*Je Te Veux*

13


 吉羅が課した条件は余りにも厳しい。だが、それを超えなければならない。
 香穂子は意を決して、誰よりも多く練習をすることにした。
 殆どの時間をヴァイオリンにさき、練習し続ける。
 やってもやっても足りないような気がする。
 だが練習をしっかりとやらなければ、とうてい吉羅の壁を超えることなど出来やしなかった。
 毎日、何かにとりつかれたように香穂子は懸命にヴァイオリンを練習する。
 必ず乗り越えて見せる。乗り越えなければならない。
 気負いと焦りが香穂子を練習へと駆り立てていた。
 時間がないから、上手く時間を使わなければならない。
 時間金持ちになりたいとすら思った。

 根を詰めて練習をしているせいか、その日は朝からふらふらだった。
 だが休んでいるわけにはいかなくて、香穂子は必死になって持ち堪えようとした。
 それこそクリスマスのステージが終わって直ぐに倒れても構わないから、今は何とか持ち堪えて欲しかった。
 自分でも過労だということは、嫌というほど解っている。だからこそ、堪えたかった。
 昼休みも直ぐに食事を済ませてしまえるように、最近は少ない量で直ぐに食べられるようにしている。
 昼休みもみっちりと練習をしたかった。
 しなければ、立派に演奏が出来そうになかった。
 今日も素早く昼食を済ませて、香穂子は中庭へと行こうとした。
「さてと、しっかり練習しなくっちゃ!」
「香穂!」
 練習に行こうとしたところで、香穂子は天羽に腕を取られてしまった。
「香穂、ダメだよ! 凄く顔色が悪いじゃないっ! 今日は練習をするのはやめな。このままだとマジで倒れてしまうよ」
 天羽は香穂子を心配そうな瞳で見つめると、泣きそうな顔をしていた。
 友人のこころから心配している顔を見ると、胸が痛くなる。
 だがここで止めるわけにはいかなかった。
「大丈夫だよ、菜美、結構平気なんだよ」
 香穂子はわざと顔色を良く見せるように笑うと、とってつけたような明るさを滲ませた。
「…香穂…」
「本当に大丈夫だからさっ! 心配しないでね。ホント。私、練習してくるから、じゃあまた後でね!」
 香穂子は笑顔で天羽からすり抜けると、中庭へと向かう。
 このまま卒倒してしまいそうになるぐらいに具合が悪くても、今は乗り切るしかなかった。

 最近、日野香穂子の顔色が余り良くないことを、吉羅は気付いていた。
 心配だが、なかなか声を掛けてやることが出来ない。
 やるせないジレンマに苦しめられ、吉羅のこころは痛かった。
 香穂子に何かあれば、きっと今まで以上に冷たくなるのは間違ないだろう。
 吉羅は溜め息を吐くと、ゆっくりと中庭へと向かった。
 気分転換をするために。
 中庭に出ると先客が既にヴァイオリンを練習していた。
 温かな音を聴けばわかる。そこにいるのが香穂子だということを。
 最近、見掛ける度に、透明度の純度が増しているような気がする。
 本当に清らかだと思うほどに、純粋さが満ちていた。
 本人はまだまだだと思っているようだが、奏でる音楽は、温かさと清らかさが混じりあった、ひとの一番ピュアな部分に語りかけるようなものだった。
 吉羅の魂が浄化されるかと思うほどに、綺麗なこころが映し出されたような音。
 こんなに綺麗な音を奏でることが出来るのは、日野香穂子とあとひとりだけ知っている。
 それは紛れもなく吉羅の姉だけだった。
 今、生で音を聴くことが出来るのは、日野香穂子だけだ。
 あのひとの音は、遠い昔に録音がなされたテープでしか、聴くことは叶わない。
 背筋を伸ばし、まるで音楽に敬意を払うようにヴァイオリンを弾く香穂子を見守りながら、吉羅は苦しくも甘美な気持ちになる。
 どうか日野香穂子が無事にコンサートを成功出来るように。
 自分の利害とは裏腹な願いをこころのなかに抱きながら、吉羅は香穂子を見つめる。
 見つめているだけで呼吸が難しくなってしまうほどのやるせない気持ちに覆われる。
 香穂子のことを想うだけで、幸せな痛みを覚えた。
 香穂子に声を掛ける資格なんて今の自分にはないから、せめて見守っていたい。
吉羅はただ静かに香穂子の練習を見守っていた。
 音楽をこころから愛した姉と、香穂子の姿を重ねてしまう。
 その美しさに、吉羅はいつまでも見ていたいとすら想う。
 不意に香穂子の様子がおかしくなる。
 躰が揺れたかと思うと、ヴァイオリンを持ちながら、そのまま崩れ落ちていく。
「日野君」
 吉羅は直ぐに香穂子に駆け寄ると、その華奢な躰を抱き留める。
「倒れるまで頑張らなくて良いんだ…君は…」
 吉羅は苦々しく思いながら香穂子を抱き上げると、そのまま保健室へと連れていった。

