*Je Te Veux*

14


 逃げるように学院を出てしまったことを苦々しく思いながら、吉羅は東京に向かって車を走らせていた。
胸が痛い。
 どのような名医にも治せない病。
 こんなにも苦しいのに、温かな感情があったのかと思う。
 日野香穂子を思い浮かべるだけで、幸せがふつふつと湧きあがってくるのを感じていた。

 日曜日ですらもじっとしていられなくて、ヴァイオリンを練習するために、香穂子は街に出た。
 星奏学院があるおかげか、街中で練習しても好意的に受け入れて貰えるのが嬉しい。
 今日は公園で練習をしようと坂道を上がっていると、吉羅が学院に向かって歩いているのが見えた。
 吉羅はきっと休日出勤でもするのだろう。いつものようにテーラードの仕立ての良いスーツを身に纏っていた。
 香穂子は切ない想いを抱きながら吉羅を見つめる。
 吉羅を見るだけで、息苦しくなった。
 見つけて欲しいような、見つけて欲しくないような複雑な気分になる。
 香穂子は吉羅の背中を見つめながら、哀しいほどの孤独を感じた。
 振り返って欲しい。いや振り返って欲しくない。
 香穂子が焦れた想いを抱いていると、吉羅がゆっくりと振り返ってきた。
 まるで映画のなかのワンシーンのように綺麗に振り返る。
 香穂子を見つけた瞬間、吉羅の瞳は明らかに見開かれ、驚いた様子だった。
「日野君か…」
「こんにちは、吉羅理事」
 香穂子は敬意を表すように頭を深々と下げる。
「練習に来たのか」
「はい。皆よりも沢山練習をしないと、追いつけないから…」
「なるほどね…。確かに、魔法のヴァイオリンから普通のヴァイオリンに変えれば、かなりの努力をしても埋めることが出来ないだろうからね」
 吉羅は冷たい声で、総てを見通しているように呟いた。
 魔法のヴァイオリンのことも、何もかもを見通している冷たい視線に、香穂子は震えすらも感じてしまう。
「…ご存じなんですね…」
「私もかつては君と同じように、ファータに散々な目にあわされたからね」
 吉羅はふと寂しそうな溜め息を吐くと、香穂子から視線を逸らせた。
 まるで拒絶されているかのような視線の動きに、香穂子は唇を震わせる。
 どんなことをしてもこのひっのこころには入り込むことが出来ないのだろうか。
「…余り無理をしないようにな…。この間のように倒れては困るからね」
 冷たい声と視線。なのにどこか温かさを感じるのは何故だろうか。
「それじゃ」
 吉羅は踵を返すと再び歩きだそうとする。
 まだこの間の礼をきちんと言えてはいない。今は絶好のチャンスだというのに。
「あ、あのっ!」
 香穂子が呼び止めると、吉羅はゆっくりと振り返る。
「何だね?」
「こ、この間は、どうも有り難うございましたっ!」
 香穂子は挨拶をした時よりも更に深々と頭を下げると、吉羅に真面目な笑みを向けた。
「…大したことなくて良かったな」
「はい。有り難うございました」
 香穂子はもう一度深々と頭を下げる。頭を上げると、吉羅の瞳とぶつかった。
「日野君」
 じっと見つめられて、香穂子はその場から動けない程の呪縛を吉羅から感じる。
「…たまには練習を休んで気分転換が必要じゃないのかね。君は…」
「気分転換…」
「今日の君は暇を持て余しているようだからね。私と一緒に気分転換をしよう。着いて来なさい」
 吉羅は有無言わせない雰囲気で言うと、香穂子に背中を向けて歩き出す。
「あ、あのっ、吉羅理事!」
 香穂子が名前を呼びながら追い掛けると、吉羅は立ち止まった。
「日野君、たまには気分転換をしないと煮詰まってしまう。根を積めすぎて疲れるのは君だからね」
「は、はい…」
 吉羅より半歩下がったところで歩きながら、香穂子は冷たい彫刻のような吉羅の顔を見上げた。
「音楽のことを忘れて気分を変えたほうが捗る場合もあるだろう」
 吉羅は駅に向かうと、そのまま改札を通過する。香穂子も慌ててカードを取り出して改札を潜った。
「今日は車じゃないんですか?」
