第1章
丹波は通りの要にある。 東に行けば京に辿り着き、西に行けば毛利が支配する西国に抜け、更に南を行けば大坂に出る。軍事面では重要な意味を成す、美しい里である。 要であるが故に、天下を欲す者にとっては、抑えなくてはならない場所の一つであった。 そのためか、丹波を治める相馬一族にとって、天下人への見極めは至極重要であると言えた。自分たちが生き残るためには、時の権力者に平伏しなければならないからだ。 時にはそれを見誤ることがある。 先の城主が、時の天下を掌握しようとしている織田信司と結ぶのではなく、西国の大大名毛利と同盟を結んだが故に、今、窮地に立たされている。 それ故に、丹波一の美しい山として讃えられる朝路山にある、難攻不落と言われた八上(やかみ)城が、相馬にとっては大きな砦となっていた。 丹波は、八上城を拠点に、相馬氏が強く支配をしている場所である。八上の他に、亀山などに40の支城がある、戦国大名である。 先ほど側室腹の秀春が元服をし、城主と相成った。北の方の嫡男を抑えた、異例の城主の誕生である。この城主争いも、丹波を二分する激しいものであったが、秀春の母桜光院がその策略で反対する勢力を押さえ込んだ。 城内もかなり荒れた跡目相続も、桜光院とは似ても似つかない秀春の温厚な人柄でようやく沈静化し、正妻を迎えることとなった。 正妻になる姫は美濃の小大名の姫であるが、大変才気に溢れ美しいと評判である。数多の縁談があったものの、一番条件の良い”正妻”として迎えられるこの相馬家への輿入れとなった。織田軍に属する明智光希とは遠縁に当たる姫であるが、織田軍の攻撃を抑えるにも姫は絶好の”人質”でもあった。 美濃からの輿入れの行列が、今、まさに八上城に辿り着こうとしていた。 途中京に寄り、旅の安全と姫の行く末を祈った後、ようやく丹波に入ったのは、美濃を出てから20日余り経っていた。 輿入れする姫の名前は未来。まだ15である。 「姫様、間もなく八上城でございます」 「…はい…」 未来は小さく返事をすると、背筋を伸ばして決意を固める。 これで優しい子供時代とは別れを告げるのだ。 温かな思い出が満ちた初恋の日々にはもう戻れない…。 裳儀を済ませ、鬢曾木をした立派な大人なのだ。 もう尼そぎの昔には戻れない…。 いつものように侍女を連れ、未来は庭で鞠をついて遊んでいた。 未来5歳。 まだまだ子供である。 不意に視界に長身の青年が目に入る。見つけたら、もういてもたってもいられない。 「光希様!」 いつも父親を訪ねてくる大名明智光希を見つけ、未来は笑顔で近付いていく。 幼い頃から可愛がってくれている、大好きな男性だ。 明智光希は豪放磊落な闊達さと明晰な頭脳が同居する、大変魅力的な人物である。厳しく冷たい面も無精として持ち合わせてはいるが、特に未来には優しく接してくれていた。 未来は走って光希の元に向かう。「姫様、おはしたのうございますよ!」と侍女に止められても関係ない。 「光希様!」 「ああ。これは姫か!」 大きく広い躰に抱き付くと、とても良い香りがする。それに酔いしれていると、いつものように光希がひょいと片手で抱き上げてくれた。 目線がようやく合うのが嬉しい。 「こんにちは姫」 柔らかく微笑んでくれるのが未来は大好きだ。優しさと温かさが籠もったふんわりとした笑顔-----それは自分だけに向けられたもののような気がして、とても幸せな気分だった。 「光希様! 私はいつ光希様の奥様になれるのですか?」 「姫…」 光希は苦笑いをし、未来を困ったように見つめた。 「姫様、光希様が困っておいでになられますよ!」 侍女に言われても未来は惹かずに、ただじっと光希を見つめている。 光希は未来の父が同胞とする織田軍の先鋒で、最近めきめきと力を付けてきている。今や織田信司の片腕になろうかという逸材だ。 だが、この幼い姫にかかっては立派な武将である光希もいつも形無しだ。 「-----姫が裳儀を受けられて、君のお父様が私の元に嫁ぐことを許してくれたらね」 宥めるように言う光希に、未来の機嫌も悪くない。 「ホントに? 約束して下さいますか?」 未来はもちろん本気なので、真摯な眼差しを光希に向ける。それには光希も苦笑せずにはいられなかった。 「ああ。約束しよう。姫をちゃんと奥に迎えるから…」 「ホント! 嬉しい!!」 ぎゅっと未来は光希の首に抱き付く。とても良い香りがして心地よかった。 「これ姫、また光希殿を困らせておいでかな?」 「お父様!」 父親もまた穏やかな笑みを浮かべながらこちらにやってくる。唯一の姫である未来には、彼もまた甘いのである。 