*大人になる階段*


 吉羅に腰を抱かれてエスコートされるなんて今までなかったせいか、香穂子は捨て猫のように緊張してしまう。
「背筋を伸ばして、一番魅力的な女性と思って歩きなさい。私がしっかりと支えているから、ハイヒールを履いても、転ぶなんてことはないはずだ」
 吉羅は相変わらずクールに呟くと、香穂子の腰を抱く腕に力を込める。
 だが本当は、吉羅に腰を抱かれていることこそが、香穂子の足下をおぼつかないものにしていることは、流石に言えなかった。
 横にいてクールな表情を崩さない吉羅をちらりと見つめ、香穂子はこころの中で溜め息をひとつ零す。
 背伸びをしてもしきれない。それ程、吉羅は大人なのだ。
 こうして並んでいるだけで、お互いの違いを見せつけられているようで、香穂子はこころが窮屈になる。
 釣り合う筈なんてない。
 不安で堪らなくて、香穂子は何度も答えを乞うように吉羅を見つめた。
 エレベーターの前まで来ると、静かに扉が開く。
 ちらりと見つめられて、香穂子はそれだけで心臓がおかしくなる。まるで総てをお見通しとばかりの瞳の光に、香穂子は俯いてしまった。
「乗りなさい」
「はい」
 エレベーターには他のゲストは存在せず、ふたりきりで最小のコンパートメントに乗り込んだ。
不意に抱き締められて、吉羅の唇が近付いてくる。
「誰か来ますっ!」
 吉羅の行動に、香穂子は焦ってしまう。こんなにドキドキする焦りなんてない。
「…来ない。このエレベーターはレストランへ直通だ」
 吉羅は冷ややかで艶やかな笑みを浮かべると、大人の男性らしいスマートに唇を重ねてきた。
 有無を言わせない強引さと、こころをすっぽりと覆ってくれるような優しさが同居している。
 しっとりとしたキスで、しっかりと唇を味あわれて、香穂子の頭はくらくらになった。
 口腔内をじっくりと愛撫をされる。まるで香穂子に自分の色をつけるように、吉羅は深いキスを続けた。
 ようやく唇を離された後、顔を上向きにさせられる。
「…とても子供には見えないな…。その瞳だけを見ると」
 吉羅が作り出した熱のせいで、瞳は潤んでいる。歪んだ視界の向こうに見える吉羅は、妖艶な大人の男だった。
「こんな瞳を他の男には向けるな」
 絶対的な命令口調で吉羅は言うと、香穂子の首筋に唇を押し当てて、強く吸い上げた。
「…あっ…!」
 唇が離れ香穂子の躰が揺れた瞬間、エレベーターが開き、香穂子は歩こうとして足を取られる。
「…私に任せなさい」
 吉羅の腕が香穂子の腰をさらい、最高の紳士らしくエスコートをしてくれた。
「…先程、予約をした吉羅だが」
「お待ちしておりました。こちらへ起こし下さい」
 フレンドリーではなかったが礼儀正しい笑みを浮かべたスタッフに、ポートビューの席に連れて行ってくれる。
 レストランは落ち着いた大人の上品さが漂っている。
 場違いなところに迷い込んでしまったのではないかと、思わずにはいられなかった。
 きっとパーティもこんな雰囲気だったのだろう。
 役不足だ。
 何だか、シンデレラになりきられないシンデレラだと思わずにはいられなかった。灰かぶりは灰かぶりのままなのだ。
 吉羅は香穂子のために椅子を引いて座らせてくれる。
 レディファーストに違和感がない仕草も、艶やかで落ち着いたまなざしも、総てが泣きそうになるぐらい愛しくて、泣きそうになるぐらいに切ない。
 椅子に座ると、吉羅は直ぐに注文を通す。
 メニューを見ても何も分からなくて、香穂子はただ吉羅に任せた。
「緊張しているのか?」
「こんなところは初めてですから…」
 どうしてこんなにバランスが悪いんだろうか。
 こんなバランスが悪い相手を連れてまわるなんて、きっと吉羅には出来なかったのだろう。
 吉羅の顔をまともに見ることが出来なくて、香穂子は窓の向こうに見えるベイブリッジを見つめた。
 綺麗なのに、どうしてこんなにも儚くて切ないんだろうか。
