*秋からのラヴソング*

12


 横浜に早く戻りたい。

 吉羅はそう思いながら、ハンドルを切る。

 香穂子が望んだ返事をくれたことが、嬉しくてしょうがなかった。

 吉羅は、早く香穂子とゆっくり話がしたい。

 香穂子ととにかく話がしたいと、吉羅は思った。

 かつて自分も望んだ。

 ヴァイオリンで高みを目指すことを。

 生まれながらに、音楽から祝福を受けているのだがら、それは当然だと、吉羅は思った。

 自分は高みに行く資格があると、ずっと思っていた。

 姉と共に、音楽の神様に愛されているのだと、思っていた。

 そして、そのような鼻っ柱の強い自信と幻想は、姉の死によって見事に打ち砕かれた。

 もう音楽に夢なんて見ない。

 ずっとそう思っていたのに、また、夢を見たくなった。

 日野香穂子が、夢を見たいと思わせてくれたのだ。

 今度は、吉羅は夢をサポートし、自分と姉の夢を繋ぐ者が音楽の高みにゆくことを、夢みるのだ。

 あの頃とは違う形で夢を見ることが出来るなんて、吉羅は思ってもみなかった。

 しかも、いつしか大切な存在となっていた大切な少女と一緒に夢を見ることが出来るなんて、これほど素晴らしいことはないだろうと、吉羅は思った。

 吉羅は横浜に急ぐ。

 香穂子と話がしたくてしょうがなかった。

 

 香穂子の出した決断に、吉羅は喜んでくれているようだった。

 香穂子はそれが嬉しい。

 同時に自分でも英断を下したと思った。

 これからも、ずっと吉羅のそばにいられるのだから。

 香穂子にとっては、それが何よりも嬉しい。

 吉羅と共に同じ夢が見られるのだ。これ以上に素晴らしいことは他にあるだろうか。

 香穂子もまた、吉羅と一緒に話をしたかった。

 こんなにも吉羅と話がしたいことが、他にあっただろうかと、香穂子は思った。

 高速道路の標識を見ながら、横浜に早く到着したかった。

 最高に爽快なドライブの筈なのに、今はこの車から降りてゆっくり話したい。

 その場所は、ふたりの場所である、横浜でないといけないから。

 

 吉羅が運転する車は、無事に横浜に到着し、ゆっくりと話が出来るように、香穂子を直ぐに送れるようにと、山手の雰囲気の良いレストランに連れていってくれた。

 落ち着いて席に座り、お互いにほっとする。

 ようやく、互いのことを話すことが出来るのだから。

「これで、ようやく、君とゆっくりと話すことが出来るね」

「はい」

 ふたりは向かい合い、どちらからともなく、見つめあってしまう。

 ただ見つめあっているだけで、心の奥がほわほわと暖かくなった。

 同時に、ドキドキし過ぎて、甘い苦しさに息を深く吐きたくなる。

「日野くん、良い決断をしてくれたね。こちらとしても、君がヴァイオリンを勉強するための最大限のバックアップをさせて貰うよ」

「はい、有り難うございます」

 吉羅は、香穂子がヴァイオリンを学ぶために最大限の協力は惜しまないと言ってくれている。

 これ以上に素晴らしい助力はないだろう。

 同時に、なんて幸運で、恵まれているのだろうかと、香穂子は思った。

 なのに。

 心の奥底で、なにかが足りない。

 これ以上の幸運を望むなんて、贅沢過ぎることは、勿論、分かっているつもりではある。だが、重いのだ。

 苦しいと言っても言い過ぎではない。

 香穂子は贅沢過ぎる自分を苦々しいとすら、思った。

「学院としても、君が成長をし、ヴァイオリニストになってくれることは、学院教育の素晴らしさを、世に知らしめるものになるからね」

 吉羅は、淡々とごく冷静に呟く。そこにはビジネスの香りがして、香穂子にとってはとても苦しかった。

 香穂子は暗い気分になる。

 吉羅が、香穂子に全面バックアップをしてくれる理由なんて、それしかないのだ。

 なのに。

 吉羅が、少しでも自分に興味を持ってくれているのだろうかと、一瞬、勘違いをしてしまった。

 香穂子は、先程までの甘くて温かな感情が、どんどん沈んでくるのを感じていた。

 

 香穂子の表情が、メランコリーに曇ったことを、吉羅は見逃さなかった。

 香穂子は美しい愁いのある表情を浮かべている。

 綺麗だと、吉羅が思わず見とれてしまうほどだった。

 こんなにも香穂子が綺麗だとは、吉羅は思ってもみないことだった。

 香穂子には、嬉しい筈のバックアップについての話をしただけだと言うのに、その表情はどんどん曇る。

 吉羅は苦しい気分になる。

 これ以上の気持ちは他にないのではないだろうかと、思わずにはいられない。

 香穂子が、どうして切なく思っているのかが、吉羅には全く分からなかった。

「日野くん、どうかしたのかね?」

 吉羅は思わず声をかけた。

 香穂子はハッと息を飲んだ。

「何でもありませんよ」

 香穂子は何事もなかったかのように、さらりと受け流した。

 吉羅はそれを表面上は受け流したが、内心は穏やかでなかった。

「日野くん、これで君が心置きなく学ぶための環境は整ったから、安心したまえ」

「はい。有り難うございます。ヴァイオリンが上達するように、精一杯、頑張りますね」

「そうしてくれたまえ」

 吉羅はあくまでクールだ。

 香穂子に対しては特にだ。

「日野くん、これからは思いきりヴァイオリンを学びたまえ」

「はい!」

 香穂子の受け答えには、ヴァイオリンを学ぶ上での気合いが感じられ、前向きさもある。

 だが、その奥に、何かを隠しているようにしか、吉羅には見えなかった。

 暗い影を。

 それを自分が、拭ってあげられるのだろうか。

 吉羅は、その役は自分がやりたいと、思わずにはいられなかった。

 香穂子の心にある曇りや傷は総て、自分が消し去りたいと吉羅は思う。

 純粋で汚れのない香穂子を全力で守りたい。

 全力で守れるのならば、何でもしよう。

 香穂子は吉羅にとっては、至宝だった。

 

 吉羅にじっと見つめられている。

 その眼差しは何処か切ない情熱が滲んでいる。

 こんなにも苦しくも切ない感情は、他にはないと思うほどに。

 どうしてこのような眼差しで見つめてくるのだろうか。

 それが苦しい。

 吉羅の眼差しの意味を、香穂子は上手く捕らえることが出来なかった。

 二人きりになったら、沢山、話したいことがあったというのに。

 それがどうして出来ないのだろう。

 もどかしかった。

 料理が出てくる、流石にリラックスしてきた。

「理事長、出張は有意義でしたか?」

「ああ、思ったよりも収穫は大きかったね。君も楽しみにしてくれたまえ。素晴らしい研修が出来そうだ。よりヴァイオリンに励みたまえ」

「はい。素晴らしい研修ってどのような研修ですか?」

「秘密だ。君を驚かせたいからね」

「楽しみにしていますよ」

 香穂子は、吉羅が準備を進めてくれている研修に想いを馳せる。

 とても楽しい気分になるが、同時に切ない気分にもなる。

 吉羅は、自分を駒のひとつとしてしか考えていないのではないか。

 そう感じずにはいられなかった。



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