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吉羅の心配そうな瞳に、香穂子はときめきを感じながら、浅く息を呑む。 「大丈夫です…」 「痛みは?」 「少しだけ」 香穂子が笑うと、逆に吉羅は不機嫌な顔になる。 「大丈夫には見えないがね」 吉羅は何処か硬い声で言うと、いきなり香穂子を抱き上げた。 「ちょっ、吉羅さんっ!」 香穂子はぶらぶらと脚を揺らしながら、困ったように吉羅を見る。 「ひとが見ていますし…」 香穂子が耳まで真っ赤にさせて吉羅を窘める。だが吉羅は全く気にしないとばかりにとてもクールだった。 甘い困惑が香穂子のこころに滲んで、上手く息が出来なくなる。 「…吉羅さん…」 いくら香穂子が言っても、吉羅は表情を崩さずにテーブルまで行くと、席に下ろしてくれた。 「…あ、有り難うございました…」 香穂子は甘い感覚に息が出来ないと感じながら、肌を震わせた。 「大胆だな、吉羅よ」 金澤は苦笑いしながら呟き、どこか爽やかな切なさが浮かんだまなざしを吉羅に送る。 「日野君が、余りにも頑固だからですよ。靴擦れを起こしているというのに、歩こうとするからですよ」 あくまで吉羅は淡々としている。 「そろそろ時間だな。明日は早いから、俺は帰るわ。吉羅、ちゃんと日野を送っていけよ。それと、俺にタクシーチケットくれ」 金澤はいつものように飄々と笑うと、吉羅に手のひらを出す。吉羅のまなざしがきつくなったのは、ご愛嬌といったところだ。 「…解りました。タクシーチケットを使って、妖しい店には行かないで下さいよ。後、金澤さん、チケットは学院名義ではなく、私の個人名でお願いします」 「へい、へい」 金澤は嬉しそうに笑うと、吉羅からチケットを受け取っていた。 「…じゃあ俺は帰るわ。日野、ちゃーんと吉羅に送って貰うんだぞ?」 香穂子を見つめる金澤のまなざしは、とても大人で優しい。 見守ってくれる親のような大きな愛を受け取るように、香穂子は頷いた。 「じゃあな、また明日。吉羅、日野」 金澤は、まるで吉羅と香穂子に気遣うように言うと、先にレストランを出ていく。 温かな瞳に、香穂子は背中を押されているような気がした。 金澤がいなくなると、吉羅も腰を上げる。 「日野君、送って行こう。歩けるかね?」 「大丈夫ですよ。ちゃんと歩けます」 香穂子はほんのりと足が痛むのを感じたが、歩けない程ではなかった。 「表通りまで出られたらタクシーを拾うから、そんなに歩くことはないだろう」 「はい」 相変わらず吉羅はそつない態度を取って来る。大人過ぎる態度に、香穂子は悔しくてしょうがなかった。 「行こうか」 「はい」 香穂子が椅子から立ち上がると、吉羅はいきなり腰を抱いて来た。 「…あっ…」 全身が敏感になり息が上がる。心臓がおかしなリズムを刻み、香穂子の肌はわなないた。 吉羅は何事もないかのように、香穂子の腰をしっかりと抱いて支えてくれる。 吉羅にとっては、靴擦れを起こした香穂子が歩けるようになるようにと、ただ支えているだけの感覚なのだろう。 だが、香穂子にとっては喘いでしまうほどの官能的な震えが全身に走り抜けた。 吉羅はスマートに会計を済ませる間も、香穂子の腰をことあるごとに抱く。 息苦しい。なのにどうしようもないほどの心地好い気分になった。 吉羅とふたりでレストランを出た後、ゆっくりとした歩調で表通りに出る。 折角、金澤が背中を押してくれたのだから、それに応えなければならない。たとえどうなっても、後悔するよりはマシだ。 「吉羅さん、今夜は有り難うございます。後、ご迷惑をおかけしてすみません…」 香穂子は素直に頭を下げると、泣きたくなるような切なく甘い気分で吉羅を見上げた。 