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産婦人科の医師であるだろう男性が、女医と一緒に幸せそうに笑っている。 「香穂子、彼女の夫君が産婦人科医で助かった。お礼を言おうか。ふたりで」 「え…!? 旦那様だったんですか?」 香穂子は驚きの余りに息を呑む。 まさか女医が結婚しているとは思ってもみなかった。 香穂子は驚いて女医を見る。 「香穂子さんは私よりも一足先に母親になるのね。おめでとう。あなたなら素敵なお母さんになるわね」 「…有り難うございます…」 こんな風に言われて香穂子は嬉しくて涙が出そうになる。 何をそんなに誤解をしていたのだろうか。 そんな自分が情けなかった。 「もうお帰りになっても大丈夫ですから。余り無理をされないようにして下さいね」 「有り難うございます…」 香穂子は本当に嬉しくてしょうがなくて、涙が零れる。 誤解をしていた自分も情けないと思う。 「香穂子、行こうか…」 「はい…」 吉羅にエスコートされて、香穂子はベッドから下りる。 幸せ過ぎてどうして良いかが分らなかった。 吉羅は香穂子が車に乗り込む時にも、かなり慎重に乗り込んでくる。 「…香穂子…、無理は禁物だ。ヒールもこれからは履かないようにしなければならないね」 「はい」 香穂子が素直に返事をすると、吉羅はすっと手を握り締めてくれた。 その力強さは、とても心地好くて、香穂子はうっとりと微笑んだ。 「…暁彦さん…、私…誤解していました…」 「ああ。解っていたよ」 「え…!?」 香穂子が、女医との仲を疑っていたことを、吉羅が知っていたなんて。 香穂子は驚くばかりだ。 「私と彼女の仲を、君が誤解をしていることは解っていた。どうしたら誤解が解けるのかと、色々と考えたりしたよ。だからわざと、いつもよりも君に密着をしたりしてね…。それもなかなか楽しかったけれどね…」 吉羅は全く怒ってはいないようで、いつもよりも明るい雰囲気すらあった。 吉羅が機嫌が良くて助かった。 「…ごめんなさい…。あなたとあのひとがかつて婚約をしていたと聞いたものだから…」 香穂子はうなだれながら言い、吉羅に申し訳ない想いでいっぱいになった。 「…君にはお仕置が必要かもしれないね。うちに戻ったら、詳しい話を聞こうか。今は車の運転中だからね。私としてもリスクは冒したくはないものだからね」 吉羅の声はまた冷たくなる。やはり怒っているのだろうか。香穂子はそれも当然だと思った。 「はい…」 吉羅に素直に従うと、香穂子は大きな溜め息を吐いた。 家に到着をして、香穂子は暗い気持ちで中に入る。 当然、吉羅には怒られてしまうだろう。 そうされても当然のことをしてしまったのだから、香穂子はしょうがないと思った。 吉羅は香穂子の手を引いてリビングへと行き、同じソファに腰を下ろす。 「…香穂子、君は私が言うことよりも、他人の噂話を信用するということなのかね?」 吉羅に静かに咎められて、香穂子は益々うなだれた。 「…怒られて当然ですね…。暁彦さん…。本当に申し訳ありません。他人の噂話を鵜呑みにするなんて…。奥さん失格ですね…」 香穂子は暗い気持ちで笑う。 しかし吉羅から返ってきたのは意外な答えだった。 「いいや怒ってはいないよ」 吉羅は柔らかな声で言うと、香穂子をそっと抱き寄せた。 「…暁彦さん…」 「…君がそう思っても仕方がないことを私はしたのだからね…。結婚してからずっと、君を放ったらかしにしていたのだからね…」 「…暁彦さん…。…私…、ずっとあなたに振り向いて貰いたいと思っていたんですよ…。だけどあなたは見つめてくれなかったから…。私のことを愛してはいないと思っていました…。あなたは…他に愛しているひとがいるようだったし、どうして私と結婚をしたのかとずっと思っていました…」 香穂子は吉羅の瞳を見つめながら、胸がいっぱいになる。 切なくて胸を詰まらせながら、一生懸命に呟いた。 「…他に愛している女なんていなかった。君が愛しいとずっと思っていた…」 吉羅は香穂子が逃げないようにとばかりに、更に抱きすくめる。 息が苦しくなるぐらいに抱き締められて、思わず苦しげに息を吐くと、吉羅は驚いてしまったようだ。 「すまない…。驚かせてしまったかな? 君も子供も…」 「大丈夫ですよ」 「良かった」 吉羅はそれでも、香穂子の抱擁を解こうとはしなかった。 「…暁彦さんは…、私をずっと妹のようにしか思っていないと…。愛しいというのは…、妹のように思っているからですよね…?」 女として愛しいと思っているのと、妹として愛しいと思っているのとは、意味合いが違うのだから。 「…それはない。そうだったら、君をいつまでも抱かなかっただろうし、結婚しようとも思わなかった…」 吉羅は愛情溢れた声で呟くと、香穂子の額にキスをした。 「…ずっと…私たちは肉体的に夫婦ではなかったですから…。紙切れだけの夫婦だったから…」 「香穂子…」 それは本当のことだ。 ずっと戸籍上の夫婦だった。 香穂子は、それが切なくてしょうがなかったのだ。 「…君こそ、どうして私と結婚したのかね? 政略的な気持ちだった…?」 吉羅は掠れた声で訊いてくる。何処か不安に感じているところがあるようだった。 「…いいえ…。あなたが好きだから…。誰よりも好きだったから…。それだけだった…」 香穂子は純粋な気持ちで言う。 本当にそうだった。 吉羅が好きだという気持ちだけで、香穂子は結婚したのだ。 何の打算もなかった。 ふと、吉羅の顔を見上げると、驚いたような表情をしていた。 その顔を見ると、やはり想定外というところなのだろうか。 吉羅は何か驚いたように見つめている。 吉羅が結婚した理由はいったい何なのだろうか。 そして、今になってどうして吉羅が、本当の意味での夫婦生活をしようと思ったのだろうか。 香穂子は、不思議でならなかった。 吉羅は何も答えない。 香穂子は段々苦しい気分になってきた。 「…暁彦さん…。気持ちが悪いので、離して下さいませんか…?」 「ああ、すまない…」 吉羅は、香穂子を名残惜しそうに抱擁から解放してくれる。 これ以上、会話はしなかった。 女性とのことは、誤解だったことは嬉しい。 だが、香穂子の心の中にあるもやもやとした気持ちは、まだ上手く昇華することが出来ていなかった。 寝る支度を終えて、香穂子はベッドに入る。 吉羅は香穂子を離さないとばかりに、思い切り抱き締めて眠ってくれる。 こうして最近はずっとそばにいてくれるのは、嬉しい。 後は、愛の言葉が欲しい。 それさえあれば、香穂子はもう何もいらないとすら思っていた。 本当に何もいらない。 吉羅の愛さえあれば。 それを吉羅は気付いてはくれていない。 きちんと示して貰えたら、本当に安心するのにと思わずにはいられなかった。 吉羅の両親に妊娠の報告をした。 結婚してからというもの、なかなか子供が出来なかったことを、気にしていたようだったからだ。 子供が出来ないのは、ある意味当たり前だったのだが。 吉羅の両親はかなり喜んでくれており、それは香穂子には嬉しかった。 「ようやく跡継ぎが出来て嬉しいわ。有り難う、香穂子さん。吉羅家の跡継ぎを作るにはタイムリミットに近かったものね。安心したわ」 タイムリミット。 そんなことは聴いてはいない。 香穂子は思わず吉羅を見た。 |