「今日は夕方からパーティに呼ばれていてね。車では都合が悪い」
「そうなんですか…」
 香穂子は吉羅の後に着いて電車に乗り込むと、まるでマジカルミステリーツアーに参加したような気分になった。
「吉羅理事、どこに行くんですか…?」
「…ストレスを消すことが出来る最高の場所だ」
 吉羅はそれだけを言った後で、直ぐに電車を降りてしまった。
「美しい風景ととびきりの甘いものがあれば、女性のストレスは少しは解消されるはずだろう?」
 吉羅は感情なくまるで教科書を読んでいるかのように呟くと、有名な外資系のホテルへと入っていく。
 こんなカジュアルな服装は全く相応しくない高級感が溢れる場所。
 香穂子は恥ずかしくて逃げ出したくなってしまった。
「あ、あの、このようなところに、私のようなスタイルをした者がいて良いんでしょうか?」
 香穂子がしどろもどろに言うと、吉羅の硝子のように尖った視線が向けられる。
「構わない。君はそんなことを気にしなくて良い」
 吉羅は全く気にしないとばかりに、さっさと歩いていってしまう。香穂子はその後を、おたおたと追い掛けていった。
 吉羅が連れていってくれたのは、有名なパティシエが運営しているバールだ。外資系ホテルの最上階に位置するそこは、見晴らしもスウィーツも最高だと聴く。だが値段もかなり高級で、香穂子のような高校生には、とうてい手が届かないところであった。
 吉羅に連れられて、香穂子はおたおたとバールのなかに入っていく。
「理事はよくここには来るのですか?」
「夜はね。甘いものは余り好きではないから、まず昼間は来ない」
「連れてきて下さって有り難うございます」
「ああ」
 吉羅は珍しく甘い笑みを浮かべると、いつもよりもリラックスしたような表情になる。
 柔らかな横顔に、香穂子はドキリとする。
「好きなものを選ぶと良い。気は遣わなくて良いから」
「はい」
 気を遣わなくて良いと言われても、やはり恐縮してしまう。ましてや相手は学校の理事であるのだから。
「じゃあ…ロイヤルミルクティとザッハトルテを…」
「解った」
 吉羅はスマートにギャルソンを呼ぶと、香穂子の分まで注文してくれた。
 吉羅はと言えばコーヒーだけだ。
 香穂子が恐縮していると、吉羅は気にするなとばかりに酷薄な笑みを浮かべた。
「今日は気を遣ったり、恐縮したりしなくて良いんだ…。羽根を伸ばしてゆっくりすれば良いんだ」
「はい」
 様子を見るように香穂子は吉羅を見つめる。
 すると今までにはない冬の陽射しのような瞳と雰囲気を醸し出している。
 美しいセピア掛かった風景を見ているようだ。香穂子はうっとりと見つめ、目の前にケーキと飲み物が来ても気付かなかった。
「日野君、来ているよ」
「あ、あ、はい、有り難うございます」
 香穂子はテーブルに視線を落とすと、慌ててザッハトルテにフォークを刺す。その様子を吉羅は優しい仕草で眺めていた。
 稀にしか見られない吉羅の横顔。
 今は充分この表情を楽しみたいから。だからこの時間を大切にしよう。
「美味しそう。頂きます、理事」
 香穂子はザッハトルテをフォークで切ると、大きく口を開いて頬張った。
「理事ももったいないですね、こんな美味しいものが苦手だなんて、人生損をしていますよ」
「 …損をしているとは思ったことはないがな」
「そうですかねー」
「日野君、ここにいる時ぐらいは“理事”は止めないか?この瞬間は、私たちは理事と生徒ではないから」
 吉羅に見つめられて、香穂子の息がおかしくなる。
 ザッハトルテを刺したフォークを持ったままで、香穂子は吉羅を見つめた。
「で、では、吉羅さんって呼びます」
「ああ。その方が良い」
 吉羅の表情を見ているだけで、香穂子の恋心は苦しいほどに盛り上がってきてしまう。
 窓の外に広がる、麗しきポートビューよりも、今は吉羅を見ていたかった。





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