「お父様、光希様の奥様に私をどうかしてくださいませね?」 「う〜ん。それは光希殿次第だな…。光希殿は、既に奥方があるのだし…」 本当に父親は困り切ったように唸っている。だが、子供の未来にはそんなことは関係ない。 「私は絶対に光希様の北の方になるのです!」 「困ったのお…」 父親が苦笑いすると、光希は堪らなかったのか闊達に大笑いしだした。 「…判った姫。君が大きくなって、美しくなり、私の心を奪ってしまえば、奥方の件ちゃんと考えよう!」 「本当ですわね? きっとですよ!!」 「ああ、約束する…」 幼い未来はその約束がきっと守られる者だと、信じて疑わなかった。 あれから9年-----未来は才気に溢れて育ち、その美姫ぶりは諸国を轟かすほどになっていた。 そして。約束は破られるためにあるものだと、この時知った------ 「おまえの輿入れが決まった。西国丹波の相馬秀春殿の所だ」 この言葉を父親から聞き、未来は全身から力が抜ける思いだった。 人より少し輿入れが遅いのは、きっと光希が北の方に自分を迎えるために何とかしていると、思っていたのだ。 しかし、実際は、別の大名に嫁がされる運命だったのだ。 「…おまえの裳儀は1年後を予定しておる。その後に、西国に出発することになるだろう」 「-----お父様」 知らせを重く受け止め、それからというもの、未来は気分が下がっていくのを誰にも悟られることのないように、婚礼の準備や修行を行った。 そして------裳儀の前日、鬢曾木の立ち会いのために、光希が城を訪れたのだ。 もう子供ではない。 未来は今までのように駆けて光希の元へは行かず、ただ庭に面した縁側で、ずっと池を見つめていた。 「姫は、私を迎えては下さらないのか?」 「光希様…」 甘く深い微笑みを浮かべると、光希は未来の横に腰掛ける。 この10年で光希はめきめきと頭角を現し、織田軍のナンバー2になっていた。 今や、未来の父親などは足下にも及ばない大大名である。 隣りに大好きな人がいるのに、もう側にいられないのは辛い。未来は愁いを秘めた眼差しで宙を見つめた。 大人びた眼差し----- 確実に月日は少女を成長させ、透明感のある美しい女性になっていた。 光希が息を呑むのが聞こえたが、未来はそれがまさか自分の美しさでした行為だとは、到底思いつかなかった。 「----輿入れが決まりました…」 「そうらしいな…」 低い声でただ光希は頷く。 「西国丹波の相馬秀春様のところです…」 明るく言う事なんて、光希の前では出来ない。未来は愁いを身に纏いながら、小さく言った。 「丹波は美しいところだと聞く。相馬の居城のある八上城は、丹波富士と呼ばれて大層美しいそうだぞ」 「お父様からも、お遣いの方からも聞きました…。でも私は…」 そこまで言って未来の瞳には涙が溢れてくる。目の前の大好きな人は、どうして自分を受け入れてくれないのだろう。そう考えるだけで心が震え、胸が締め付けられた。 「-----私は…、光希様の元に嫁ぎたかった…」 「姫…」 絞り出された低い声は明らかに苦しそうで、未来の心を打つ。 「-----姫が私の元に嫁いでも、側室にしかしてやれない…。側室は辛いぞ? それに、私の側室になるには姫は身分が高い。私は天下人でも何でもないから、聞けない願いではあるんだ…。せめて、私がそう言う人間だったら、聞いて差し上げることが出来たかもしれぬがな…。それに、相馬なら、きっと姫を幸せにしてくれる」 光希は目を合わせなかった。 いつものように笑わない光希が未来は辛くて切ない…。 自分が笑わないから、彼も苦しいのだ。 そう思うと、これ以上困らせたくはなかった。精一杯の彼なりの答えをくれたのだ。それで満足だ。 「-----そうですね…。我が儘ばかり申して申し訳ございませんでした」 未来は心からどす黒い感情を拭うと、勤めて明るく微笑む。その笑顔は太陽よりも明るく無邪気だ。 素直に明るい。 光希が目を眇めたことを、未来は小首を傾げてみていた。 「明日の裳儀の鬢曾木、宜しくお願いします。これでわたしも大人の仲間入りですね?」 「そうだな」 屈託なく未来は精一杯笑う。 目の前にいる男性に苦しい表情はして欲しくない。今自分で見て、苦しかったからそう思った。 いくら愚痴を言っても、縋っても、もう何も変えることは出来ない。 ならば------せめて、最後だけは明るく別れたい---- 「では、光希様、今日はこれで…」 それだけを精一杯言うと、未来は自分の部屋に引きこもる。 部屋に入り、溢れる涙を止めることが出来ずに、どうしようもない自分が、切なかった----- 翌日。 