「楽しんでくれたら、私はそれで構わない…」 「…こんな背伸びをしてハイヒールなんか履くからこういう風になっちゃうんですね」 香穂子は苦い表情を浮かべながら、ぽつりと呟く。こころも足首もヒリヒリと痛かった。 「金澤さんも、君のその格好を見て、喜んでいたんじゃないか。目的は達成しただろう?」 吉羅は香穂子を見る事もなく、ただ事務的に言っているようにも聞こえる。 金澤の為なんかじゃない。横にいる大人の男性と並んで歩いても大丈夫なように。子供だと見られないように一生懸命お洒落をしただけだというのに。 香穂子は唇を噛み締めると、吉羅を強いまなざしで見つめた。 今、言わなければ手遅れになってしまうかもしれない。 今、言わなければ、後悔するかもしれない。 香穂子はこころのなかで沢山の勇気を集めると、震える唇を開く。 緊張し過ぎて、靴擦れの痛みなんて感じない程に、足が震えた。 「…金澤先生のために、お洒落をしたわけじゃないです。大人びたハイヒールを履いたわけではないです。…私は…」 「日野君…」 香穂子は大きく深呼吸をすると、喉を鳴らす。 吉羅をもう一度強い光で見つめると、香穂子は勇気を振り絞って言う。 「…吉羅さんと釣り合いが取れるように、背伸びをしたんですっ!」 言ってしまった。 息が上がって苦しい。 怯えるまなざしで吉羅を見上げると、紅玉の瞳が驚いたように揺れていた。 だがそれも僅かで、直ぐに優しい慈しみ溢れる瞳になる。 「…日野君…」 夜の闇がよく似合う声が、香穂子のこころに下りてくる。 「…君を送り届けるのが私の仕事なのは解っているし、君が足を痛めているのも解っているが…、もう少し…、一緒にいないか…?」 吉羅から軽蔑したまなざしが送られると思っていたのに、意外にも甘い言葉を貰い、香穂子は嬉しくて震えてしまう。 「…はい。もう少し一緒にいたいです…」 香穂子が素直に言うと、吉羅は頷いて手を繋いでくれる。 今日の行きと同じだ。 こころが満たされる温かさが、吉羅の手のひらからもたらされる。気持ちが良くて、にんまりと笑ってしまう。 言葉には出来ない想いが、温もりによって感じられた。言葉にするにはもどかしい場合、こうして触れあえば想いを伝えることが出来るのだと、香穂子は初めて識った。 「…余り歩かせる訳にはいかないから、そこのホテルに良いティールームがある。23時まで開いているから、ゆっくり出来るだろう…。ついでにその足を手当てしないといけないしね」 吉羅は今までで一番優しい笑みを浮かべてくれると、香穂子のペースに合わせて歩いてくれた。 全身が潤んでしまうほど幸せで、ドキドキする余りに香穂子は呼吸を上辺しか出来ない。 「日野君、ご両親には連絡しなくても大丈夫かな?」 「はい。実はお母さんは父の単身赴任先に行っていますし、お姉ちゃんは今夜はカレシのところに行くらしく、私はひとりだったんです。まあ、しっかりしているから大丈夫だと、お姉ちゃんもお母さんも思っているみたいで…。不安だったら菜美…天羽さんのところにでも行きなさいと、言われていたので…」 香穂子はたどたどしく話す自分に、こころのなかで苦笑いしながら、吉羅に笑顔で答えた。 不意に吉羅が歩みを止める。 「日野君…うちに来るか?」 「えっ! あっ、き、吉羅さんの家ですかっ!」 予想だに出来なかった展開の早さに、香穂子はまるで金魚のように口をパクパクと開ける。 その動揺ぶりに、吉羅はくすりと笑った。 「残念だけれど、君が思うような展開は…、何とか抑えるから心配しなくて良い。明日は、金澤さんを見送りに行くだろう? 成田に一緒に行けば良いから、仮眠の感覚でうちに来ると良い…」 吉羅の野性味溢れる扇情的な瞳に、香穂子のこころは妬かれてしまう。 逆らえない。それにそうなりたいと思うほどに、吉羅を愛している。 「解りました、行きます」 香穂子の声に覚悟が滲んだ。 |