*秋からのラヴソング*

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 音楽科に転科をするか。

 本当のところでは、転科したい。

 だが、理性が様々な最悪のシナリオを香穂子に見せつけてくる。

 益々、迷わずにはいられなくなった。

 香穂子は答えを上手く導くことが出来ないジレンマに、押し潰されそうになる。

 息苦しくてしょうがない。

 そうなるとひとりのひとと会いたくなるのだ。

 吉羅暁彦だ。

 吉羅に逢うと、不思議と前向きな気持ちになれるのだ。

 香穂子は理事長室へと向かい、その重厚な扉をノックした。

「理事長、日野です」

「ああ。入りたまえ」

 理事長室に入ると、吉羅は相変わらず熱心に仕事をしていた。

「日野くん、新しい珈琲豆が入った。珈琲を淹れてくれないか?」

「はい」

 吉羅のために珈琲を淹れるのは嫌いじゃない。

 むしろ、吉羅のために珈琲を淹れることで、心が不思議と落ち着くのだ。

 静かに珈琲に淹れることだけに集中していると、それだけで心が安らぐ。それは不思議な感覚だと、香穂子は思った。

 珈琲の香りがアロマテラピーのように安らぐ。

 匂いをかいでいるだけで、とても静かなのに、華やいだ気持ちになった。

「日野くん、フィナンシェがあるから、一緒に出してくれたまえ」

「はい。有り難うございます」

 フィナンシェは学院の近くにあるお馴染みのパティスリーのものだ。

 ゆきは思わずにっこりとしてしまう。

「お待たせしました、理事長」

「有り難う」

 吉羅の机の上に珈琲とフィナンシェを、すっかり香穂子用の机となってしまった、サイドの机に自分の分を置く。

 これだけでも、迷いからくるもやもやがスッキリした。

「この珈琲豆はやはり美味しいね。淹れてくれた君の技術が、かなり向上しているというのも、あるかもしれないな」

 吉羅はからかうように言いながら珈琲をしっかりと味わう。

「いただきます」

 香穂子は、吉羅から一歩遅れて、珈琲を楽しんだ。

 のんびりとした気分で香りを楽しむ。

「美味しいです」

「そうか。それは良かった。日野くん、これで少しは落ち着いたかね?」

 吉羅の言葉に、香穂子は小さく息を飲んだ。

 やはり、吉羅は香穂子のことをしっかり考えてくれてくれている。それが香穂子には嬉しいことだった。

「有り難うございます」

 香穂子は胸の奥がふんわりと温かくなるのを感じながら、珈琲カップを両手でかこむ。

 心と同じぐらいに暖かかった。

「日野くん、私は明日からオーストリアとフランスに出張に行く。来週の金曜日に帰ってくる。そこで、転科の返事を聞かせて欲しい」

 吉羅は真っ直ぐ、香穂子を真摯に見つめてくる。

 この眼差しで、吉羅がどれほどまでに香穂子のことを考えてくれているかを推し量れた。

 いつも、誰よりも、吉羅は考えてくれているのだ。

「環境は私が何とかするから、君は、ただ、自分の心のままに考えてくれたら良いから」

「はい、有り難うございます」

 吉羅は、あくまで、香穂子に選択肢を与えてくれている。

 それが香穂子には、何よりも嬉しかった。

 吉羅がこんなにも香穂子のことを考えてくれているのだから、きちんと向き合おうと思う。

 むしろ、今の香穂子にはそうするしかない。

 ふと、吉羅がヨーロッパから帰ってきた時に、迎えに行くのと同時に、返事をすれば良いだろうと、思い付いた。

「吉羅理事長、何時到着の飛行機で、日本に帰ってこられますか?」

「君も奇妙なことを訊くね。私が帰ってくる便はこちらだよ」

 吉羅はさらさらとメモに帰国便と到着時間を書いてくれた。

 メモを渡されて、香穂子は嬉しくなる。

 まるで吉羅と特別な秘密を共有したような気持ちになった。

「有り難うございます」

「君は物好きだね。そんなことを知りたいだなんてね」

 吉羅は好意的な苦笑いを浮かべる。

「なるべく早くお返事をしたいので」

「そうだね。顔を合わせての返事ならば、それが一番早いね」

 吉羅は甘く微笑むと、軽く頷いてみせた。

「日野くん、珈琲を飲んだ後に、ヴァイオリンを聴かせてくれないかね?君の音が聴きたい」

「はい!」

 吉羅にヴァイオリンを聴かせることが出来るのが、とても幸せだ。

 吉羅に誰よりも聴いて欲しい。

 香穂子は強く思う。

 香穂子は早くヴァイオリンを聴かせたくて、ウズウズしてしまい、素早くフィナンシェを頬張り、珈琲を飲んだ。

 珈琲もフィナンシェも高級品であることは、分かっている。

 だが、ヴァイオリンを吉羅に聴かせることが出来る方が楽しくて、香穂子は素早く食べて、飲んだ。

「日野くん、どうしてそんなに慌てている?」

「理事長に早くヴァイオリンを聴かせたいんです」

 香穂子の打てば響くような返事に、吉羅は苦笑いを浮かべた。

「本当に君はしょうがないね」

 吉羅はどこか楽しそうに言った後、フィナンシェよりも甘い笑みを香穂子にくれた。

 香穂子は、姿勢を質して、ヴァイオリンを構える。

 こうしていると、気持ちが随分と落ち着いてきた。

 香穂子はヴァイオリンだけに集中する。

 哀愁のあるメロディを、ヴァイオリンに乗せる。

 穏やかな冬の午後に相応しい曲ではないのかもしれない。

 だが、香穂子は奏でたかった。

 香穂子は、曲が作られた遠いむかしに想いを馳せながら、ヴァイオリンを奏でた。

 ヴァイオリンを奏で終わると、吉羅は香穂子に拍手をしてくれた。

「良い演奏を聴かせてくれたね。君は確実に進化しているね」

「有り難うございます」

 吉羅に褒めて貰えるのが嬉しくて、香穂子はつい笑顔になった。

「有り難う。良い気分転換になった。私は仕事を再開するが、君はまだここにいてくれても構わないよ。ヴァイオリンを弾いても構わないし、フィナンシェを食べても構わない。ただ出来たら、珈琲を淹れて貰えると、助かるのだけれどね」

「はい!」

 少しでも吉羅の役に立ちたい。

 吉羅に役立てるのが、香穂子は嬉しくてしょうがなかった。

 

 翌朝、吉羅はヨーロッパに旅立った。

 来週には帰ってくるのは分かっているから、寂しくはないはずなのに、切ない気分になる。

 その理由は分かっている。

 吉羅のいない時間が詰まらない。

 吉羅に会えないのが辛いのだ。

 香穂子は、ため息を吐いてしまう。

 それが吉羅に会えない寂しさから来ることを、香穂子は誰よりも分かっていた。

 だが、この時間の間に、転科の件を考えなければならない。

 香穂子にとっては、自分と向き合う時間になった。

 



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