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楽屋でいきなり抱き締められるなんて思ってもみなかった。 香穂子は心が痺れるように震えて、胸がいっぱいになった。 吉羅への想いがあふれそうになる。 「頑張ってくれたまえ。急にお願いをして申し訳ないがね…」 「はいっ…!」 こんなにも強く抱き締められたら、それこそ声がひっくり返ってしまう。 それぐらいドキドキが激しくてしょうがなかった。 吉羅は名残惜しそうに香穂子から離れた後、額にそっとキスをしてくれた。 「おまじないだ…。君の演奏が上手くいくようにね…」 「有り難うございます…」 香穂子は嬉しさと柔らかな恥ずかしさに頬を赤らめて呟いた。 香穂子は深呼吸をした後で、ヴァイオリンのチューニングを始める。 より良い音が奏でられるようにと祈りながら。 その様子を、吉羅がしっかりと見守ってくれる。 だからこそリラックスして最終調整を行うことが出来た。 不意に楽屋のノックが響き渡り、香穂子はヴァイオリンのチューニングを止める。 「日野さん、演奏の打ち合わせに来ました」 「はい分かりました」 香穂子がドアを開けると、パーティの主催者側のスタッフが入って来てくれた。 「今日は無理を言って申し訳ないですね。早速ですが、打ち合わせをさせて頂きます」 「はい、お願いします」 スタッフは感じの良い若い女性で、香穂子はホッとリラックスすることが出来た。 「吉羅さん、今日は無理な提案を受け入れて下さって有り難うございました。日野さんならば、出席者の皆さんも満足されると思いますよ」 スタッフは本当にホッとしているようだった。 「では私はパーティに出席をしなければならないですからここで失礼します。日野君、しっかりと頑張りたまえ」 「はい有り難うございます」 先ほどの甘い恋人の顔ではなくて、吉羅は厳しい理事長の顔になる。 それはしょうがないことだ。 吉羅には公的な顔があるのだから。 「では、打ち合わせを始めましょうか」 「はい」 吉羅が楽屋から出て行くのを見送った後、香穂子は打ち合わせに集中することにした。 演奏内容は華やかで明るい曲と落ち着いた雰囲気の良い美しい曲であれば何でも良いとのことだった。 演奏するのは3曲で、それが終われば御役御免で帰って良いとのことだった。 吉羅は、パーティに参加しなければならないだろうから、恐らくはひとりで帰らなければならないだろう。 だが、幸いなことに、まだ早い時間帯であるから、のんびりと帰ることが出来そうだった。 演奏するステージも確認させて貰い、香穂子は額やに戻ってヴァイオリンのチューニングに精を出した。 乾杯、暫くの歓談の後に、香穂子の演奏がある。 演奏といっても、歓談に花を添えるぐらいのものではあるのだが。 それでも今回はプロとしての仕事で、きちんとギャラも出る。 そこは名士も出ているパーティであると香穂子は思わずにはいられなかった。 パーティで得たギャラで、ヴァイオリンのメンテナンスが出来ると思うと、嬉しくてしょうがなかった。 香穂子は深呼吸をして集中する。 大丈夫だ、きっと上手くいく。 先ほど吉羅がおまじないまでしてくれたのだから。 今出来る最高の演奏が出来るはずだ。 見守ってくれているのは大好きなひとなのだから。 きっと、大丈夫。 先ほど吉羅がキスをしてくれた額に触れながら、香穂子はにんまりと笑った。 幸せだった。 だから大丈夫。 香穂子がヴァイオリンに全神経を高めていると、ドアがノックされた。 「日野さん、時間です。お願いします」 「はい」 香穂子は背筋を伸ばすと、静かに出て行く。 ヴァイオリニストとして、今からステージに立つのだ。 半端なことは許されない。 香穂子は、今はヴァイオリンにだけ集中をして、パーティ会場に入った。 誰もが歓談しながら、新たなビジネスチャンスを狙っているパーティだ。 誰もが新たなチャンスを求めるためにだけ、ここにいるのだ。 吉羅はと言えば、熱心に財界人と話をしている。 考えてみれば、吉羅暁彦は、世界に名だたるトップ企業から、是非役員にと引く手数多なのだ。 幾つかの会社の社外取締役を務めて、アドバイスを送る多忙な日々を送っている。 だが彼の足はしっかりと星奏学院についている。 それは嬉しいことだ。 愛する学院を、愛するひとが一番に思ってくれていることは、香穂子にとってはこの上なく嬉しいことだった。 吉羅は話に夢中だ。 香穂子はスタッフに「お願いします」と言われて、低いステージに立った。 「ただ今からヴァイオリン演奏をお楽しみ下さい。演奏者は日野香穂子さんです」 紹介されて拍手が聞こえる。 流石は一流企業人だ。 きちんと拍手をしてくれる。 それが香穂子には嬉しかった。 香穂子はステージに立つと、ヴァイオリンに集中する。 ここにいる方々が幸せな気分になれますように。 ただそれだけの想いを込めて、香穂子ばヴァイオリンを奏でた。 少しずつだが、こちらに耳を傾けてくれているひとが増えている手応えを感じながら、香穂子はヴァイオリン演奏に集中した。 3曲の演奏が終わると、会場から大きな拍手が沸き起こる。 予想だにしていないことだったので、香穂子は驚くことしか出来なかった。 「…もう一曲お願いしてもよろしいですか?」 アンコールリクエストまで飛び出してきて、香穂子は嬉しくてしょうがない。 「では一曲弾きますね」 「お願いします」 パーティの演奏なのに、こうしてアンコールまで頂けるなんて、香穂子は思ってもみなかった。 香穂子は驚きの嬉しさを満面の笑顔で表した。 もう一曲だけ、香穂子は弾くことにする。 本当に有り難いことだ。 ヴァイオリンをやっていて良かったと、香穂子は心から思った。 誰もが香穂子に恋に落ちた。 吉羅はそう感じずにはいられなかった。 特に、吉羅と同世代の男達は完全に恋に落ちている。 嬉しい反面、やりきれない苛立ちが吉羅を覆う。 息苦しくなる始末だ。 吉羅は、香穂子が奏でるヴァイオリンの音色に集中しながら、独占欲がメラメラと沸き上がってくるのを感じた。 香穂子が欲しくてしょうがない。 早く自分のものにしたい。 そんな気持ちが沸き上がる。 演奏が終われば、挨拶やビジネス話を済ませたパーティには用はない。 香穂子を連れて帰りたかった。 その反面、魂が奪われてしまうのかと思うぐらいに美しい香穂子を、ずっと見つめていたいとも思う。 このまま視線ですらも独占してしまいたいとすら思う。 吉羅は、今すぐにでも香穂子の手を取って、連れ去りたかった。 吉羅は演奏を終えて人々に囲まれて賞讃の声を受けている香穂子に近付いていく。 香穂子が一瞬にして華やいだ表情になったのが嬉しかった。 吉羅は、香穂子にわざと握手を求める。 「よく頑張ってくれた。有り難う日野君」 「はい、有り難うございます」 一瞬にして香穂子にメモを手渡す。 楽屋で待っているように。 直ぐに行く。 吉羅 吉羅は、魂を捧げても構わないと思うほどに美しい香穂子を、早く抱き締めたかった。 吉羅からこっそりと渡されたメモには、楽屋で待っているように書かれていた。 香穂子は思わずほくそ笑む。 吉羅と一緒に帰ることが出来る。 それだけでときめいて、嬉しさの余りに躍り出してしまいたくなる。 香穂子は主催者に挨拶をした後、息が苦しくなるほどにドキドキしながら、楽屋へと向かった。 |