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吉羅の顔色が変わる。 ということは、十中八九図星だということなのだろう。 香穂子は胸に激痛が走るのを感じながら、冷静にいようと努めていた。 だが、なかなか上手くはいかない。 過呼吸にでもなってしまいそうだ。 「…誰から訊いたのかね?」 吉羅は香穂子を責めるような冷たい声で言う。 吉羅の声が冷静過ぎて恐ろしかった。 「何人かの女性が噂をされていました…」 香穂子は、まるで自分が悪いような気分になり、つい頭を垂れてしまう。 このような気分になるのは、吉羅の前だけだ。 吉羅の前だけは、自信がなくなってしまう。 吉羅を見ると、皮肉げにこちらを見ている。 「香穂子、君は私の言葉よりも人の噂を信じるのかね?」 吉羅の氷よりも冷たい言葉に、香穂子は唇を噛み締めた。 「…そんなことは信じなくて良いんだ。君は…」 吉羅は低い声で香穂子を諫めるように言う。 吉羅を信じたい。 そんなことは笑い飛ばしたい。 だが、自信がない。 そんなことが出来るほどに愛されている自信が、香穂子にはなかった。 「不安なのかもしれませんね…、私…」 香穂子は声が揺らぐのを感じながら、深呼吸をした。 不意に顔を上げると、吉羅が立っている。 「暁彦さん…」 「君は私の妻だ。何も心配しなくても良いんだ…」 吉羅は、香穂子を抱き締めてくる。 息が出来ないぐらいに抱き締められる。 まるで香穂子以外にはいらないとばかりに。 そのまま抱き上げられると、ベッドに運ばれる。 「…暁彦さん…」 「君の不安を消したい」 「…はい。消して下さい…」 吉羅と愛し合えば不安はなくなるだろうか。 不安がなくなればこれ以上素晴らしいことはないだろう。 香穂子は吉羅にその身を任せる。 熱い世界へと香穂子は誘われた。 吉羅に抱かれている間は、不安などなくなり、ただ幸せな気分に浸ることが出来る。 だが、朝になると再び不安がむくむくと頭を擡げてくる。 吉羅とこのままずっと一緒にいられるのだろうか。 横で眠る吉羅の寝顔を見つめながら、香穂子は幸せな気持ちと切ない気持ちがせめぎあうのを感じた。 本当に泣きそうになる。 吉羅は、こうして今更“本当の夫婦”になって、どうしようと言うのだろうか。 それが香穂子には不思議でならなかった。 吉羅の寝顔を見た後、香穂子はガウンだけを羽織り、窓辺へと向かう。 今日は吉羅が完全に休養をする日だ。 のんびりと眠ることだろう。 香穂子は、まだ暗い外を見つめながら、どう気持ちを整理すれば良いのかが分からなくて、思わず涙を零してしまった。 吉羅にはこんな気持ちは分からないかもしれない。 香穂子は自分ですらも持て余している感情に溜め息を吐いていた。 ふと背後に温かな気配がする。 振り返る間も無く、背後から吉羅に抱き締められた。 「まだ夜も明けてはいないよ。君はいったいどうしたのかね…?」 吉羅は宥めるかのように香穂子の首筋に唇を着けながら、優しい声で呟いた。 「…何でもありません。外を見たかったんです…」 「…風邪を引いてしまう」 「暁彦さんが抱き締めて下さっているから、大丈夫です」 香穂子はなるべく笑顔で言うが、声に切なさが滲んだのは否定出来なかった。 「…余り無理はしなくても良いんだ…。香穂子…」 「暁彦さん…」 吉羅は腕の中でくるりと香穂子の躰を回転させると、額に甘いキスをしてくれる。 泣きたいほどに甘いキスに、香穂子は思わず目を閉じた。 吉羅は香穂子を抱き上げると、そのままベッドに連れていってくれる。 