「香穂子…、こちらを向きなさい。飲み物が来た」
「…はい」
 吉羅に視線を戻すと、どこか怒っているように見える。
 小さくなりながら通路を見ていると、誰もがこちらを微笑んで見ている。
 好奇なのか、それとも認めてくれていたのか。そんなことは解らない笑みだった。
 ちらりと吉羅を見ると、冷たいオーラを滲ませていた。
 出て来る料理は、今まで食べたことがないようなものばかりで、どうして良いか解らない。
 ナイフとフォークを持ったまま、香穂子はちらりと吉羅を盗み見た。
「…緊張しなくて良い。私が食べるのを真似して」
 香穂子を見つめる瞳が、一瞬、甘く揺らいだ。
「リラックスしなさい」
「はい」
 吉羅の瞳から溢れる優しい光に守られて、香穂子はようやく料理を口にした。
 とても美味しいものには違いないだろうが、今日に限っては味は全くしなかった。
 いつもよりもかなり無口なまま食事をする。
 きっと美味しい料理に違いない筈なのに、拗ねた卑屈なこころには届かない。
 デザート近くになり、レストランのホールでウィンナワルツが響き渡り始めた。
 ウィンナワルツ。学院の文化祭には欠かせないダンス。香穂子は吉羅と踊りたかったが、そういうわけにはいかなかった。
「ワルツか…。踊りに行こう」
 吉羅は香穂子の手を取ると椅子から立ち上がらせ、ホールへと誘ってくれる。
 ホールに入るなり、手を取りリードしてくれた。
 ウィンナワルツもやはりスマートにこなしてくるのは流石だ。
「…学院生の頃は、よくワルツを踊ったのですか?」
「いいや。面倒だから踊らなかった」
「だけど上手だから」
「姉の練習台になったからな」
 吉羅は懐かしそうに笑うと、優雅にステップを刻む。
「文化祭のウィンナワルツをダンスしている様子を見ていた時、君と踊りたいと思っていたよ」
 こころに下りてくる心地よい声を聴き、香穂子はようやく素直になれたような気がする。
「私も…踊りたかったです…」
「ようやく素直になったな」
 吉羅は今日で一番素敵な笑みをくれる。
 香穂子のかたくななこころが、また少し蕩けた。
 ダンスの後、再び腰を抱いてテーブルにエスコートして戻ってくれる。
 席に着いた瞬間、魔法がとけたように思えた。
 デザートが運ばれてきた後、香穂子は暫くそれを見つめていた。
「…どうした?」
「何でもないですよ。本当に…」
 心配させないように笑うと、香穂子はデザートを食べる。
 きっと解らない。
 吉羅暁彦には。
 釣り合わない相手がどんなに切ないかなんて、きっと解らない。
 吉羅はコーヒーを飲みながら香穂子をじっと見つめて来る。その瞳は湖のように深みがあり、総てを見透かしているようだった。
 香穂子がデザートを食べ終わると、吉羅は早々と立ち上がった。
「行こう」
「はい」
 立ち上がって、腰を抱かれてエスコートをされても何だか惨めな気分になる。
 俯いていたせいか、何も見えてはいなかった。
「香穂子…!」
「はい…?」
 焦るような吉羅の声が聞こえて、顔を上げた瞬間、冷たいものが胸元にかかった。
「きゃっ!」
「すみませんっ!」
 かかったのは店のスタッフが運んでいたシャンパンだった。
 白いドレスの胸元が染みになり、香穂子は泣きそうになる。
「申し訳ございませんっ! 」
 スタッフが慌ててタオルを持ってやってきたが、吉羅は香穂子を引き寄せて、それを断ってしまった。
「…彼女が悪いですから、気にされないで下さい」
 吉羅は半分怒った風に言うと、香穂子を強引に入口に連れて行く。
 吉羅は支払いを素早く済ませると、無言のままレストランを出た。
 きっとみっともないと思っている。
 こんな光景を想像出来たから、きっとパーティに連れていって貰えなかったのだろうか。
 涙が零れ落ちそうになった瞬間、唇を塞がれてしまった。



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