*背伸びをしても*

3


 吉羅が結婚をしたいと言っている。

 その相手は、少なくとも自分ではないと香穂子は思わずにはいられない。

 吉羅が選ぶ女性は、少なくともマチュアで美しいひとだ。

 それ以外にはいないと思わずにはいられない。

 それはそれで胸がチクチクと痛むのには間違なかった。

「さあ、日野君。君は私の婚約者として、しっかりと振る舞って貰わなければならないからね。しっかりと頼む」

「…はい…」

 婚約者のふりをしていると、何だか吉羅と本当にそうなれるのではないかと、つい錯覚をしてしまう。

 それが恋であることには間違いはなかった。

「婚約者のふりをしている時は、ずっと私だけを見つめていなさい、そうすればよりリアルなものになるだろうからね」

「はい」

 吉羅だけを見つめているというのは、本当に簡単なことだ。

 いつも通りにしておけば良いのだから。

 香穂子はいつも、吉羅のことばかりを見つめているのだから。

 吉羅はエスコートするかのように、さり気なく香穂子に寄り添ってくれた。

 ふたりで並んで歩く。

 こうしていると、本当に愛し合っているのではないかと思う。

 だが、現実は香穂子が一方的に吉羅のことが好きなのだ。

 たとえ錯覚であったとしても、夢見るような気分が味わえるのが、香穂子には嬉しくてしょうがないことだった。

 どうかバランスが取れていますように。

 香穂子はそればかりを考えていた。

 吉羅と婚約者のふりをするということは、バランスが取れていないと、かえって怪しまれてしまうからだ。

 吉羅に連れて行かれたのは、雰囲気が良いレストランだ。

 マチュアな大人の男女が似合うレストランだ。

 レストランは本格的な生演奏がされ、騒いでいるひとは誰ひとりとしていない。

 誰もが落ち着いた雰囲気で気品良く食事を楽しんでいた。

「このレストランは、私の知り合いも多くてね。誰もが落ち着いて楽しんでいるよ」

「はい」

 友人たちとわいわいするファミリーレストランとは次元が違うと思いながら、香穂子は席に着いた。

 何だかそわそわして落ち着かない。

 やはりこのような場所は慣れてはいないからだろう。

 緊張し過ぎて心臓がおかしくなりそうだ。

 何度も座り直して、香穂子は背筋を伸ばす。

「…落ち着かないのかね?」

「はい。こんな場所は慣れていないので…」

 吉羅に取り繕ってもしょうがないので、香穂子は素直に言った。

「落ち着いたふりをしなさい。それに、今後のことを考えると、君もこの雰囲気に慣れておいたほうが良い」

「はい。今後のことですね…」

「君も様々なシーンで食事に呼ばれることも多いだろうからね。プロのヴァイオリニストとしては当然ではないかね?」

「…確かに…」

 確かに吉羅の言う通りで、今後、どのようなオファーがあり、どのような食事の席に呼ばれるのかは分からないのだ。

「はい。慣れるように頑張ります」

「ああ。しっかりと頑張ってくれたまえ」

「はい」

 吉羅に返事をすると、香穂子はカチカチになりながらも、この場の雰囲気を楽しもうと思った。

 食事が次々に運ばれてきて、優雅な音楽が奏でられる。

 楽しむ余裕はなかったが、何とかその場の雰囲気に慣れようと香穂子は必死だった。

 食事の途中で、とても美しい女性と、ロマンスグレーと呼ぶのがふさわしい男性がテーブルにやってきた。

「これは吉羅君」

 男性は落ち着いた雰囲気で吉羅に話し掛ける。

 横の女性は、ちらりと香穂子を見ただけで、その後はずっと吉羅ばかりを見ていた。

 のぼせ上がる。その言葉がふさわしい熱いまなざしだった。

「縁談を断ったんだって? 君と彼女ならばとてもお似合いだと思うがね。ずっと付き合っているとばかり思っていたよ」

「彼女は友人ですよ。正式にお付き合いをしていたわけではありませんから」

 話を聞きながら、香穂子はドキドキしていたというのに、吉羅はあくまでクールだ。

「ほお…」

 男の瞳が期待に光る。

 勿論、横にいる女性もだ。

「では、君に新たに縁談を持ち掛けても良いということかな。例えば私の娘とか…」

 男性は吉羅を期待に満ちたまなざしで見つめている。

 やはり吉羅のような男と娘を結婚させたいのだろうと、香穂子は何となく解っていた。

「私が正式に娘を紹介しても構わないということだね」

 念を押すように男が言うと、娘の瞳が僅かに光った。

 やはり女性としても吉羅のような男はかなり魅力的なのだろうと思った。

「お言葉ですが、私は彼女と正式にお付き合いをしています。今のところ彼女以外では考えられないです」

 吉羅はキッパリと言うと、香穂子を見た。

 この堂々とした物言いに、香穂子はただ瞳を見開いて吉羅を唖然と見つめることしか出来ない。

 本当に驚いてしまった。

「そうか…。そういうことか…。だから縁談を断ったんだね…」

 男性は娘に言い聞かせるように言うと、ちらりと娘を見た。

 娘はかなり残念そうに瞳を伏せてしまった。

「では吉羅君、また」

「…また」

 親子が行った後、香穂子は吉羅を見た。

「良かったんですか?」

「何が?」

「先ほどの女性、とても綺麗でした…」

 香穂子が吉羅を戸惑い気味に見つめると、少し機嫌が悪そうなまなざしを投げ付けてきた。

「日野君、君は私の虫除けだ。ああいうさり気ない縁談が後を絶たないからね。君という“婚約者”がいるということを、しっかりとアピールしておけば、当分は五月蠅いことも言ってこないだろうからね」

「…はあ」

 何だか納得いかなくてもやもやとしてしまう。

「日野君、君が婚約者であることを、色々なところでアピールしておけば、虫は寄ってこないからね」

「…もし、吉羅さんが求める女性が寄ってきた時に、誤解を与えてしまったとしたらどうしますか? そのようなリスクがあるのではないでしょうか?」

 香穂子は心配と嫉妬のもやもやでどうにかなりそうだと思いながらも、言った。

「このことで逃すことは有り得ない」

 吉羅はピシャリと言うと、誠実さと真剣味を帯びたまなざしを香穂子に向けて来た。

 こんなまなざしで見つめられてしまったら、胸が苦しくて動けなくなる。

「有り得ない…とは?」

 香穂子は震えてうわずる声を何とか抑える。

「既に私の運命の女は誰なのかは、解っているからね」

 吉羅はさらりと言ったが、香穂子にとっては爆弾級の発言と言っても良かった。

 まさか吉羅には既に心を決めたひとがいるなんて、思ってもみないことだったのだ。

 驚く余りに息をきちんとすることが出来ない。

 吉羅が好きで好きで堪らなくて、婚約者のふりをしているというのに、それがただの茶番だなんて。

 香穂子は吉羅を真面に見ることが出来なくて、思わず目を伏せた。

「…私がいることで、そのひとが勘違いをされたらどうされますか?」

「…勘違いはしないよ」

 吉羅はキッパリと言い切る。

 女性は余程出来ているのか、自分自身にとても自信があるからなのだろう。

 香穂子は強くそう思わずにはいられなかった。

「…あ、あの…、だったらこのようなことをされずに、その方にきちんと伝えれば良いんじゃないでしょうか。吉羅さんなら大丈夫です…」

「有り難う。まあ…彼女は君とのことは勘違いをしないかもしれないが…別のことで勘違いをするかもしれないがね」

「…え?」

 香穂子が顔を上げると、吉羅に真摯な瞳でじっと見つめられていた。



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