*Je Te Veux*

15


 綺麗な風景よりも吉羅を見ていたかっただなんて、自分でもどこまで重症なのかと思う。
 いつもの厳しい表情とは違い、吉羅の表情は優しさすら感じられる柔らかなものだった。
 あまり見ることが出来ない表情だから、ずっとこころに焼き付けておきたい。
 香穂子は吉羅からずっと見つめていた。
 余り話はしなかったが、こうしてふたりでいるだけで楽しく、リラックス出来た。
「君は良い顔をしてケーキを食べるね。…ヴァイオリンを楽しそうに弾いているときと同じようだね」
「どちらも楽しいですから」
「…だったら、クリスマスコンサートにもそのまま出せば良いじゃないか。そのほうが良い結果が出る」
「…吉羅さん…」
「だからいつもの君らしさを出せば良い」
 もし香穂子たちが吉羅の出した条件をクリアーすれば、不利益になるのはそちらのはずなのに、こうしてアドバイスをしてくれる。
 優しいのか厳しいのか解らない吉羅の態度は、香穂子の芽生えたばかりの恋心に拍車を掛けていく。
 吉羅と過ごす冬のひととき。
 幸せがふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。
 吉羅を見つめてばかりいるものだから、時折、視線が絡んでしまう。
 視線が交差するのが恥ずかしくてしょうがなくて、香穂子はわざと視界を海に向けた。
「こ、ここから見る景色は最高ですね。あっ、江ノ島まで見えますよっ!」
 誤魔化すように明るく香穂子が言うと、吉羅は黙って見守るように見つめてくれていた。

 吉羅と過ごすひとときも直ぐに過ぎて、香穂子は帰る時間になる。
 とぼとぼと吉羅の後を歩きながら、胸の奥が寂しさでいっぱいになった。
 まるで楽しかった遊園地から帰っていくような気分だ。
 過ごした時間が楽しければ楽しい程、その後の喪失はとても大きい。
「日野君、明日からの練習、頑張りたまえ」
 ずっと黙っていた吉羅が口を開き、香穂子は背筋をしゃんとさせた。
「あ、有り難うございます」
「しっかりやると良い。君たちがどれ程のものか見極めたいからね。せいぜい頑張ると良い…」
 吉羅は淡々と話し、いつものように容赦ない瞳で香穂子を見る。
 もう楽しい時間は完全に終わりだと、香穂子に言っているようだった。
 また敵対する関係に戻る。だからこちらも受けて立たなければならない。それが吉羅の望みだろうから。
「頑張ります。そして必ず、吉羅さんの条件をクリアーします!」
「ああ」
「私たちの手で学院を守ってみせますから。普通科と音楽科の両方があってこその学院であることを、吉羅さんに知って貰いますから」
 香穂子の宣言に、吉羅のまなざしは嬉しそうに光る。
 まるで好敵手を見つけて喜んでいるようにも見えた。
「…君達と私は、同じように学院の将来を考えていることを解っていてくれ。私から言うことはそれだけだ」
 吉羅の声は相変わらず硬くて、そこには冷たさしか感じられない。だが、冷たさに隠れた温かい優しさが見え隠れしていることを、香穂子は見逃さなかった。
「…日野君…、では私はこれで失礼する」
 吉羅は香穂子に背を向けると、再び駅へと消えていく。
「あ、あのっ! 吉羅さんっ!」
 香穂子が呼び止めると、吉羅は静かに振り返る。
「今日は有り難うございました。良い気分転換が出来ました。有り難うございました!」
 香穂子が頭を下げて上げると、もう吉羅はいなかった。
「…今日は…本当に楽しかったです…。吉羅さん…」
 吉羅には聞こえないことは解ってはいたが、香穂子は甘い幸せを滲ませながら呟いた。
 明日から頑張ろう。
 その決意でいっぱいにして。

