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吉羅と一緒にホテルのパーティ会場に入る。 いつもよりもかなり密着してエスコートしてくれる。 香穂子は、吉羅がこんなにも密着してエスコートをするのは初めてではないだろうかと思った。 吉羅がこんなにも甘くスマートにエスコートしてくれるのは、それこそ夢見ていたことだ。 吉羅にずっと大人のエスコートをして貰いたい。 そう夢見ていたのだから。 香穂子は吉羅と一緒に、様々な相手と挨拶をする。 吉羅の妻だと実感することが出来て、とても嬉しかった。 吉羅のそばにいる時が、自分自身でも一番輝いているのではないだろうかと思う。 挨拶をするのは苦ではなかったが、次第に気分が優れなくなってきた。 人に酔ってしまったようだ。 香穂子の顔色が優れないことに気付いてか、吉羅が気遣うような視線を向けてきた。 「大丈夫かね…? 気分が余り優れないようだが…ヴァイオリンは演奏出来るかね?」 「…大丈夫です…。ヴァイオリンは弾けますから…」 「解った。余り気分が悪いようだったら直ぐに言うんだ。良いね?」 「はい。有り難うございます」 吉羅は過保護なぐらいに心配してくれ、香穂子を護るように労ってくれる。 それが嬉しかった。 「吉羅さん、そろそろスタンバイをお願いします」 「はい、分りました」 香穂子は返事をすると、落ち着いた笑みを吉羅に向ける。 「…暁彦さん、いってきますね」 「ああ。頼んだ。君が素晴らしい演奏をしてくれることを楽しみにしている」 「はい」 香穂子は用意しておいたヴァイオリンを受付で受け取ると、ステージの準備をする。 出掛ける前に念入りにヴァイオリンを練習しておいたから大丈夫だ。 香穂子はヴァイオリン演奏に意識を静かに集中させた。 「吉羅さん、演奏をお願いします」 「はい、分りました」 香穂子は小さなステージに立つと、深呼吸をしてからヴァイオリンを奏で始めた。 ヴァイオリンの音色で、この場所にいる総ての人々が幸せな気分になれますように。 香穂子はそれを祈りながら、ヴァイオリンを奏でる。 特に吉羅に気持ちが伝わるように。 本当に心から愛している。 これはもうずっと変わらないことだ。 幼い頃から、ずっと吉羅だけを見つめていたのだから。 吉羅への愛情を込めてヴァイオリンを奏でる。 香穂子は満ち足りた幸福感に包まれながら、とても純粋な温かい気持ちになれた。 吉羅への想いを込めてヴァイオリンを奏でているからこそ、いつも以上の演奏が出来るのだ。 本当に有り難い。 感謝の気持ちも込めて、香穂子はヴァイオリンを奏でた。 ヴァイオリンを奏でるのに夢中になっているからか、先ほどあった気分の悪さも、それほど気にはならなかった。 香穂子はヴァイオリンを奏で終わった後、とても清々しい気分になった。 同時に、会場からは割れんばかりの拍手がされる。 これほどまでに熱く拍手をして貰ったのは初めてで、香穂子は笑顔で頭を下げた。 顔を上げると、またあの女性が吉羅のそばにいた。 香穂子を絶賛するかのように拍手と笑顔を向けてくれる。 こんなにも温かな拍手をくれるひとなのに、どうして上手く笑うことが出来ないのだろうか。 いくら考えても痛いとしか感じられなかった。 香穂子がステージから下りると、直ぐに吉羅がやってくる。 「吉羅さん、素晴らしいステージを有り難うごさいました」 関係者が満面の笑顔であるということは、かなり気に入ってくれたということなのだろう。 その点は安心した。 「有り難うございます。こちらこそ素晴らしい演奏の機会を与えて下さいまして有り難うございます」 本当に弾きやすい環境で演奏することが出来た。 それには感謝せずにはいられない。 「こちらこそ有り難うございます。また、是非、あなたに仕事のオファーをさせて頂きます」 「宜しくお願い致します」 香穂子は深々と頭を下げるとパーティスタッフにお礼を述べた。 「香穂子、有り難う。よくやってくれた」 「暁彦さん…」 吉羅は直ぐに香穂子のそばにやってくると、護るように腰を抱いて来る。 その密着ぶりに香穂子はドキドキしてしまった。 「あ、有り難うごさいます…」 隣りにあの女性がいるにもかかわらず。吉羅はかなりの密着度だ。 だが女性は嫉妬をするという風ではなくて、微笑ましそうにふたりに視線を送ってくる。 香穂子にはそれが不思議でならなかった。 香穂子がこんなにも密着しているというのに、女性は嫉妬のかけらすら見せないのだ。 それだけ大人の女性だということなのだろうか。 香穂子はそう思うだけで胸が痛かった。 ふとまた気持ち悪さが込み上げてくる。 先ほどまではヴァイオリン演奏に集中していたから余り感じることはなかったが、今はかなり苦しい。自分でも息苦しさを感じていた。 また人に酔ってしまったのではないかと思う。 現に先ほどよりもひとがかなり多いのが気にかかった。 「香穂子、具合はどうなのかね?」 吉羅は、心配そうに香穂子を見つめてくる。 それだけ顔色が悪いと言うことなのだろう。 それは香穂子も認めるところだった。 「…また、人に酔っ払ったのかもしれません…。ヴァイオリンを弾いている時は、全く平気だったんですが…。波があるのかもしれませんね…」 香穂子は空元気で吉羅に向かって微笑む。 すると女医が意味深に香穂子に微笑みかけてきた。 「香穂子さん、気持ち悪さに波があるのね? 貧血のような症状だとか、怠さだとかない?」 「そう言えば…」 香穂子は思い当たる節があり、頷いた。 「何か匂いを嗅いだだけで気持ち悪くなったりすることは?」 「それもあります…」 流石は医師だというところだろうか。 香穂子の症状を適格に指摘してくる。 香穂子は不安になる。 何か難病だったりしたらどうしようか。 そんなことが頭に過ぎった時だった。 またくらくらする。 「…あ…」 今までで一番くらくらしてふらふらしてしまっているかもしれない。 香穂子は息苦しくなり、不意にふらりとしてしまう。 「香穂子…!」 そのまま意識をブラックアウトさせた。 意識が戻ったのは、ベッドの上だった。 吉羅が心配そうに香穂子を見つめ、その手をギュッと握り締めてくれている。 女医と同年代の見慣れない男性も一緒にいた。 「…あ…」 香穂子が躰を起こそうとすると、吉羅がいつも以上に優しく手を貸してくれた。 「大丈夫かな?」 「…はい。暁彦さん…、私…」 香穂子は何が起こったのか全く分からなくて、縋るように吉羅を見た。 「香穂子…、心配しなくても大丈夫だ…」 吉羅は優しい声で呟くと、いつもよりも甘いまなざしを向けてくれる。 こんなにも優しい吉羅は珍しいから、香穂子はつい不安になる。 「…暁彦さん…私…」 「大丈夫。病気ではないから心配しなくても良い…」 「…だけど…」 吉羅が優しく気遣うように言うものだから、香穂子はかえって不安になった。 吉羅は何か重大な病気でも隠しているのではないかと。 「そんな顔をしなくても大丈夫。香穂子さん、君は妊娠していますよ。おめでとう、もうすぐお母さんになる」 男性が優しい声で告げてくれる。 妊娠。 吉羅の子供を身籠もることは、香穂子にとってはとても幸せなことだ。 香穂子は喜びが滲んで来るのを感じて吉羅を見る。 すると吉羅も、幸せそうに微笑んでくれていた。 |