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香穂子に向かって温かな拍手が送られる。 拍手は嬉しい。 ヴァイオリンの技術を向上させる糧になる。 吉羅と女医も拍手をしてくれている。特に彼女は笑顔だった。 吉羅と女医が一緒にいるのをみると、本当にお似合いだと思わずにはいられない。 香穂子は深々と頭を下げて挨拶をし、笑顔でステージを下りる。 だが、その心は何故か晴れない。 吉羅のそばに行こうとして、女性たちが囁いているのが聞こえた。 「あのおふたりお似合いね」 「そりゃ婚約していたもの」 「吉羅さんが結婚する前に婚約を解消したって聞いたけれど、愛は復活したのかしらね」 噂話だと思いたい。 だが、そう思えないほどに、ふたりの仲は良かった。 ふたりが余りに仲良さそうにするものだから、香穂子はなかなかそばに行けなかった。 二人の中に入れない。 香穂子は近付くことが出来ないバリアのようなものを感じていた。 「あら?」 にっこりと女医が微笑んで、香穂子に手招きをしてくれる。 香穂子はようやく重い足を動かすことが出来た。 「香穂子さん、素晴らしい演奏だったわ! 流石に暁彦さんが手塩にかけたはずだわ! 素晴らしいわ!」 明るい表情でヴァイオリンを絶賛してくれたのが嬉しくて、香穂子は何とか笑顔になれた。 「有り難うごさいます」 香穂子は深々と頭を下げる。 「こちらこそ! あんなにも素敵な演奏を聴かせてくれるなんて、感謝しているわ」 女医はなんて大人なのだろうか。 それに比べて自分はなんて子供なのだろうかと、香穂子は思った。 吉羅をちらりと見ても、相変わらず表情が全く読めない。 ふたりきりでいたのに邪魔されたのかと思っているのだろうか。 そう考えてしまうほどに、吉羅はクールな表情を崩さなかった。「暁彦さんも彼女の演奏には感心されていたでしょう?」 「悪くはなかったが…」 またいつも通りだ。吉羅が手放しで褒めてくれないことには馴れたとはいえ、切ないのも事実だった。 不意に吉羅に手を繋がれる。 強く握られて、香穂子は驚いた。 この女性の前で、こうして手を繋いでも良いのだろうか。 だが、女医も全く気にしてはいないようだった。 「また綺麗で温かな音楽を聴かせて下さいね。では、暁彦さん、また」 女医は余裕の笑みを浮かべて立ち去る。 悔しいがその笑みはとても魅力的だった。 香穂子が切なくて酸っぱい想いを抱きながら女医の背中を見ていると、何人がこちらにやってきた。 「素晴らしい演奏でしたよ」 「良いものを聴かせて頂きました。吉羅さんは良い奥様を選ばれましたね」 等と褒めてくれるひとが殆どで、香穂子は素直に嬉しくなった。 ヴァイオリンを演奏したかいがあると、思わずにはいられなかった。 「こちらこそ聴いて頂いて有り難うございます。本当に嬉しいです」 香穂子は笑顔で礼を言う。 本当に嬉しくてしょうがなかった。 大勢の人々に囲まれて笑顔でいると、吉羅は更に冷たい雰囲気を漂わせる。 まるで香穂子を認めていないかのようだ。 香穂子にとってはそれが一番痛いということを、吉羅は恐らくは解っていないだろう。 「皆様有り難うございます。ヴァイオリンを頑張りますね」 「期待していますよ」 「有り難うございます」 本当は一番期待をして欲しいのは吉羅だというのに。 だが、有り難いと思いながら、香穂子は心からの笑顔を送った。 人々がばらばらになり吉羅とふたりになっても、手は離さなかった。 このままずっと手を握りあっていたい。 こうしていると、本当の意味で夫婦だと思えるから。 吉羅とふたりでパーティをのんびりと過ごす。 