 吉羅がホームで電車を待っていると、ポンと肩を叩かれた。
「よ、吉羅。今日も仕事か?」
「金澤さん…」
 いつものように飄々とした笑みを浮かべながら金澤が立っている。金澤もまた仕事帰りのようだった。
「金澤さんは学院で仕事をされていたんですか?」
「いいや、ちょっとウメさんの悩み相談をだな…」
「ウメさん? 掃除をしている方ですか?」
「いいやにゃんこ」
 金澤の相変わらずなマイペースぶりに、吉羅は苦笑いをする。
 吉羅が今、素直になることが出来る貴重な相手だ。
「まあウメさんは冗談として…、アイツらも頑張っているからな…。上手くいくように、ちょっとした環境づくりだ。まあ、お前さんにとっては…」
 金澤はそこまで言ったところで、言葉を飲み込む。
「…都合が悪いってことは表面上で、本当はそんなことはないかもしれないな…」
 金澤は吉羅を見つめると、優しい見透かすような笑みを浮かべる。
 本心を見られるのが怖くて、吉羅は視線を外した。
「…私は学院の立て直しのために奔走しているだけです。計画通りにいかないというのは、私にとっては不 利益以外に何もないとは思われませんか?」
 動揺を隠すために、吉羅はわざと刺々しい口調で話す。しかしのほほんと見えて、本当は鋭さを持っている金澤をそんなことで誤魔化せるはずはない。
「…まあな。お前さんの本音は、日野を見ている時に出ているさ。誤魔化さなくてもな」
 金澤は悟ったような深い表情を浮かべながら呟くと、フッと笑みを浮かべる。
「…随分と冷たい印象になったものだと思っていたがな、お前さんは学院の生徒だった頃に少しずつだが戻りつつある。まあ、あんなことがあったから音楽に対して冷たく、否定的になるのは解るがな。それでもお前さんは何処かで音楽を忘れられなかったんだろうな…。日野を見ているお前さんを見ていると、そんなことを思うけどな…」
 金澤はひとりごちるように言うと、面倒臭げにジーンズのポケットに手を突っ込む。
「な、吉羅よ、学院に来てから…、いや…正確に言えば日野と出会ってから、お前さんは優しく柔らかくなった。尖ったところはなくなったな…」
 金澤はニッコリと大人の男らしい笑顔を浮かべる。
 吉羅のことを鋭く見ていた金澤に、少し複雑な感情を抱きながらも、反論も出来ずに黙っていた。
 渋谷行の電車がホームに入ってきて、吉羅も金澤もそれに乗り込む。
「吉羅、お前もこれから帰るのか…?」
「いいえ。これからみなとみらいのホテルで財界のパーティがあるので参加する予定です。加地代議士も見えられますから、都合が良い」
「加地…。ああ加地葵の父親か」
 金澤は頷いた後、ナイフのように切れ味の鋭いまなざしで、吉羅を見つめた。
「…で、学院のために奔走するって訳か…。現状のままどうにか出来ないかと…」
 金澤の一言に、吉羅は一瞬顔色を変える。
 やはり昔から金澤の鋭さには敵わないところがある。
「…やっぱりな…。お前さん、その性格で随分と損をしているぜ。まあ、吉羅暁彦の素顔をどれくらいの生徒が解っているかな…」
 やがて電車はみなとみらい駅へと緩やかに滑り込む。
 吉羅が立ち上がると、金澤は悠然と見上げてきた。
「吉羅、上手くいくように祈っているぜ」
 吉羅は金澤に一瞥を送っただけで、黙って電車を降りる。
 どう言われてもこれが自分のやり方だ。今更変えようがない。
 香穂子はきっと上手くやるだろう。
 そう信じて止まない。
 だからこそ、吉羅は人知れず水面下で動く。
 このような苦労は誰にも知られないほうが良いから。
 香穂子にとっても学院にとっても良い方向にいくように、祈らずにはいられなかった。





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