*Je Te Veux*

12


 あのキスを永遠に忘れない。
 ためらうような優しさと、深い情熱が隠されたキス。
 やるせない味のするキスは、幸せと甘い胸の痛みのどちらも香穂子にもたらしてくれた。
 香穂子は指先で何度も唇をなぞると、胸が甘く苦しく焼け付けるような痛みがあることを感じた。
 このキスが意味があるのならば、恋する想いが含まれているならば、これほど素敵なことはないのに。
 幸せで幸せで堪らない瞬間だった。
 香穂子は、早く吉羅に逢ってその顔が見たくてたまらない。
 吉羅の顔を見ているだけで、じんわりとした幸せを感じずにはいられなかった。
 今日逢ったら、色々と話がしたい。そしてその笑顔が見られれば、どんなに素敵なことなのだろうか。
 昨日までとは違った自分になったような気分になり、香穂子は幸せで透明な幸せを感じていた。
 教室に入ろうとすると、天羽が顔色を変えてこちらにやってくるのが見えた。
「…香穂…っ! 大変っ!」
 息を切らして天羽は香穂子の腕を掴むと、そのまま音楽科の屋上へと連れていく。
 天羽がこれほど慌てているということは、恐らくバッドニュースだ。しかもかなり悪い知らせだ。
 香穂子は不安になりながら、屋上へと向かう階段を上がった。
「どうしたの…? 菜美」
 香穂子が戸惑いのまなざしを向けると、天羽は肩をがっしりと強く掴んできた。
「香穂、しっかり聴いてね。あのさ、吉羅のヤツがね」
 吉羅の名前を出されて、香穂子はドキリとする。
 心臓が痛くて堪らなくて、嫌なリズムを刻むのが不安でしょうがない。
 背筋に嫌な汗が流れ落ちた。
「何があったの…?」
 吉羅に関する嫌なニュースは聴きたくはない。
 背筋に冷たい嫌な汗を感じながら、香穂子は生唾を飲み込む。
「吉羅のヤツがさ、普通科と音楽科を切り離すって…! ようやく普通科と音楽科が仲良く出来るようになってきたのにっ、あの男がすることはサイテーだよっ!」
 今まで感じていた甘くてふわふわとした綿菓子のような感情が、粉々に砕け散った。
 まるで硝子を激しく叩き割られたような衝撃だ。
 香穂子は頭が真っ白になる。
 ショックが大きくて、周りの何も視界にも耳にも入らなかった。
 心臓が止まってしまうのではないかと思うほどの激痛が走り、今すぐ泣き出したくなる。
 楽園から一気に地獄へと突き落とされた気分だった。
 あの穏やかな笑みは幻だったのだろうか?
 淡い恋心を抱いた相手が、敵として姿を変えた瞬間でもあった。
 気持ちが悪いぐらいに、躰がおかしくなる。
 香穂子はくらくらになる余りに、足に力が入らなくなった。
「香穂、大丈夫!?」
 天羽は香穂子の躰を何とか支えてくれると、心配そうなまなざしを向けて来た。
「大丈夫、香穂?」
 親友の泣きそうなぐらいに心配そうな瞳を見ていると、こんなことぐらいで動揺してはいられないことを悟る。
 しっかりしなければ。
 自分がしっかりしなければ、吉羅に負けてしまう。
 最も負けてはいけない相手。
 香穂子は呼吸を整えると、ようやく天羽に笑みを浮かべることが出来た。
「大丈夫だよ。だから、何か自分達で出来ることはないか探してみようよ! 私たちが動けば、吉羅さんも考え直してくれるかもしれないから」
 香穂子は不自然な作り笑いを精一杯浮かべて、天羽を励ました。
 今やることをやれば、きっとあのひとも解ってくれるはずだから。
 香穂子は吉羅を信じずにはいられない自分を切なく思っていた。
 普通科と音楽科の分離。
 それは香穂子にとっては、折角好きになった音楽と引き離されてしまうのと同じ意味を持っている。
 自分の音楽を守るために、折角、芽生えた普通科と音楽科の友情を守るためにも、ここは吉羅と向き合わなければならない。
 たとえ…芽生えた恋が消えてしまったとしても。

