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クリスマスコンサートもいよいよ近くなる。 アンサンブルを合わせるのに忙しそうな香穂子を見守りながら、彼女たちがコンサートを成功した際の対策に、吉羅は奔走していた。 余りにも忙しくて休息する暇もない。 だが躰に染み入る疲れは決して不快なものではなく、むしろとても気持ちが良いものだった。 経営に参画していたヘッジファンドの仕事も、一線からは退き、いよいよ学院の経営に本腰を入れることが出来る。 様々な手を打たなければならない。 だが、どんな努力をしても、学院は守りたいと決意を固めていた。 学院のために。 吉羅家のために。 そう言い聞かせてはいるが、そこに一番大きな要素が加わっていることを、勿論、吉羅は強く気付いてはいる。 日野香穂子のために。 あの真っ直ぐで綺麗な瞳を曇らせることがないように。 だが、ひとまわり以上も下の子供に恋を抱いているなんて、今更認められない。 吉羅は今更ながらに素直になれない自分に、苦笑いをするしかなかった。 疲れが溜まっているのか、今日は久々に怠さを感じていた。 連日、地元財界や首都圏の教育関係者、全国の教育関係者に至るまで、綿密な根回しと打ち合わせをしていたのだから、当然なのだが。 流石に殆ど眠っていないとなると、躰はなかなか回復してはくれない。 「…私ももう若くはないということだろうな…」 吉羅は応接室のソファに横になると静かに目を閉じる。こうしてしっかりと体力をチャージしなければならなかった。 不意に静かに応接室のドアが開けられる。 明るく汚れない雰囲気。 目を閉じていても誰かは解る。 日野香穂子だ。 心配そうにこちらを見ていることだろう。 「…あの…吉羅理事…」 自分の名前を呼ぶ声も、まるで優しい子守歌のように聞こえる。 出来たら“暁彦”と呼んで欲しい。かつて愛情を込めて呼んでくれたあのひとのように。 日野香穂子は忍び足で吉羅に近付いて来る。香穂子が顔を覗きこんだ瞬間、目をゆっくりと開けた。 「…日野君…、君は寝込みを襲う趣味でもあるのかね?」 吉羅がわざと冷たい声で言うと、香穂子は驚く余りに直立不動になる。 「めっ、めっそうもないですっ!」 真っ赤になって慌てふためく香穂子が愛らしくて、吉羅は凪のような笑みを浮かべる。 「…日野君…。私の寝込みを襲うとした罰だ。ヴァイオリンを弾いて貰おうか?」 「今ヴァイオリンを持っていませんし…」 「だったそのヴァイオリンを使うと良い」 吉羅は応接室の片隅にあるケースに厳重に飾られているヴァイオリンを指差した。 「音の狂いはない。ちゃんとメンテナンスはしているからね。ヴァイオリンも飾られるよりも、ヴァイオリニストに弾いて貰うほうが嬉しいだろう」 「あ、あの、凄く高価そうなんですけど…」 香穂子はとんでもないとばかりに目を丸くしている。それが吉羅には可愛いく映った。 「ああ。ストラディバリだ」 あっさりと何でもないことのように吉羅が答えると、香穂子は益々おののいてしまった。 「すっ、凄い名器じゃないですかっ!」 「…魔法のヴァイオリンほど、上手く弾かせてはくれないが…」 吉羅の言葉に、香穂子の躰が一瞬揺れる。 「心配するな。私も魔法のヴァイオリン経験者だ」 しらりと吉羅は言いながら、ショーケースの鍵を開ける。 「え…!?」 香穂子が息を呑む音が聞こえた。 「吉羅一族のなかでも、私はファータと波長が合うのか、今でもよく見える」 吉羅の淡々とした言葉を聴きながら、香穂子は神妙な顔をしていた。 「ストラディバリだと言って気負うことはない。普通の楽器よりも響きが良いと思えば良い」 吉羅はケースからヴァイオリンを取り出すと、そっと弓をなぞる。 