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吉羅は今夜、帰って来ないかもしれない。 香穂子は当然だと思った。 吉羅はあれだけ呆れて怒っていたのだから。 これで益々、あの美しい女性が良いと思うだろう。 実際にふたりはかなりバランスが取れているように、香穂子には思えた。 本当にお似合いだ。 ふたりの姿を想像するなり、香穂子は泣けてきた。 ダメだ。これ以上泣いてしまっては。 香穂子は自分を奮い立たせて、なんとか涙を堪えた。 暫くして、吉羅が帰ってきたのが解った。 吉羅がこちらにやってくる。 寝たふりをしなければ怒られてしまうだろうか。 香穂子がそのようなことをあたふたと考えていると、吉羅がノックもせずに部屋に入ってきた。 「香穂子、怒らないから、起きているのなら顔をあげてくれないか」 吉羅の声が優しかったから、香穂子はつい顔を上げた。 「…香穂子、気分はどうかね?」 吉羅は相変わらずビジネスライクな表情だったが、その声はこの上なく優しかった。 「…大丈夫です。しっかりと眠りましたから…」 香穂子も穏やかなリズムで話をすると、吉羅は頷いた。 「それは良かった…。香穂子、今夜もゆっくりと休みなさい…」 「…はい」 吉羅が大きな掌を額にあてがって熱をみてくれる。 「朝よりはマシなようだね…。良かった。では、ゆっくりと休みなさい。おやすみ」 吉羅は随分とあっさりと言うと、部屋から出て行った。 香穂子は甘い気持ちを抱きながら、少しは心が晴れ上がった。 ふと携帯電話を見ていないことに気付いて、香穂子はバッグから取り出す。 すると何度かの吉羅からの着信履歴が残っていた。 「…暁彦さん…」 心配してくれたのだろう。何度も電話をくれたのが嬉しくて、香穂子は吉羅に礼を言い行くために向かった。 「暁彦さ…」 ノックをして中に入ろうとすると、吉羅が電話をしているのが見えた。 「ああ、もう心配ないようだ。有り難う。この礼はさせて貰うよ。君が望むままに…」 吉羅が誰と話しているのかが、香穂子には直ぐに解った。 胸が苦しい。 彼女が望むもの。 それが吉羅自身だとしたら? 香穂子はお払い箱になるということだ。 「そうだね…。妻は可愛い子どものようなところがあるね」 吉羅の声が柔らかく響いていたが、やはり子供と見られていたところがショックだった。 香穂子がとぼとぼと歩いて部屋に戻ろうとすると、不意に腕を掴まれた。 相手は勿論吉羅だ。 「…香穂子、どうしたのかね?」 「あ、あの、今日は電話を頂いていたのに、眠っていて気付かなくてごめんなさいと、言おうと思って…。だけどお邪魔でしたね。あ、もう、眠ります」 香穂子は一方的に言うと部屋に戻ろうとした。 しかし吉羅は、腕を離さない。 「…一緒に眠るんだ」 「今日は熱が出ていて、あ、あの汗臭いですし…」 香穂子は焦るように言うが、吉羅は全くいつも通りで動じない。 「君が何かあったら困るからね。看病がてらに一緒に眠ろう」 吉羅はキッパリと言うと、香穂子を抱き上げた。 「あ、あの、せめて、パジャマを着替えて、シャワーを浴びたいです…」 愛している男性と眠るのだから、香穂子はつい気にしてしまう。 やはり乙女の恥じらいはあるのだ。 「…しょうがないね。シャワーを軽く浴びてきなさい。ただし、風邪を引かないように気をつけたまえ」 吉羅はようやく少しだけではあるが、優しい笑みを浮かべてくれた。 それには香穂子もホッとする。 「ではシャワーを浴びてきます」 「ああ」 香穂子は熱でかいてしまった汗をシャワーで洗い流した後、パジャマを着替えてサッパリとした。 