未来姫の裳儀の鬢曾木が行われた。 尼そぎから大人の女性へ。 父親と光希に髪を削いで貰った。 「姫…」 甘く囁かれた後、光希は真摯な眼差しで未来の前髪を剃る。 剃刀の刃は冷たいはずなのに、今日はなぜか暖かさがある。きっと光希の手によるものだから。 真摯に光る光希の瞳を見つめ、未来は切なさに身を捩りたくなる。 このまま時間が止まってしまえばいい。このまま光希に連れ去って貰いたい。 だがいくら思っても、それは叶わぬ夢だ。 「-----美しい…。本当に美しいの、そなたは…」 裳儀が終わり、未来は完全に大人になった。まだ今の髪型が面はゆく思える。 父親の絶賛も、余り嬉しくはなかった。 儀式の後、祝宴が成される中、未来は、思い出の庭に佇んでいた。 そこは幼い頃、光希に遊んで貰った思い出の場所であった。 「姫、こんなところにいたのか…」 「光希様…」 月夜に映し出される光希は本当に素敵だった。 もうこの姿を見ることも叶わなくなる-----未来の胸は激しく軋んだ。 「…いつまでも子供でいられたらいいのに…」 「姫…」 「何も知らず、ただ無邪気にいられたらいいのに…。けれどもそれは、時が許してはくれませんね…」 切なく言いながら光希を見つめると、その瞳は僅かに陰っている。それが胸が苦しくさせる。 「…明日には、丹波に出発いたします…。光希様もお元気で…。光希様のご武運をお祈り申し上げております…」 未来は大きな瞳に涙をいっぱい溜めると、そのまま華奢な躰を折り曲げた。このまま光希を見つめていれば、泣いていることがばれてしまうから。 それを最後の夜には知られたくなかった。 「…姫…!」 声をかけられてはっとする。 次の瞬間、未来は温かな腕を感じた。 光希に抱きしめられている------ その事実を知ったのは、甘く胸を乱す香りを嗅いだからだ。 「…姫のご無事を祈っています…」 「光希様…」 その言葉で充分だった。 涙が頬を伝って溢れる。 「私を忘れないで…」 「忘れない…」 未来は光希の胸に顔を埋めると、たった一度だけ、彼の腕の中で震えて泣いた。 これが終われば、もう、光希のことを忘れてしまわなければならない。 月が曇ると同時に、胸が軋んだ----- 翌日。 未来一行は西国丹波に向けて美濃を出発した。 遠くからは、馬上の光希が見送ってくれる。 漆黒の髪が朝陽に輝き精悍な美しさを増している。背筋を伸ばす姿は、確かに、未来がほのかな想いを寄せた男性----- 二度と会えない。 その姿を瞼にしっかりと焼き付け、涙ににじませながら、未来は故郷を後にしたのだ----- 思い出にいつまでも引きずられてはならない。 未来は背筋を伸ばし、真っ直ぐと八上城を見つめる。 ここから私の人生は始まるのだから…。 とうとう城に入り、未来は秀春との対面に向かうことになる。 派手な出迎えに、未来はいよいよ覚悟を決めなければならなくなる。 ここで生きていくのだ。 この美しい地で生涯を暮らすのだ。 「未来姫様、到着されました!」 仰々しいかけ声と共に、侍女を連れて未来は城の内部に入った。 緊張の余りに掌間で汗をかいてしまう。 対面する広間に通されて、未来はそこで正座をして待った。 しっかりとした優雅な廊下を摺る音が聞こえ、未来は姿勢を正す。 その足音は遠い昔に知っていたような気がした。 「秀春様、未来様でございます…」 「未来様、八上城城主相馬秀春様です…」 ぴたりと足音が止まったのを合図に、未来は顔を上げた。 目の前に現れた青年に息を呑む。 胸の奥が締め付けられる。 遠い遠い昔に出逢ったことがあるように、優しい瞳。 優美な青年の美しさに、未来は見つめずにはいられなかった。 温かい-----心からそう思ったのは、とても不思議だった。 「未来姫…。噂通りに本当に美しい…」 感嘆に満ちた声に、未来は恥ずかしくて少し頬を赤らめたが、気分は悪くはなかった。 「未来姫…」 優しく深みのある声が心に降りてくる。 そっと跪いた笑顔の似合う男性は、未来の手を手に取り、柔らかく囁いた。 「そなたを幸せにする-----未来」 しっかりと力強く言われ、未来は導かれるように頷く。 これから未来の真の人生は幕を開けた----- つづく |
| コメント 「相馬前世編」をもっと掘り下げたくて、考えた創作です。 光希がなぜ相馬をなかなか攻めきられなかったのか、その辺りの理由も書きたかったのです。 あれじゃあ、秀春は浮かばれません。 秀春、未来、光希、そして千早丸を軸にした戦国話です。 勿論恋愛が主流(笑) 宜しくお願いします。 |