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秘密の恋であっても、心が通じ合っていればこんなにも幸せなのだということを香穂子は身を持って感じた。 しかも、吉羅と身も心も結ばれることが、こんなにも幸せだなんて思ってもみなかった。 信じられる。 なんて深い絆なのだろうと香穂子は思った。 吉羅と結ばれる。 強い絆のプレゼントを貰ったような気分だった。 香穂子を自分のものにした。 それが嬉しくて堪らない。 香穂子に恋する男達が沢山いるなかで、ようやく吉羅は少しだけホッとした。 だが、完全に香穂子が自分のものになったわけではないことを、吉羅は充分に解っている。 香穂子争奪戦で、ほんの少しだけ有利になったに過ぎないのだ。 嬉しくてしょうがないが、更に香穂子を強く愛していこうと思った。 香穂子と愛し合って、やはり予想通りに夢中になっている。 それも溺れるほどだと言っても過言ではないだろう。 香穂子をもっと愛しくなった。 もう離せないと言っても過言ではないだろう。 今も逢いたい。 抱き締めたくてしょうがない。 そのことばかりを考えてしまっている。 吉羅は理事長室での仕事に一区切りをつけて、香穂子が練習している大学の練習室に向かった。 大学のほうがより設備が充実している。 香穂子もヴァイオリンに集中が出来ると言っていた。 香穂子が大学に行ってしまってから、吉羅は大学に顔を出すのが増えた。 理事長室を大学に移転しなければならないと、金澤にからかわれる始末だ。 生徒は平等に見ているつもりではあるのだが、それでもつい香穂子を見てしまう。 これは学院にとって大切な行事の視察だと、吉羅は自分に言い聞かせて、大学に向かった。 吉羅が練習室に入ると、香穂子はヴァイオリンに集中していた。 ヴァイオリンに集中している香穂子は、なんと美しいのだろうかと思う。 本当に綺麗だと吉羅は思った。 香穂子を見ていると、まるで遠くを見ているように見える。 ヴァイオリンに集中している香穂子には、自分など視線に入らないように見えた。 音色もとても綺麗で澄んでいる。なのにとても温かかった。 香穂子の音色は日々進化していて輝いている。 吉羅は、ひとりのクラシック愛好家としても、元ヴァイオリニストとしても、恋人としても、香穂子の音色に夢中になっていた。 練習が一旦終わり、香穂子は意識をゆっくりとリアルに戻していく。 その様子がとても美しくて、吉羅は思わず見とれてしまっていた。 本当になんて綺麗なのだろうかと思う。 ヴァイオリンという幻想的な世界から、リアルへ。 その表情がとても綺麗だった。 リアルに戻って、直ぐに吉羅に気付いたのか、香穂子の頬が明るくなった。 綺麗で明るい色だ。 瞳にも生き生きとした彩りが滲んでいる。 本当に綺麗だった。 明るく澄んだ色はまさにこの瞳の色だ。 こうしたまなざしを向けてくれるのが、香穂子は嬉しかった。 「…吉羅理事長」 香穂子が微笑んでくれたから、本当はその笑顔に応えたい。 澄み渡る美しさに笑顔で応えられたら良いのに。 だが、ここでは拙い。 それは吉羅が一番解っていることだ。 香穂子のためにも、まだ公にするわけにはいかないと思っていたからだ。 吉羅は目を閉じた後で、一端、深呼吸をすると、疲れたようにわざと溜め息を吐いた。 「…君達の演奏は悪くなかった。なかなかだったと思っている。この調子でしっかりと頑張りたまえ」 吉羅の言葉に、メンバーたちは頷いた。 彼らのことだから、最高のレベルで作りこんでくることだろう。 吉羅は頷くと、ちらりと香穂子を見た。 吉羅が視線を向けないのは、仕方がないことだと思っているのだろう。 まだ公にはしていないからしょうがないのだと。 何処か切ない気分になっていそうなのが、吉羅には痛かった。 本当は香穂子のそばにはもっといたかったのだが、流石にそういうわけにはいかなくて、吉羅は理事長室へと戻った。 香穂子の可愛い表情を見ることが出来たので、それだけでも大きい。 吉羅はあの笑顔を直ぐに見たくて、香穂子にメールを入れていた。 吉羅が見に来てくれたのはとても嬉しかった。 だが、やはりいつもと同じようにクールなままだった。 吉羅との恋は秘密である以上は、態度が変わる事なんてありえないというのに。 香穂子は、ほんの少しでも態度が変わってくれたらと、思わずにはいられなかった。 練習が終わると、吉羅からのメールが届いていた。 嬉しくて、表情を思わず綻ばせてしまう。 逢えないか? 逢えるのならば、いつものカフェで待っていて欲しい。 吉羅 吉羅からのメールに、香穂子は直ぐに返信をする。 逢いたいです。 今からカフェに向かいます。 香穂子は直ぐに行きつけのカフェへと向かう。 途中で、天羽とばったり出会ってしまった。 「あ、な、菜美っ!」 「どこ行くの? そんなに急いで」 「あ、うん。知人に逢うんだ。あ、約束の時間に遅刻しそうだから、行くねっ」 香穂子が誤魔化しながら行こうとする。 よりによって、一番逢いたくないひとと遭遇してしまった。 これは非常に痛い。 友人にすら秘密にしなければならない恋。 それが切なくて重苦しくなっているのは確かだ。 吉羅との恋を早く公に出来たら良いのにと、香穂子は思わずにはいられなかった。 「ひょっとして彼氏?」 半分冗談めかして言われて、香穂子はドキドキしてしまう。 その相手が、星奏学院の理事長閣下だなんて、言える筈もなかった。 「そうじゃないよ。音楽関係のひとで、遅刻するといけないんだ。だから行くね」 香穂子は笑顔でなるべく落ち着こうと思いながら、ゆっくりを心掛けて話をした。 「音楽関係のひとか…。ふーん」 天羽は何処か意味深なまなざしで香穂子を見ている。 天羽には誤魔化しがきかないのは解っているが、今はそれどころではなかった。 「じゃあまたね」 「報告してね、また」 天羽が笑みを浮かべて、とりあえずは離してくれた。 いつかは話をしなければならないだろう。 全く頭が痛い話ではあるが、しらを切り通すしかなかった。 カフェのお気に入りの席に腰掛けると、そこには見知った顔は誰もいなかった。 香穂子はホッとして、温かなココアを注目した。 後しばらくしたら大好きな男性がやってくる。 その幸せを感じながら、香穂子はほおっと溜め息を吐いた。 吉羅はカフェより少し離れたところで車を停める。 見られないようにするための配慮だ。 本当は見られても一向に構わないのだが、香穂子が気にすると思っていたからだ。 吉羅としてはもう公表しても構わないと思っている。 むしろ堂々と付き合いたかった。 「あれ…理事長…。珍しい…」 香穂子のところに向かおうとしたところで、天羽菜美と出くわしてしまった。 香穂子の友人ではあるが、まだ公表する前だ。 吉羅的には構わないが、香穂子は嫌がるかもしれない。 だからこそ、吉羅は知られてはならないと思った。 「理事長こんばんは。お出かけですか?」 いきなり声を掛けられて、吉羅はドキリとした。 「ああ、少し用があってね」 「そうですか。先ほど香穂にも逢いましたから、理事長も逢うかもしれないですよ。彼氏を待っている雰囲気で怪しいんですけれどね。ではまた」 天羽の言葉一つ一つにドキリとしてしまう。 吉羅はポーカーフェースを装うのがやっとだった。 |