ベッドルームにドキドキしながら行くと、吉羅が待っていた。 「香穂子、ベッドに入って眠りなさい。私も直ぐに戻って来るから」 「…はい。有り難うございます…」 香穂子は素直にお礼を言うと、ベッドの中に入った。 事前に温めてくれていたのだろう、とても温かかった。 このままのんびりと眠りたい。 香穂子が安心しきってうとうととし始めると、吉羅がベッドに入ってきた。 優しいボディソープの香りがして、とても心地好い。 吉羅はしっかりと抱き締めてくれると、そのまま背中を撫でてくれた。 「…ゆっくりと眠りなさい…。今夜は」 「有り難うごさいます」 今夜は、吉羅の温もりでゆっくりと眠ることが出来る。 それだけで香穂子は幸せだった。 充分に休んだからなのか、翌朝はとても目覚めが良かった。 香穂子は、いつもどおりに起きることが出来て、吉羅に朝食を作ることが出来た。 やはり、香穂子にとっての特効薬は吉羅なのだ。 吉羅がいれば、幸せな時間を過ごすことが出来るのだ。 吉羅にはその点は感謝しなければならないと、香穂子は思った。 吉羅はいつものように隙ないビジネスマン姿で、ダイニングに現われた。 「香穂子、今夜は遅くなるから、先に眠っていなさい。まだ本調子ではないだろうから、夜更かしはしないように」 「はい」 今夜も仕事が忙しいのだろう。 経済界の寵児や若き帝王と呼ばれるだけはある忙しさだ。 「…分かりました。お仕事ですか…?」 「まあ、そのようなものだ。香穂子、君は早く眠りなさい」 吉羅は曖昧に答えると、素早く話題をすり替えてしまう。 香穂子にとってそれはかなり辛いことだ。 またあの女性と逢うのだろうか。 昨日の電話の内容が苦々しくも蘇ってきて、香穂子は憂鬱な気持ちになった。 吉羅を送り出した後、香穂子は溜め息を吐きながら、ヴァイオリンレッスンの準備を始める。 こんなにも求めているのに。 こんなにも愛しているのに。 肝心の愛する男性は、少しも応えてはくれない。 それが香穂子には苦しい。 いつか応えてくれる日がやって来るのだろうか。 香穂子はそればかりを考えてしまっていた。 吉羅が帰って来ない夜は寂しい。 そして、あの女性と一緒なのかもしれないと思うだけで辛い。 病み上がりだからだと外に出ることも出来ずに、香穂子は孤独に堪えるしかなかった。 どうしてこのような生活を続けようとするのだろうか。 香穂子にはそれが分からない。 別れたいと言えば、吉羅はそれを強く否定をする。 なのに愛する女性とは、繰り返し逢っている。 それが香穂子には不思議でならなかった。 吉羅にとっては、香穂子はどのような存在なのだろうか。 そればかりが気にかかってしまう。 吉羅は自由になれるはずの選択をあえてしない。 香穂子はその意味が知りたかった。 吉羅が帰って来ないまま、香穂子は眠りにつく。 本当は眠れないことを、吉羅は知っているのだろうか。 吉羅がいないと安眠を得られないということを、果たして吉羅は解ってくれているのだろうか。 香穂子にはそれが謎だった。 浅い眠りを繰り返していると、吉羅の気配を感じた。 吉羅が寝顔を見つめているのが分かる。 かなり恥ずかしいが、何処か嬉しい。 吉羅がいつものように頬にキスをしてくれる。甘いキスだ。 瞼を僅かに揺らして目を開けると、吉羅が眉を寄せた。 「起こしてしまったかね?」 「いいえ。うとうとしていたので…」 「そうか…。香穂子、一緒に眠ろうか」 「はい…」 吉羅の優しい声に頷くと、抱き上げられる。 そのままベッドルームに運ばれた。 香穂子は、この瞬間が忘れられないからこそ、吉羅のそばにいるのだと、強く感じていた。 |