくれないのかい?昔みたいに…。でも”お兄ちゃん”はいらないよ?」
 目を合わせると、未来はよほど恥ずかしいのか、僅かに俯いた。その頬は華やかに赤らんでいる。
「…隼人さん…」
 小さく消えてしまうような声では満足しない。未来の綺麗な声で、ちゃんと名前を呼んで欲しい。
「もっと大きな声で、未来…」
 ”未来ちゃん”は相馬ももう言わないと決める。
 彼女は将来までずっと自分と対等のパートナーなのだから。
「隼人さん…」
「まあ、甘いけれど、合格にするかな」
「もう」
 本当に恥ずかしかったのか、未来は、真っ赤にして相馬の肩に顔を寄せた。
「…ねえ、隼人さん。もう少し甘えて良い?」
「良いよ?」
 ベッドに座って抱きしめてやると、未来は安心したように、相馬に抱き付いてくる。柔らかな温もりは、もう二度と離れない、相馬だけのもの。
「隼人さんとこうしてると、落ち着くのと同時に、安心するの」
「僕も未来を抱きしめられるだけで幸せだよ」
 お互いに薄い布を通して温もりが伝わり合う。本当に温もりという者は、人間を幸せにしてくれる。
「退院したら、隼人さんとデートしたいな」
「デートしよう。どこに行きたい?」
 ふわりとした笑顔を向けると、未来は更に甘えるように躰を付けてくる。甘い肢体に興奮を覚えたが、未来のために何とか欲望を抑え込む。
「チェリーランドで遊んで、桜の丘で隼人さんと沢山お喋りをして、アルーラのラザニアが食べたい…」
「いいよ」
 相馬は可愛い願いに目を細めながら、しっかりという頷いてやった。こんな事はお安いご用だ。
 未来との本当の意味での初めてのデートは、思い浮かべるだけで幸せな気分になれる。
「それとね…」
 顔を真っ赤にしながら、未来は上目使いで相馬を見た。強請る眼差しには、全く弱い相馬だった。
「……いっぱい、いっぱい、キスして欲しい…」
「いいよ」
 微笑みと同時に、返事が代わりに軽く手始めにキスをしてやった。
「それと…」
「まだ、あるのかい?」
 未来の小さな愛の願いなら、どんなことでも聞いてやれると思うのは、やはり恋する男の切なくも華やいだ心の内故か。
「………あのね、隼人さん…。あなたにいっぱい、いっぱい、抱いてほしい……」
 可愛すぎる願い事に、相馬は情熱のまま未来を抱きしめて、耳元に唇を寄せる。
「…いいよ、喜んで…。そのデートが出来るように、一生懸命直そうな?」
「はい!」
 未来の返事は明るく、少し甘えたものも入っていたが、それは相馬だけに見せるものだと、彼は充分判っていた。




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