*蜜よりも*


 吉羅と付き合うことにはなったと、素直に思って良いのだろうかと、香穂子は思う。

 あんなに大人で素敵な魅力を讃えたひとだから、女性が放っておかないだろう。

 だから不安にはなる。

 先日もあんなにも綺麗で大人のキャリアのある女性と一緒にいたのだから。

 まだまだ自信がないのだと、認めざるをえない。

 それほどまでに吉羅は、素敵な男性なのだと、香穂子は思わずにはいられなかった。

 だからこそ、背伸びをしていると言われようが、なんと言われようが、香穂子は綺麗になるために、エレガントになるために頑張らなければと思い、化粧にお洒落に一所懸命になっている。

 恋する人と釣り合いが取りたい。

 バランスが取りたい。

 香穂子は強くそれを願っていた。

 今日も天羽直伝のメイクをし、髪を纏めて、ワンピースを着る。

 落ち着いたコンサバティブな雰囲気を全面に出すように努力をした。

 いつ、どこで、愛する吉羅と逢うのか分からない甘い緊張があるから、香穂子は手が抜けなかった。

 愛するひとを、素敵なひとを恋人にするということは、手を抜くことなど許されないことであることを、香穂子はひしひしと感じていた。

 いつお呼び出しがあるかとドキドキする。

 だが、そういう時に限って吉羅からは呼び出しが一切なかった。

 吉羅は忙しいから、そんなには頻繁に会えないことぐらいは解っているのに、つい期待をしてしまうのだ。だから、後からのがっかりが大きかった。

 背伸びをしてお洒落をするのは無駄なのではないか。

 香穂子はそんなことを強く思ってしまう。

 いつでも綺麗な姿で吉羅に逢いたいのが、乙女心なのだが、空振りであればあるほど、香穂子は切なくなった。 

 吉羅と付き合うようにはなった。

 ようやくスタートラインに立ったと思っていたのだが、そうでなかったのかもしれない。

 そこまですらたどり着いていないのではないか。そんなことばかりを、香穂子はふらふらと考えてしまっていた。

 

 なかなかお誘いがないから、香穂子はお洒落をせずに、ジーンズ姿で通学することにした。

 とはいえ、薄く化粧をして、髪は下ろして少しアレンジはしているのではあるが。

 期待なんかしない。

 いや、今まで、期待し過ぎていたのかもしれない。

 香穂子はそれを強く感じて反省する。

 本当に期待し過ぎていた。

 ずっと恋と言うものは、ハチミツよりも甘くて、花よりも華やかなものだと思い込んでいたのだ。

 吉羅と付き合うようになってから、それが現実では無いこと思い知らされた。

 付き合うと言っても、実質はデートなんてしていなかった。

 これだと本当に付き合っているとは言い難いことだった。

 だからこそ、香穂子は重い気持ちになった。

 今日も特に予定はなくて、大学を出ようとしていた。

「日野さん、教室出るの?途中まで一緒に行かないか?」

 同じヴァイオリン専攻の男子生徒に声を掛けられて、香穂子は笑顔で頷いた。

「日野さん、最近、表現力がかなり上がったよね。俺も一緒に見習わなくちゃいかないなあって思ってる」

「有り難う。そう言って貰えると嬉しいよ」

「何だか綺麗になったしね」

 香穂子はドキリとして、男子生徒を見つめる。

「あ、有り難う」

 綺麗になったと言われると、本当に嬉しい。だが、何処か複雑な気持ちにもなってしまう。

 吉羅に同じことを言わたら、こんなにも嬉しいことはないのに。

 香穂子はつい無い物ねだりをしてしまう自分自身に、重さと切なさを感じていた。

「立候補しても良いかな?」

「え?何を?」

 香穂子は何の立候補かが分からなくて、目を白黒させる。

 香穂子の表情に、男子生徒は苦笑いを浮かべた。

「まあ、今は良いか……。日野さん、また!」

「うん、また」

 男子生徒を見送りながら、香穂子は溜め息を吐いた。

 吉羅が同じように親しみやすく接してくれたら良いのにと思う。ただ、それだと吉羅のキャラクターではなくなってしまうのだが。

 香穂子が学校から出ようとすると、隙のないオーラを感じた。

「香穂子」

 低い声で呼び止められて、香穂子は思わず振り返った。するとそこには、クールで不機嫌な表情をした吉羅がこちらを見つめて立っていた。

「……吉羅さん」

「時間はあるかね?」

「……はい」

 連絡をずっとくれなかったにも関わらず、今更何だというのだろうか。

 だが、香穂子は吉羅を一蹴するほどクールではいられない。

 ただの子供と同じだと思ってしまう。

 吉羅に着いていかずにはいられない自分がいる。

 それほどまで、吉羅に恋をしてしまっているのだ。

 吉羅の背中を見つめていると、かなり不機嫌であることは、感じ取ることが出来た。

 本来、吉羅に対しては不機嫌な態度を取るのは自分だろうと、香穂子は思わずにはいられなかった。

 吉羅は大学の職員用駐車場に車を止めていた。

 香穂子をそこまでつれて行くと、車に乗るようにと促した。

「乗りなさい」

 吉羅は当然とばかりに助手席に乗るようにとドアを開けた。

 香穂子は表情を引き締めると、言われた通りに助手席に座った。

 吉羅はクールな表情のままで車を発進させるが、怒っているのは直ぐに解った。

 暫く、吉羅は車を走らせる。

 何も話しかけてこない。

 香穂子も、吉羅のピリピリとした雰囲気を察した。

 吉羅がどうしてこんなにも怒っているのかは、香穂子には全くと言って理解出来なかった。

 海が見える静かな場所を走り抜ける。

 然り気無く香穂子が大好きなドライブコースを走ってくれるのが嬉しかった。

 吉羅は、静かな場所で、車を停める。

 そしてようやく、口を開いた。

「さっきの男は誰かね?」

「え?ただの友達です。同じヴァイオリン専攻なので、ヴァイオリンの話をしていただけですよ」

 吉羅は妙にピリピリしていて、香穂子は肌まで痛むような気持ちになった。

「告白……だとかされていなかったのか?」

 吉羅は低い声で意外過ぎることを口にしてくる。

「え?そんなことは、ありませんが……あっ……!」

 吉羅はいきなり香穂子を息が出来ないぐらいにきつく抱き締めてくる。

 こんなにも激しく情熱的な抱擁は初めてかもしれない。

「……私は君を離さない」

 クールな吉羅の、情熱的な言葉に、香穂子はときめかずにはいられなかった。

 嫉妬?

 そうならばこんなにも嬉しいことはないのにと、香穂子は思う。

 どうかそうであるようにと、香穂子は祈った。



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