「すまないが彼女を診てくれないか」
 香穂子を抱き上げた吉羅の姿を見るなり、保健医は直ぐに駆け寄ってきた。
「解りました。直ぐにベッドに寝かせてあげて下さい」
 保健医に言われた通りに吉羅は香穂子を寝かせると、ヴァイオリンを丁寧にサイドテーブルに置いた。
 保健医は直ぐに香穂子の様子を見ると、何度か頷く。
「…過労ですね。食べる時間を惜しんでまで、練習に明け暮れたからじゃないかしら。少し休んで栄養つけたら直ぐに元気になります」
 保健医の診断に、吉羅はあからさまにホッとして躰から力を抜く。
「…では彼女のことは頼みました」
「はい。解りました」
 吉羅は何度も香穂子を見つめた後、ようやくベッドから離れていく。
 倒れてしまうほど追いつめていた自分が、苦々しい。だが、再建を任された以上は、冷徹に事を進めなければならない。
 なのに冷徹になりきられないのは、目の前の少女の故だ。
 あどけない顔を見つめながら、吉羅は深く感じる。
 香穂子が愛しい。
 だが決して手に入れることが出来ない清らかで大切な存在。
 欲しいものが手に入らないなんて、今までは殆どなかった。
 手に入れるためにはどのようなことでもしたのに、香穂子にだけは傷付けるような強引なことはしたくない。
 傷つけられないほどに、どのような苦しみも与えたくないほどに、愛しく大切な存在だった。
 吉羅は静かに保健室から出る。
 香穂子のいち早い回復を望みながら。

 目覚めた時、保健室のベッドに寝かされていることに戸惑いを覚えた。
 香穂子は呼吸を整えると、先ほどのことを思い出す。
 中庭で練習していた時に、躰が重苦しくてふらふらし、闇に引き摺られるように意識を沈み込ませた。
 誰かが支えてくれた感覚だけは解ってはいたが、そこからは何も覚えてはいない。
 力強い腕だった。
 甘くて男らしいときめくような香りが、鼻腔に遺っている。
 身に覚えがあるとても素敵な香り。
 支えてくれて、ここまで運んでくれたのは吉羅だろう。吉羅であって欲しい。
 香穂子がもそもそとベッドから起き上がろうとすると、ベッドを仕切るカーテンが開かれる。
「日野さん、気がついた?」
「先生…」
 いつもは元気いっぱいの香穂子だから、健康診断以外は余り馴染みがない保健医ではある。
「ダメよ、コンサートが近いからって余り無理をしたら」
 保健医は困ったように笑うと、香穂子にゆっくりと近付いて来た。
「大丈夫? 日野さん」
「はい、どうにか…」
 香穂子が返事をすると、保険医はニッコリと微笑んでくれた。
「吉羅理事に感謝しなさいよ。あなたをここまで運んで来てくれたんだから」
 吉羅がここまで運んできてくれた。
 その事実に、香穂子は目眩を起こしてしまいそうなぐらいに喜びを感じる。
 やはり吉羅だった。
 嬉しくて泣きたくなる。
 お礼が言いたい。
 香穂子はベッドから下りると、保健室を脱兎のごとく出て行く。
「日野さんっ! あなたは今日はゆっくりしなければならないのよっ!」
 保健医の止める声も振り切り、香穂子は応接室へと向かう。
 気分の悪さだとかは、もうどこかにいってしまった。
 応接室まで来ると、香穂子は息を乱しながら、ドアを開ける。もうノックをする暇すらなかった。
「吉羅さんっ!」
 香穂子が応接室に勢いを付けて乗り込む。
 しかし、そこにはもう吉羅の姿はなかった。





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