中編
東京駅を出発する列車を見送りながら、大地は溜め息を吐いた。 かなでが故郷に帰ってしまった。 両親と進路を話し合うという。 高校を卒業しても、田舎に帰って欲しくない。 それは大地の強い希望だった。 贅沢でわがままな希望であることぐらいは、充分に解っている。 それでもどうしても残って欲しかった。 自分はまだ一人前ではないから、かなでを引き止める資格はない。 しかも一人前の医師になるには、まだまだ時間がかかるのだ。 普通に社会人になるよりも、遥かに時間はかかる。 今の大地にはそれがもどかしくてしょうがなかった。 だからこそそばにいて欲しい。 大地はわがままだと思いながらも、強くそれを祈った。 横浜に着くと、かなでがいない寂しさに胸が痛くなる。 かなでがいない。 ただそれだけで、横浜が色褪せた街に見えてしまう。 切なくて堪らなかった。 どうか、かなでがこのまま学院に止まる選択をしてくれますように。 海外に行くのではなく、この日本をフィールドに頑張ってくれますように。 大地はそればかりを考えていた。 家に帰り、大地はカレンダーを眺める。 かなでが帰ってくる四日に迎えに行けたら。 かなでの家が何処なのかは、住所を見て知っていた。 ならば、迎えに行きたい。 そして、このまま横浜で勉強が出来るように、かなでの両親を説得したい。 大地は意思を固めると、早速、チケットを買いに行くことにした。 久し振りの故郷はやはり落ち着く。 清々しい気分でいられるのが心地好かった。 横浜土産には、ハーバーと、霧笛楼の横浜煉瓦を買っていった。かなでもかなりお気に入りだ。 「ただいま」 かなではのんびりと家のドアを開けて、中に入った。 「おかえりなさい、かなで」 母親が直ぐに出迎えてくれ、温かな気分になる。 田舎にいる頃は出迎えられるのが当たり前だと思っていたが、それは決して当たり前ではないことを知った。 「お母さん、お土産を買ってきたよ」 「ゆっくりしなさい。疲れたでしょう」 「有り難う、お母さん」 やはり家はのんびり出来て嬉しい。 自分の家だからこそ言えるわがままだってあるのだ。 かなでは自室に入って荷物を置くと、ゆっくりとすることにした。 実家に帰ってきた。 のんびりしながらも、人生の分岐点をよくよく考えられる時間なのだ。 家でのんびりと過ごしながら、進路のことを考える。 田舎に帰ってきたら、確かに楽かもしれない。 だが、それではまた同じことになってしまうのではないかと、かなでは思った。 また、同じように、微温湯に漬かる日々になる。 それは絶対にいやだった。 そして朝起きた時に、モモと散歩が出来ないことが、この上なく寂しかった。 大地とモモと一緒に散歩がしたい。 横浜がこんなにも恋しいとは、思ってもみないことだった。 「かなでちゃん、実家はやっぱり良いでしょう? のんびり出来て」 「そうだね…」 のんびりとしながらも、かなではふと思う。 ここに戻っては、ヴァイオリニストとしての未来がなくなるかもしれない。 そして大地との未来も。 「こっちの大学でも良いんじゃないの、かなでちゃん。何も横浜でなくても…」 母親は溜め息を吐きながら、かなでを心配そうに見つめる。 母親にこうして心配そうに見つめられるのは弱い。 だが、かなでは返事をすることは出来なかった。 「…お母さん、私ね…」 言いかけた時、祖父がキッチンにやってきた。仕事の合間にお茶を用意している。 黙って話を聞いているようだった。 「おじいちゃん、後で工房に行って良いかな?」 「ああ、おいで」 「うん、有り難う」 かなでは頷くと、お茶の準備を終えた祖父と一緒にヴァイオリン工房に向かった。 ヴァイオリンのメンテナンスを頼んでおいたのだ。 「お前のヴァイオリンのメンテナンスは終わっているよ」 「うん、有り難う、おじいちゃん…」 かなではにっこりと笑うと、祖父からヴァイオリンを受け取る。 「かなで、ヴァイオリンを弾いてみてくれないか? 久しぶりにお前のヴァイオリンが聞きたい」 「うん、おじいちゃん」 かなでは大好きな祖父に言われた通りにヴァイオリンを構えて奏で始めた。 まさか自分がこんなに情熱的だなんて思ってもみなかった。 女の子のために、その故郷に向かうなんて思ってもみなかったから。 かなでにはどうしても横浜にいて欲しかった。 横浜にいて、ふたりで愛を育んでいきたかった。 大地はかなでの故郷の駅に降り立っていた。 かなでを田舎になんて帰らせやしない。 横浜にずっといて貰いたい。 ただそれだけで。 大地はタクシーに乗り込み、かなでの住所を運転手に告げる。 「ああ、小日向ヴァイオリン工房だね。兄さんもヴァイオリンをやるのかね?」 「いいえ、俺はヴィオラです」 「あの工房のヴァイオリンはピカイチだよ」 タクシーの運転手の話を聞きながら、大地は緊張してきた。 かなでの祖父はヴァイオリンの腕が良い職人だと律から聞いている。 果たして、かなでが大学も横浜に止まることを許してくれるだろうか。 それが不安だった。 ヴァイオリンを奏で終わると、祖父は優しい笑顔を浮かべながら、頷いてくれた。 「かなで良い演奏だった…。横浜でかけがえのないものを掴んだようだね」 祖父はそこまで言うと、眼鏡の奥からかなでを真直ぐ見つめてくれた。 「…おじいちゃん…」 「お前の中では、もう進路は決まっているんじゃないのかね?」 祖父に痛いところを突かれて、かなでは目を見開いた。本当にその通りだから何も言えない。 「こちらに帰ってきても、お前を更に成長させる要素はないよ。迷わず、両親にも遠慮をせずに、自分で決めたことを突き通しなさい。かなで、横浜に出て行った時のお前の勢いはどうした? あの時横浜に出してくれたからこっちに帰らなければならない、などという遠慮はいらない。それに…、お前が横浜で大切にしているものが来たようだ」 祖父に指摘されて、かなではハッとする。 振り返ると、そこには大地がいた。 大地がタクシーから降りると、小日向ヴァイオリン工房から、温かくて澄んだヴァイオリンの音色が聞こえてきた。 誰が弾いているかは直ぐに分かる。 かなでだ。 大地の魂を最も揺さぶる音色だ。 大地は吸い寄せられるように工房に向かう。 この音色がなければ、生きてはいけないと思いながら。 「…大地先輩…」 まさか大地が故郷まで来てくれるとは、かなでは思ってもみなかった。 「…君には横浜に残って欲しかったから、いてもたってもいられなくて、ここに来た…」 大地は真摯なまなざしをかなでに向けてくれている。 そこにはストレート過ぎるぐらいな恋心が滲んでいた。 「…ひなちゃん…」 大地に見つめられるだけで、かなでは泣きそうになる。 こんなにも想ってくれている恋人がいるのに、何を迷っているのだというのだろうか。 かなでは深呼吸をすると、大地を見た。 もう迷いはなかった。 祖父もそれに気付いたようでただ頷いた。 「かなで、お前の中で決着がついたようだな。…早く伝えてあげなさい。うちの裏でも案内しながら」 「うん、解った」 祖父はふたりきりでじっくり話しなさいと言ってくれている。 有り難いことだ。 「大地先輩、うちの裏の花畑はとても綺麗なんです。お散歩しましょう」 「あ、ああ」 祖父の前でも気にすることなく、かなでは大地と手を繋いで、裏庭に向かった。 |