*ふたりの距離感*


 大好きなひとは、理事長。

 だから、禁忌な関係といえるのかもしれない。

 けれども、ひとの心は自由だから、恋愛してもそれは良いということになる。

 恋をしている。

 熱烈に。

 大好きでしょうがない。

 理事長以外に、男の人は考えられないというのに、大好きな人は大きな壁を隔てて、香穂子を見ている。

 とても冷静な目で。

 だからこそほんのりと悔しい気分になる。

 香穂子は、どうしたら生徒としてではなく、子供ではなく、ひとりの女性として見られるのだろうかと、つい悶々と考えてしまう。

 吉羅は難攻不落の城のように思える。

 いくら背伸びをしても、急いで追い付こうとしても難しい。

 香穂子にとっては、永遠に追いつくことが出来ないのではないかと、思わずにはいられない。

 大好きな人に、女性として認めてもらえる日が果たしてやってくるのだろうか。

 そんなことばかりを、香穂子は悶々と考えていた。

 

 今日は土曜日。

 今日のスケジュールは決まっているのだ。

 香穂子の中では。

 今日は、臨海公園で、ひとりでヴァイオリンの練習をする。

 それは決まっている。

 練習は集中して、あくまで真面目にやるが、それはあくまでだ。

 そのあとに大好きなひとからのお誘いがあれば、勿論、行くつもりだ。

 大好きなひとだから、一緒に行くのだ。

 最近では、毎週土曜日に吉羅とランチをするのが、定番になってしまっている。

 たまには、クラシックコンサートに向かい、夜まで一緒にいることがある。

 それはあくまでまれで、いつもはランチだけで終わる。

 それでも香穂子にとっては、まるでデートをしているような幸せな気分になれるのだ。

 それが嬉しい。

 ドライブがてらにランチに行くから、今、吉羅とデートをしているのだと妄想してしまう。

 それもまた楽しいことではある。

 今日は、レースを使った少し甘いマキシスカートと、上はグレーのシンプルな長Tシャツと白いパーカーを合わせる。靴はスニーカーという、あくまでカジュアル路線だ。

 カジュアルにしているのは、吉羅にきをてらっていると思われたくないからだ。

 そこは香穂子の妙なプライドが邪魔をする。

 吉羅に恋をしていることは確かだし、それを隠すつもりはない。

 ただ、あからさまにはしたくはないという、微妙な乙女心は潜んでいるのだ。

 だからこそ、あえてきれい目なカジュアルを選んだ。

 香穂子は何度か自分の姿を確認したあと、臨海公園へと向かった。

 

 臨海公園に赴くと、様々な音楽家が練習をしている。

 香穂子にとっては、この環境はかなり有り難いものだった。

 やはりこうして、様々な人々と切磋琢磨しながら練習をするというのは、良いものだと思っているからだ。

 香穂子はヴァイオリンに集中すると、苦手なポジショニングを練習し始めた。

 練習をしている間は、本当にヴァイオリンに集中出来る。

 周りが見えなくなる。

 この時には流石に吉羅のことばかりを考えない。

 香穂子にとってはそれも大切な要素にはなっていた。

 

 時間を忘れてしまうぐらいにヴァイオリンに熱中していると、静かで落ち着いている気配を感じた。

 途端に香穂子は落ち着けなくなってしまう。

 ほんのりとしたムスク系のコロンの香りは、香穂子をドキドキさせて、恋心が一気に爆発しそうになってしまう。

 喉がからからになるぐらいに落ち着けないでいると、吉羅が香穂子の前で歩みを止めた。

「日野君、練習に精が出るね」

「吉羅理事長!」

 つい逢えた嬉しさで、香穂子は弾むような明るい声を出してしまう。

「そろそろ昼時だから、私のランチに付き合って貰えるかね?君に練習の成果がどれぐらい出ているのか、訊いておかなければならないからね」

「はい。分かりました。調子はまあまあです。大学の音楽学部の推薦入試が、近いですから」

「君の場合は、先ず、合格することがスタートラインだからね」

「はい」

 吉羅は本当にクールだ。

 クール過ぎると言っても良い。

 香穂子は、それが妙に切ない。

 そこからは愛なんて感じられないから。

「行こうか」

「はい」

 言うなり、吉羅はスタスタと行ってしまう。香穂子よりは、三歩前を歩いている。

 いつか並んで歩けるようになったらと思わずにはいられない。

 吉羅について行き、香穂子はいつものように車の助手席に乗り込む。

 車は小さな空間だから、吉羅をより近くに感じてドキドキしてしまう。

 意識しすぎてしまうのだ。

 車が動き出す。

 本当は吉羅だけを見つめていたいけれども、それだとあからさますぎて恥ずかしいから、香穂子はつい景色と吉羅を交互に見つめてしまう。

 そうしないと心臓が持ちそうにない。

「イタリアンレストランに向かうから」

「はい」

 イタリアン。きちんとした格好でなければいけないのだろうか。

 香穂子は急に自分がカジュアル過ぎるスタイルであることが、気にかかってしまう。

「吉羅理事長、私の格好はカジュアル過ぎるのではないでしょうか?レストランには合わないかも……、しれません」

 香穂子は気後れしてしまい、ついしゅんとしてしまう。

「そんなことはないよ。その格好で充分だ」

 吉羅はどうでも良いことのように、あっさりと呟いた。

 吉羅の言葉に、香穂子はホッとすると同時に、何故だか切なくもなった。

 子供に相応しい場所だからなのか。

 そう思うと、かなり複雑な気持ちになる。

 香穂子はほんの少し拗ねるような気持ちになる。

 香穂子は吉羅の横顔を見つめながら、埋まることのない年の差を感じていた。

 

 イタリアンレストランは、それほど敷居が高いという雰囲気ではなかった。

 香穂子はホッとして美味しい食事を楽しむ。

 吉羅と肩の力を抜いた話をするのは本当に楽しくて、無邪気な気分になる。

「吉羅理事長が連れてきて下さるお店は全部美味しいです。土曜日のお昼の楽しみになっていますよ。胃袋の」

「その成果は、ヴァイオリンに出して欲しいものだね」

「はい、頑張りますね」

 香穂子は笑顔で呟きながら、爽やかな決意を滲ませた眼差しを吉羅に向けた。

 

 食事のあとは、海岸に下りて香穂子は散歩を楽しむことにした。

 子供と思われても良い。

 無邪気に散歩をするのは、子供に戻ったようで楽しい。

 ちらりと吉羅を見ると、まるで幼い子供を見つめているようだ。

 少し柔らかな表情を吉羅がしたから、香穂子はつい笑顔で手を振った。

「理事長!」

 香穂子が楽しく手を振っていると、不意に身体のバランスを崩してしまう。

「あっ!?」

 香穂子はお約束にも砂浜に足を取られて転んでしまいそうになる。

 吉羅が慌てて香穂子に手を伸ばしてくれたかと思うと、その身体をしっかりと抱き留めてくれた。

 その瞬間、吉羅の逞しい感じていた身体を意識してしまい、胸をドキドキさせずにはいられない。

 抱き締められたい。このまま。

 その想いが伝わったのか、吉羅が香穂子の身体を抱き締めた。

「……理事長……」

 香穂子は一瞬息を呑んだが、真っ赤になって、甘い声で吉羅の名前を呼んだ。

 すると吉羅は素早く香穂子から包容を解く。

「……君は、不注意にもほどがあるよ、日野君」

 吉羅は何でもないことのように呟き、香穂子に背中を向ける。

 香穂子は切なく苦しい胸を抱えるしかなかった。



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