4
思いかけず、吉羅から口実を頂いてしまった。 吉羅と会うための口実を。 脳のため、そしてヴァイオリンのため、受験のため。 なんて素晴らしい言い訳なのだろうかと、香穂子は思わずにはいられない。 香穂子の場合は、特別推薦枠の試験ではあるので、実技以外の項目はない。 だが、集中するためには、脳を活性化させることが大事だと、つい言い訳じみたことを考えてしまう。 香穂子はヴァイオリンを抱えて、理事長室に勇んで向かう。 吉羅のところに行くだけで、ドキドキしてしまう。 理事長室の前まで来て、深呼吸をした後に、ノックをする。 だが、ノックをしても反応がないので、香穂子はそっとドアノブに手をかけてそっと回す。 だが、鍵がかかっており、香穂子はしょんぼりしてしまった。 香穂子は溜め息を吐くと、そのままとぼとぼと戻る。 吉羅はかなり忙しいから、しょうがない。 香穂子は時間までヴァイオリンを練習して、そのまま帰ることにした。 甘いものでも買って食べれば良い。 それをモチベーターにして、香穂子はヴァイオリンの練習を一生懸命頑張った。 ただ、吉羅に逢って話をするほど、モチベーションは上がらない。 やはり恋をすることは、香穂子にとっては最高のモチベーターには間違いなかった。 練習が終わり、香穂子は近くの店で焼き芋を買って、それを頬張ることにした。 甘くて美味しいものは、香穂子をとても素敵な気持ちにさせてくれる。 香穂子は、臨海公園のベンチに座って、海を眺めながら焼き芋を頬張る。 こうしているとおちつく。 甘いものは脳の栄養になると思い込んで、集中して頑張ることにした。 「日野君、どうしたのかね?」 いきなり艶やかな見知った声を聞かされて、香穂子は芋を喉に詰まらせそうになった。 恥ずかしすぎて、余計に顔を真っ赤にしてしまう。 「り、理事長っ!」 焼き芋を食べているタイミングで吉羅に会うなんて、ばつが悪すぎる。 香穂子は恥ずかしすぎて、黙っていることしか出来なかった。 「隣、良いかね?」 「はい、どうぞです……」 食べていたものがものだけに、香穂子は恥ずかしすぎて俯くしかなかった。 つい耳まで真っ赤にしてしまい、香穂子は吉羅をまともに見ることが出来なかった。 焼き芋なんて、吉羅に似合うはずがない。 スマートで隙のないビジネスマンである吉羅なのだから。 「早速、脳の栄養かね?」 吉羅はいつもとは違い柔らかな笑みを香穂子に与えてくれる。 「はい。しっかり練習をしたので、とてもお腹が空いてしまって……」 香穂子は恥ずかしすぎて、吉羅を益々見られなくなる。 「だけど太るようなカロリーの高いものは嫌だからと、焼き芋にしたんです。お腹一杯になりますし、ヘルシーだし、甘くて美味しいから、って、言い訳ですけれどね」 香穂子の言葉に、吉羅は益々微笑む。恐らくは、香穂子が子供らしいと思ったのだろう。 「君らしいね」 「そうですね」 香穂子は、子供と思われるのは、やはり切ない。 恋するひとには大人の女性のように感じて欲しがった。 「理事長は、今日、甘い栄養を取られましたか?」 「甘い栄養?まだだよ。今日は忙しくしていて、そのような時間が取れなかったからね」 吉羅は相当忙しかったらしく、苦笑いを浮かべていた。 自分のためではなく、学院のために忙しく頑張ってくれていたのだろう。 口では利益をあげるためだと嘯いていながらも、本当は学院の生徒たちの環境をよりよくするために頑張ってくれていることを、ちゃんと香穂子は解っているし、誰よりも解っていてあげたかった。 「疲れを癒すにも甘いものは効果的ですよ、理事長。どうぞ、焼き芋です。スーツ姿の理事長には似合わないかもしれないですけれど」 香穂子は袋に入っている焼き芋を吉羅に差し出した。 本当に似合わないのは百も承知だけれども、焼き芋を差し出したかった。 「有り難う、頂くよ」 スーツ姿の完璧男に焼き芋だなんて、似合わないが、吉羅はちゃんと受け取ってくれる。 香穂子にとってはそれが何よりも嬉しいことだった。 「仕事の後の甘いものは疲れを癒すね。君がいうように、薩摩芋には、食物繊維たっぷりで、栄養があるからね。しかもカロリーもそれほど高くはないからね。かなり優秀だね」 吉羅はしみじみと呟くと、品よく食べている。 焼き芋と吉羅なんて、これほどミスマッチなことはないのに、何故だかしっくりしてよく似合う。 ついこちらが笑顔になってしまうぐらいにだ。 香穂子はしみじみと、大好きなひとと並んで焼き芋を食べることが、何よりも愛しくて幸せでならなかった。 ふたりで海に沈む秋の夕日を見つめる。 なんて素敵で幸せな瞬間なのだろうかと、香穂子は思わずにはいられない。 焼き芋なんて、ロマンティックの欠片もないけれども、吉羅と一緒なだけで、十分にロマンティックなアイテムになった。 焼き芋を食べ終ると、吉羅なのだからタイムリミットとばかりに立ち上がる。 「日野君、焼き芋、ごちそうさま。私はまだ仕事が残っているから、学院に戻らなければならない。焼き芋のお返しは近いうちに行うとしよう」 淡々と話す吉羅は、いつもの理事長としてのクールで固い表情に戻っていた。 先ほどまであった優しい表情がないのは、とても寂しかった。 「はい、楽しみにしています。お仕事、頑張って下さいね、理事長」 香穂子がいつものように明るくて元気な笑顔と声で言うと、吉羅は一瞬だけ柔らかで優しい表情に戻った。 その姿がとても可愛くて素敵で、香穂子は更に柔らかな笑みをごく自然に向けることが出来た。 「ではまた。日野君も、気を抜かずにしっかりと頑張りたまえ」 やはり、香穂子に釘を刺すのは理事長らしい。 随分と手をさしのべてくれたり、庇ってくれている男性だから、香穂子はそれに応えなければならないと強く感じた。 吉羅は静かに学院へと向かって行く。 これがまた男らしく逞しく思える。 ほんとうにいつまでも見つめていたい背中である。 守られている、あの背中に。 だからこそ、香穂子はあの背中を守るものになりたいと、強く感じていた。 いつかお互いに護り合えるパートナーになりたい。 おたがいに支え合える存在でいたい。 それが、香穂子のもうひとつの大きな夢だった。
|