「香穂子…、今日と明日はリラックスした時間を過ごそうか…」 「有り難う…」 吉羅の腕の中で、香穂子は安心しきった子猫のように丸くなる。 今度はゆったりと眠れそうだと、香穂子は思った。 吉羅と朝食を取った後、一泊二日の旅の準備をするようにと言われた。 のんびりとリラックスをするには、確かに旅行は効果的だと思った。 それに、今の香穂子には気分転換が必要だ。 「有り難うございます。気遣って頂いて」 香穂子の言葉に、吉羅はフッと微笑むと、頭を軽く撫でてくれた。 支度を終えて、吉羅とふたりで車に乗り込む。 「何処に行くんですか?」 「煩わしいことを忘れられる場所だ」 「楽しみにしていますね」 「ああ」 吉羅の車に穏やかな気持ちで乗るのは久し振りかもしれない。 香穂子は優しい笑みをたたえながら、運転する吉羅と景色を交互に楽しんだ。 「今日は随分とご機嫌だね」 「暁彦さんとのんびりと出掛けるのが久し振りだから嬉しいんです」 「それは良かった。私も君と一緒に出かけられて、とても嬉しいよ」 「はい、私も」 吉羅も同じように楽しんでくれるのが、香穂子にとっては何よりも楽しいことだった。 車はやがて海方面を走っていく。 暫くすると湘南の海が見えてきた。 キラキラと輝く湘南の海を眺めながら、なんて素晴らしいのだろうかと、香穂子は思う。 美しくてついうっとりと見惚れた。 「葉山に小さなホテルがあってね。そこに行こうと思っている。海に近くて静かだ」 「嬉しいです」 吉羅とふたりでのんびりとホテルで過ごせるなんて、香穂子は嬉しかった。 ホテルは海が望める上に、庭は草花がとても美しかった。 「本当にさっきから何度もうっとりと見つめてしまっています。本当に素晴らしいところですよね」 香穂子は庭を歩きながら、夢でも見ているのではないかと思った。 「香穂子、気に入ったようだね」 「はい、とっても!」 「部屋に荷物を置いたら、庭と海をゆっくり歩こうか」 「はい。嬉しいです」 吉羅とのんびりと散歩をすることがなかったから、香穂子は顔に満面の笑顔を浮かべた。 部屋に荷物を置いて、ふたりは手を繋いでホテルの中庭に出た。 ロマンティックな雰囲気に、香穂子は楽園にいるかのような幸せな気分になる。 吉羅と寄り添っているだけで、香穂子は何よりも幸せだった。 ホテルのプライベートビーチまで下りていくと、小さな女の子が砂遊びをしていた。 本当に可愛らしくて、香穂子はつい笑顔で見つめる。 女の子は香穂子たちの存在に気付いたようで、手招きをしてきた。 「おねーしゃん! こっち!」 勢い良く手招きをするものだから、香穂子は可愛くて、小さな子に近付いていった。 「お砂遊び?」 「あい!」 女の子は元気良く答えると、砂山を作っている。 「えっとね、しゅなのお山を作って、しゅむの」 「そうなんだ。素敵だね」 香穂子が笑顔で言うと、女の子は頷く。 「おねーしゃんとおじしゃんは仲良し?」 おじさんと言われて、吉羅は一瞬ショックそうな顔をした。 「とても仲良しだよ。私たちは結婚しているからね」 吉羅は、おじさんと呼ばれたことを不快に思いながらも、何とか笑顔で答えてくれた。 「しょっか、仲よち」 女の子は満足したかのように笑顔になりながら、繋がれている手をしっかりと見つめていた。 「一緒に遊ぼうか」 「うん、遊ぼ!」 女の子と一緒に、ふたりは砂山遊びをする。 娘が生まれたら、こんな風に三人で過ごすのだろうか。 香穂子はくすぐったいと思いながら、女の子と吉羅と三人で、砂浜遊びを楽しむ。 こんなにも楽しいことは他にはないと、香穂子は思わずにはいられなかった。 こんな時間が愛する吉羅と過ごせたら、幸せなことはないのに。 香穂子は夢見るように思っていた。 |