*秋からのラヴソング*


 香穂子は、表彰式のあと、会場から出ようとしていた吉羅を追いかけて行く。

「吉羅理事長!」

 香穂子が声をかけると、吉羅は立ち止まり、振り返った。

 真っ直ぐ見つめられて、香穂子の胸は甘く切なく高まってゆく。

 こんなにも甘くて、切なくて、幸せな感情は他にはないと、香穂子は、思った。

 幸せすぎて、香穂子は、涙を滲ませる。

「今回のコンクールで賞が取れたのは、吉羅理事長のお陰です。有り難うございました!」

 香穂子が深々と頭を下げると、吉羅はフッと甘く微笑んだ。

 その甘さに、香穂子は胸がいっぱいになる。

「日野くん、君がしっかりと頑張ったからだよ。だからこうして結果が出た。出た結果には、必ず理由があるものだからね。これを自信にして、更に頑張りたまえ」

 吉羅は、香穂子の肩をポンと叩いた。

 あからさまに『期待している』とは、吉羅は言わない。

 だが、気にかけてくれているのは、確かだ。

 香穂子にはその滲む事実が嬉しくてしょうがなかった。

「日野くん、お茶をする時間ぐらいはあるかね?」

「大丈夫です」

「だったら、お茶でもしよう。あいにく、それぐらいしか時間がないからね」

 吉羅は艶やかで困ったような笑みを香穂子に向けた。

「有り難うございます!」

 お茶の時間だけでも、香穂子には構わない。

 ただ、吉羅と一緒にいたい。

 誰よりも吉羅に褒めて貰いたい。

 香穂子は笑顔で返事をした。

 

 吉羅は会場から程近い、高級ホテルのティールームに連れて行ってくれた。

 そこで、本格的な、アフタヌーンティーセットをご馳走してくれた。

 充分にお祝いだ。

「これだけで、お腹がいっぱいになるぐらいですね。夕飯が要らなくなるかもしれません」

 香穂子が喜々として笑顔で言うと、吉羅は苦笑いを浮かべた。

「君は少し痩せすぎだからね。もっとしっかりと食べないと」

「太っちゃいますよ」

「もっと沢山食べたまえ。それをヴァイオリンの練習で消費すれば良い。食べたら動く。これが基本だ」

「吉羅理事長らしいです」

 香穂子は幸せな気分で、アフタヌーンティーを楽しんだ。

「日野くん、これで君がヴァイオリニストとして、実力は認められただろう。どうかね。音楽科に転科を考えてはどうかね?」

 吉羅はクールで理知的な眼差しを、香穂子に真っ直ぐ向けてくる。

 香穂子は魂を鷲掴みにされてしまうぐらいに、吉羅の冷静で知的な魅力に囚われていた。

「……転科ですか?」

「今の君の実力であれば、文句なしだ。転科試験は受けてもらうが、君ならパス出来る。それは私が保証する」

 吉羅は淡々と言いながら、香穂子から目線を逸らさなかった。

 転科。

 正直なところ、そこまでは考えてはいなかった。

 香穂子は、上手く考えられない。

 香穂子が視線で戸惑いを伝えると、吉羅は理解したように頷いた。

「今、この場での返事は必要ない。ただ、返事は早く欲しい。転科の手続きが色々とあるからね。それに補習も受けて貰わなければならないからね。ちなみに今回は一人ではないから、安心しなさい」

「私だけではないのですか?」

「そうだ。土浦くんが、転科をする。既に手続きを始めている。そのこともあり、早目に返事が欲しい」

 土浦が転科をする。土浦ならば、充分にやってゆける。

 だが、自分の場合はどうなのだろうか。

 そこが不安でしょうがない。

 香穂子は、唇を噛み締めた。

「そう深刻に考えなくても構わない。今日は、コンクールのお祝いだ。気分を変えて、楽しみたまえ」

「はい。有り難うございます」

 転科は、ヴァイオリンを本格的に学ぼうとしている香穂子には、願ってもない魅力的なことだ。

 だが、果たして両親が納得してくれるかや、何よりも音楽科で冷たい視線にさらされないかが不安なのだ。

「日野くん、ご両親の説得なら私や金澤さんがするし、音楽科の生徒たちの視線も、土浦くんや私たちで和らげるようにする。マイナス面は度外視して、君の素直な気持ちで決めて欲しいと私は思う」

「吉羅理事長……」

 吉羅は香穂子の気持ちなどお見通しのようだ。

 吉羅は、香穂子が心配する部分は、きちんとカバーをすると言ってくれている。

 これはとても有り難い。

 これ以上のバックアップは他にはないと、香穂子は思う。

「はい。自分の将来において、何がベストなのかを、考えます」

「そうしたまえ」

 吉羅は静かに呟くと、穏やかな表情で紅茶を飲んだ。

 紅茶よりも珈琲のイメージがあるが、紅茶もまた似合うと、香穂子は、思った。

 

 吉羅は家まで送ってくれた。

「転科の件は、じっくりと考えてくれたまえ。君はこのあたりで、専門教育を受け初めても問題はないからね。環境面は私がサポートをするから」

「はい」

 香穂子は、もう一度、慎重に返事をする。吉羅は、それを静かに受け止めてくれた。

「有り難うございました」

 車を降りて、香穂子は、きちんと礼を言う。

 吉羅はあいかわらずクールに頷くと、素早く行ってしまう。

 転科。

 音楽をヴァイオリンを思いきり勉強をしてみたいと思ったことは、何度もある。

 ヴァイオリニストになりたいと、思うようになった。

 今回の申し出は本当に有り難いとは思う。

 転科をしたい。

 だが、それに関わることを、ついマイナスに考えてしまいそうになる。

 香穂子は家に入ると、自室に駆け込んで、考えることにした。

 

 こんなにも誰かに関わりたいと強く思ったことは、初めてかもしれない。

 吉羅は、自分の変わりぶりに苦笑いをしてしまう。

 清らかで純粋な存在である香穂子。

 自分が触れたら、関わったら、汚してしまうのではないかとすら、思ってしまう。

 叩けば、埃以上のものが出る人間になってしまった。

 香穂子と同じ年頃の自分が見たら、軽蔑するだろうと想うほどに。

 それでも、全力で支えたいと思う。

 支えずにはいられないと、吉羅は思う。

 香穂子のためならば、惜しまない。

 吉羅はそう考えた。

 こんなにも誰かを純粋に愛したことはないかもしれない。

 こんなにも純粋に誰かを護りたいと思ったことも、他にないのかもしれない。

 香穂子のことを想うだけで、吉羅は心からピュアになるのを感じた。

 まるで高校生に戻ったようだ。

 吉羅はなつかしさと恥ずかしさで、思わず自嘲ぎみに微笑んだ。

 



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