この世界で一番愛したと言っても過言ではない姉が、かつて演奏したもの。 吉羅の姉もヴァイオリニストだった。吉羅美夜という名を覚えているひともいるだろう。 吉羅も何度か演奏したことはあるが、姉のような優しくも麗しい音を出すことは出来なかった。 遠い昔のセンチメンタルな想い出だ。 「私は休息するために一眠りする。子守歌代わりに、これを弾いてくれ」 吉羅がストラディバリを香穂子に差し出すと、かたくなに首を振られてしまった。 「…私が鳴らせば、ストラディバリに申し訳が立たない程の音しか出せないです…」 香穂子は名器の前ですっかり萎縮してしまい、躰を小さくさせた。 「君なら奏でられる。ストラディバリなんて、魔法のヴァイオリンと大差はない」 吉羅にキッパリと言い切られてしまい、香穂子は喉を鳴して怯えるように見つめてきた。 「…これは罰ゲームだ。日野君」 吉羅のクールな目力に負けたのか、香穂子はしょうがないとばかりにストラディバリを受け取った。 受け取る香穂子は、どこか嬉しそうであるのと同時に、どこか緊張感も漲らせていた。 吉羅が再びソファに横になると、香穂子は何度も深呼吸をしながらヴァイオリンを構える。 緊張感と喜びが交差する表情は、とても魅力的に映った。 「…“ジュ・トゥ・ヴ”を…」 「はい」 かつてこのヴァイオリンを奏でていたひとと同じ曲を、今は演奏して貰いたかった。 香穂子はいつもよりもぎこちなさが残る演奏をする。 だがそれが、いつも以上の無垢さを演出しているような気がした。 綺麗で温かい。そして大きさを感じさせる音色。 こんなにも誰かの音色を真剣に聴いたのは久々かもしれなかった。 吉羅は、蓄積されていた躰の疲労が蕩けるように霧散していくのを感じる。 香穂子の音色があれば、精神的にも肉体的にも癒される。これがあれば、きっと休息時間が少なくても頑張っていけるはずだ。 吉羅は香穂子の心地よい音色に酔い痴れながら、いつの間にか眠ってしまっていた。 こんなに安堵を浮かべて眠りに落ちたのは、久々なのかもしれない。 香穂子は“ジュ・トゥ・ヴ”を演奏し終わると、ソファに横になっている吉羅を覗きこんだ。 「吉羅理事?」 何度かその名前を呼んだが、吉羅は深い眠りに落ちている。 余りに無防備で可愛いらしい寝顔だから、香穂子は思わずくすりと笑った。 このまま寝かせてあげたい。 だがストラディバリが心配でこの場を離れるわけにはいかない。 香穂子が困り果ててしまい、どうしようかと困惑していると、吉羅の目がゆっくりと開いた。 「…あ、あの、ストラディバリを…」 「ああ。片付けよう」 吉羅は躰を起こしてストラディバリを受け取ると、それをまた厳重なショーケースのなかに入れる。 鍵がきちんとかけると、吉羅は何度も点検をした。 「随分、厳重なんですね」 「吉羅家の大切なヴァイオリンだからね…。防犯もしっかりされている…。ケースは銃弾を受け手も壊れないしね」 「有り難うございましたっ! 貴重なヴァイオリンを触らせて貰って、凄く嬉しかったです!」 香穂子がこころから礼を言っても、吉羅は相変わらず素っ気がない。 だが、その瞳が優しさに満ち溢れているのを、勿論、香穂子は少しだけ嬉しい気分になる。 「…日野君…そろそろ予鈴が鳴るはずだ」 「あっ! はいっ! じゃあそろそろ戻ります」 香穂子は深々と頭を下げると、静かにドア口へと向かう。 「失礼しました」 香穂子は応接室から出るなり、大きく溜め息を零す。 幸せな気分になると、香穂子はにんまりと微笑まずはいられなかた。 きっと上手くいく。 クリスマスコンサートは、今まで一番素晴らしくなると、香穂子は信じて疑わなかった。 |