 昼休みになり、天羽が声を掛けたコンクール参加メンバーたちと一緒に、吉羅がいる応接室へと向かった。
 まるで戦場へと赴く気分だと香穂子は思う。
 ここで泣いては負けてしまうから。
 ここで気弱なことを言ってしまえば負けてしまうから。
 香穂子は背筋を伸ばして胸を張ると、ドアをノックをした。
「日野です」
「入りたまえ」
 香穂子は息を吸うと、覚悟を決めて応接室へと入る。
「失礼します」
 応接室にいた吉羅は、相変わらず隙のない冷徹さを身に着けていた。
 あの夜に見せてくれた優しく甘い表情も今は消え去り、金属よりも硬質な冷酷を秘めている。
 キスをしたのは、昨日の夜のことなのに、総ては幻だったのかと思うぐらいだ。
 吉羅は相変わらず感情のない瞳を香穂子に向けると、厳しいまなざしを向けてきた。
 このまなざしに対峙するしかない。
 負けられないから。
 香穂子は唇を噛み締めると、吉羅を射るように見上げた。
「吉羅理事、普通科と音楽科を分離するのは本当ですか!?」
 香穂子の攻撃的な声にも、吉羅は何でもないかのようにクールなままだ。
 高校生の子供がいくら集まっても敵うはずなどないと思わせる威圧感が、吉羅からは溢れている。
「…そうだ。学院はより効率的に利益を上げなければならない。教育とはいえ、学院は私立だ。ビジネスなんだよ」
 子供の意見など聴かないとばかりに、吉羅は威圧的に呟く。
 やはり利益のことしか考えないのだろうか。
 このひとには熱くて切ない感情は流れていないのだろうか。
 そう思うと泣けてくる。
 だが、泣いてしまえば負けだから。
 香穂子は瞳に炎を浮かべると、吉羅を視線で捕らえた。どれぐらい見つめあっていたかは解らない。
 吉羅の瞳が一瞬甘く切なく陰ると、まるで迷子のようにフッと目を伏せた。
「…君達の意見は解った…。条件を出そう。みなとみらいホールを満杯にし…、難易度の高い演奏をして…、私を含めた観客に、本当の音楽の素晴らしさを伝えることが出来るのならば…、君達の意見を取り上げる…」
 吉羅は静かに淡々と呟く。
 いつものように冷たい声。
 しかしどこか温かさと人間らしい切なさを香穂子は感じ取った。
 もう絶望的な気分じゃない。
 厳しい条件だが、きっと吉羅なりの譲歩なのだろう。
 恐らく、いつものようにビジネスに厳しい吉羅ならばきっと出して来なかった条件に違いない。
 香穂子たち生徒の意見などは、鼻にもかけないだろう。
 厳しいが可能性をくれた。
 だからこそ、吉羅の想いに応えて、最大限の努力をしなければならない。
 香穂子は腹を括ると、力のある瞳で、吉羅を見た。
 そこには迷いすらも浮かべなかった。
「解りました。理事の提案、受けて立ちます!」
 今まで培った仲間との絆があれば、きっと頑張っていける。
 香穂子のキッパリとした宣言に、吉羅は冷たい笑みを唇に湛える。
「せいぜい頑張りたまえ」
「はい!」
 香穂子は背筋を伸ばすと、高らかに宣言をした。
 宣戦布告。
 あなたには負けませんから。
 瞳にありたけの吉羅への想いを詰め込み見つめる。
 吉羅は僅かに微笑んだだけだった。

 香穂子たちが応接室を出た後、吉羅は深く溜め息を零した。
 再建を託された以上、非情を貫かなければならない。
 強引に事を進めることも出来たが、そうすることが出来なかった。
 理由は解っている。
 香穂子のあの切ないまなざしだ。
 瞳に炎が浮かんでいるのに、どこか哀しげな瞳。
 綺麗で良い目だと思った。
 心底惹かれるまなざしだった。
 炎のような瞳は、吉羅であろうと誰であろうと容赦はしないと言っているようだった。なのにどこか哀しげに輝いている。
 あの瞳に負けたのだ。
 あの瞳を見なければ、譲歩はしなかった。計画は断行していただろう。
 誰よりも純粋で綺麗な瞳。見せつけられて、本当に切ないほどに香穂子が欲しいと思った。
 キスをしてしまったほどに求めた相手を、更に強く求めている。
 香穂子が欲しい。
 なのにここまで来ても、素直になることが出来なかった。
 いつもは健康のために極力控えている煙草に手を伸ばす。
 唇に押し込めると、吉羅は静かに火をつけた。
 結局、悪人に徹したくないのかもしれない。特に日野香穂子の前では。
 吉羅は目を閉じ、昨夜のキスを思い出す。
 人生最良のキスだと、解っていた。
 そして香穂子は、手を伸ばしても決して手に入れることが出来ない存在ということも。
 汚れている人間が触れることが出来ないだろう相手であることを、吉羅は解っていた。
 自分には資格がない----そうこころに言い聞かせながらも、魂は許してくれそうになかった。





Back Top Next