*ふたりの距離感*


 香穂子は本当に綺麗になった。

 吉羅自身が恋い焦がれてしまうぐらいに。

 それほどまでに魅力的で美しい女性に成長した。

 理事長と生徒。

 確かに禁忌な関係ではある。

 だが、それを乗り越えてしまいたくなるぐらいに、香穂子は魅力的だった。

 吉羅はつい恋い焦がれてしまう。

 本当に香穂子は魅力的だった。

 だからこそ、自分を抑えなければならない。

 このままでは、激情にかられて、香穂子に愛していると、告げてしまいそうになるから。

 実際に恋い焦がれてしょうがない相手だから、距離を空けなければならないと、吉羅は自分自身に言い聞かせる。

 だが、それはどういうことに繋がるかは解っている。

 吉羅自身に嘘を吐くことであり、香穂子を誰かに奪われる可能性があるということだ。

 吉羅は胸の中が苦い気持ちでいっぱいになるのを感じながら、香穂子にあえて背中を向けた。

 

「日野君、送ろう」

「有り難うございます」

 背中を向けたまま声をかけたからか、香穂子は沈んだ声で「はい」と答えた。

 香穂子が静かに吉羅の後をついてゆくのが分かる。

 車まで戻り、ちらりと香穂子を見つめると、何処か切なそうな憂いある表情を向けていた。

 その表情すら、うっとりとしてしまうほどに、綺麗だった。

 香穂子がこのまま吉羅のものになれば良いのにと、つい考えてしまう。

 吉羅は車を静かに出して、横浜方面へと走らせていった。

 車中では殆ど話すことはなかった。

 ただ、静かな空間が流れるだけだ。

 横浜に近づくと、吉羅は段々切なくなってくるのを感じる。

 離れたくない。

 話さなくても良いから、もう少しだけ一緒にいたかった。

 横浜の街が見えてくる。

 今日はこんなにも切ない顔をさせたままで、返したくはない。

「日野君、何処かカフェにでも行くかね?甘いデザートはいかがかな?」

 吉羅が声をかけると、香穂子の表情は途端に明るくて愛らしいものになった。

「有り難うございます。嬉しいです!」

 香穂子の横顔が誰よりも明るく輝いている。

 この笑顔のためならば、何でもしてあげたいとすら、吉羅は思った。

 笑顔だけでそう思わせるのは、香穂子しかいない。

 今までも、そしてこれからもだ。 

 香穂子以外に、吉羅が本当に何でもしてやりたいとつい思ってしまうのは、香穂子以外にはいないのだ。

「では、とっておきのケーキが美味しいお店にしようか」

「はい、有り難うございます!」

 我ながら、餌付けだとは卑怯だとは思ってはいるが、香穂子の笑顔を見たいからに過ぎなかった。

 切ない表情は何処かに行ってしまったので、吉羅は柔らかな気持ちで車を走らせた。

 

 カフェに入ると、吉羅も香穂子も同じ紅茶を注文をする。

「理事長、有り難うございます。嬉しいですよ。甘いものは脳の栄養になりますから」

「それは良かった。私にも脳の栄養は大切だからね」

「勿論ですよ。理事長は、色々と考えなければならない立場にいらっしゃいますから」

「有り難う」

 吉羅は礼を言ったところで、香穂子を真っ直ぐ見た。

 今は完全にプライベートで会っていると吉羅は思っている。

だからこそ、香穂子が“理事長”と何度も畏まって言うのが気になって仕方がなかった。

「日野君、私たちは確かに、理事長と生徒だし、それを弁えて理事長と呼んでくれていると思っている。しかし、今は完全なるプライベートであると、私は思っているからね。だから、理事長の肩書きは止めてもらえないかね?せめて、吉羅さんと、呼んでくれたまえ」

 吉羅はさりげなく言ったが、本当は、この瞬間には、理事長だなんて呼んで欲しくはなかった。

 理事長と呼ばれるたびに、香穂子との間にある埋めることが出来ない差を感じさせられてしまうから。

 公的な席でないのならば、普通に呼ばれたかった。

 ひとりの男として見られたかった。

 最初は、香穂子も驚いてしまったようだったが、直ぐに笑顔になる。

「分かりました。吉羅さん。私もそのほうが嬉しいですよ。吉羅さんが手に届かないんじゃないかって感じて……。あっ!ごめんなさい、何でもないですっ!」

 香穂子は耳まで真っ赤にしながら、必死になって誤魔化そうとしている。

 その表情すらも可愛い。

 だが、以前ならば無邪気な子供のような表情だと思っていたが、今は違う。

 同じように無邪気な表情をしていても、もう子供っぽくは見えない。大人の女性特有の透明感のある美しさがそこにはあった。

 透明感がある天真爛漫で無垢な美しさというのは、誰もが出せるものではない。

 吉羅は、心も純粋で美しいひとにしか出せないと思う。

 稀有に美しい表情。

 吉羅の魂を揺さぶる、美しさと豊かさがそこにはある。

 綺麗だ。

 いつまでも見つめていたいと思う。

 このまま手を伸ばして、そのままこの腕に閉じ込めることが出来たら良いのに。

「吉羅さん、このケーキも紅茶もとっても美味しいです。やっぱり、甘いものは別腹だっていうのは、本当ですね!」

 香穂子の明るい元気な声で、吉羅は我に帰る。

「そうだね。女性はそういうね。私は脳を動かすのに必要だから食べているけれどね」

 見とれていたことを知られたくなくて、吉羅はわざと素っ気なく答えてしまった。

「脳に栄養ですか。受験生の私にはぴったりの表現かもしれないですね。有り難うございます。これで甘いものを食べる言い訳が出来ました」

 香穂子は、いくら吉羅が素っ気なくしても、明るい対応をしてくれている。それがとても嬉しい。

 本当は、吉羅よりも香穂子のほうが大人なのかもしれなかった。

「受験に役立つかもしれないね」

「はい。もうすぐですから追い上げますね」

「それが良いよ。甘いものが欲しくなったらいつでも私を呼びなさい。短い時間なら、ケーキぐらいなら食べに連れていってあげられるからね」

 それが、香穂子に会える口実になるということは、吉羅は十分に解っている。

 だから口実になる事実を、香穂子に与えたかった。

「本当ですか?本気にしちゃいますよ!」

「ああ、本気にしてくれても構わないよ」

「有り難うございます!」

 香穂子はケーキよりも甘い笑顔を吉羅に見せつける。

 本当に可愛くてしょうがない。

 ずっとこの笑顔を見つめていたい。

 吉羅は強く感じると共に、最高の口実を手に入れたと思った。



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