「有り難うございます。素敵なパーティです」 「ああ。このパーティのメンバーは皆、人格者ばかりだからね」 「そうですね」 香穂子は頷くと、吉羅と寄り添った。 パーティは滞りなく終了し、香穂子は化粧室で身仕度を整えていた。 すると先程パーティにいた派手目の女性が入ってくる。 「吉羅さんは相変わらずクールで素敵ね。結婚されたと聞いたけれど、本当にそうなのかと思っていたんだけれど、奥様はあんなにもお若いヴァイオリニストだったのね」 「あれにはびっくりだったけれど、演奏は悪くなかったわ」 「確かに」 ふたりが、香穂子が化粧を直しているのにも気付かずに、話に夢中になっている。 「お医者様とは結婚されなかったのね。あんなにもお似合いだったのにね。おふたりは本当に絵に描いたような美男美女だったからね。どうして婚約破棄なんてされたのかしらね?」 「そうなのよね。私も未だにそのあたりはよく分からないのよ。未だにおふたりはかなり仲がよろしいものね。破局の原因は分からないわ」 また同じ噂だ。 ふたりはそんなにもお似合いだったのだろう。 確かに、香穂子も、未だにお似合いに思えたのだから当然なのかもしれない。 香穂子は、切なく墜落するような想いを抱きながら、ふたりに見つからないように化粧室を出た。 ロビーで待ってくれている吉羅に声を掛けようとして、ハッとする。 あの女性と仲睦まじそうに話している。 彼女と話している吉羅は、本当に楽しそうだった。 香穂子には一度として見せてはくれたことがない表情だった。 香穂子は思わず、白くなるぐらいに拳を握り締める。 こんなにも悔しくてもやもやとした情けない感情はないのではないかと、香穂子は思った。 不意に香穂子が見つめているのを、女医が気付いた。 「あら! 香穂子さん、こちらです」 屈託なく笑顔で手招きをしてくれる彼女に、香穂子は胸が苦しくなった。 吉羅は、香穂子を見た途端に、いつものクールな表情になるのは衝撃的だった。 いかに自分が吉羅に嫌われているのか。 それを思い知らされた気分だった。 「じゃあ私はこれで。暁彦さん、またね。香穂子さん、また…。色々とあるかと思うけれど、しっかりね」 優しいお姉さんのように言われて、香穂子は胸が痛かった。 「では行こうか、香穂子」 「はい…」 今度は、これみよがしに吉羅は香穂子のほっそりとした腰を抱いてきた。 かなり密着をしてきて、官能的だ。 香穂子の胸は、ドキドキと痛みでどうかなってしまいそうだった。 女性が行ってしまった後、吉羅は車までエスコートをしてくれた。 吉羅の紳士的なエスコートは、とてもロマンスに溢れてはいるが、あくまでそれだけなのだ。 そこには愛なんてかけらも存在しないのだ。 香穂子にとっては、何よりも苦しい。 吉羅と車に乗り込むと、そのまま自宅に向かって走り出す。 吉羅は何も言わない。 女性と話す時間が少なかったことが切ないのだろうか。 香穂子は、吉羅の横顔を見ているのが辛くて、いつの間にか夜景ばかりを見つめた。 車が自宅に到着し、吉羅とふたりで家に入る。 その間も、うんざりするぐらいに黙っていた。 リビングに入ると、吉羅は香穂子の腰に回した腕を離した。 やれやれといった雰囲気が漂っている。 香穂子は泣きそうになった。 どうしてこの男性は、いつもかつもこんなにも冷たいのだろうか。 「…はい…」 香穂子は力ない返事をした後、吉羅を呼び止めた。 「…暁彦さん、あの…!」 「何かね?」 吉羅は立ち止まり、華麗に振り返る。 「先程の方とは婚約していらっしゃったんですか?」 香穂子が訊いた瞬間、吉羅の顔色が変わった。 |