3
吉羅に抱き締められて、香穂子は男性の胸がこんなに逞しいものであることを初めて知った。 息が出来ないぐらいに苦しいのに、本当に幸せだ。 吉羅と結婚すれば、必ず幸せになれる。 そう強く思えた。 「香穂子…有り難う…」 「私こそ」 ただそれだけを言うと、香穂子はしっかりと吉羅を抱き締めた。 その後はふたりで手を繋ぎながら、のんびりと海岸を散歩した。こんなにも幸せな散歩はないのではないかと思う。 甘酸っぱい幸せに満たされて、香穂子はいつまでも笑顔でいられた。 鎌倉の海岸で楽しいひと時を過ごした後、吉羅とクラシックのミニコンサートに向かった。 選曲もなかなか渋くて素敵だったが、何よりもヴァイオリニストの演奏が素晴らしかった。 かなり勉強になるのと同時に、香穂子はとても幸せな気持ちで演奏を聴くことが出来た。 ミニコンサートの後は、クラシックな雰囲気とロマンティックな夜景が素晴らしい老舗のレストランに連れていって貰った。 ほんとうに幸せな気分でいられた。 ランチの時とは比べ物にならないぐらいに、食事は美味しい。 それはもやもやとした気持ちが霧散したからだろう。 香穂子はとても良い気分で食事をすることが出来た。 いよいよデザートだ。 いつも通りのデザートだと思っていた。 だが、デザートの上に華やかな花火が燃えているものが、こちらにやってくる。 まるで誕生日のような趣向だ。 香穂子は、まさか自分達のテーブルだとは思ってはいなかった。 だが、デザートを目の当たりにして驚く。 香穂子へ。 結婚して欲しい、吉羅 と描かれていて、香穂子は思わず息を呑んだ。 まさかこんなにもロマンティックなプロポーズをしてくれるとは、思ってはいなかったからだ。 香穂子は胸がいっぱいになり、瞳は涙でいっぱいになる。 吉羅は香穂子にミニブーケを差し出してくれた。 「香穂子、結婚してくれないか?」 吉羅はブーケを差し出すと、まるで騎士のように跪いてくれた。 夢を見ているようだ。 これ以上に嬉しいことはなくて、香穂子はただ頷いた。 すると吉羅は僅かにフッと笑う。 「おめでとうございます」 レストランのスタッフが拍手をしてくれ、祝福をしてくれる。それが何よりも嬉しかった。 「有り難うございます」 香穂子は笑顔でレストランスタッフにお礼を述べた。 「香穂子…」 吉羅は香穂子の左手を取ると、そのまま薬指にダイヤモンドの指環を填めてくれる。 婚約指環だ。 キラキラと輝いていて、こんなにも美しい宝石は他にないのではないかと思う。 香穂子は何度も見ては、甘く溜め息を吐いた。 「これで君は私のものだ。逃がさない」 吉羅は、甘さのかけらすらない声で呟くと、冷徹に香穂子を見つめる。 そこには愛がかけらも感じなかった。 「…はい…」 吉羅の言葉は、独占欲しかないのではないかと思うぐらいに、力強い。 香穂子は息苦しい嬉しさを感じていた。 吉羅と結婚する。 それを受け入れてから、香穂子は明るく前を向けるようになった。 結婚式の準備もかなり忙しかったが、結婚を控えたひとりの女性として、純粋に楽しむことが出来た。 吉羅はかなり忙しいひとだから、なかなか結婚式の準備を手伝ってくれることはなかったが、それでも香穂子に息抜きをさせるように、よくデートに連れて行ってくれた。 香穂子は吉羅の気遣いが嬉しくて、忙しさからくる疲労も余り気にならなかった。 吉羅はあくまでも香穂子には紳士的でとても優しい。夫にするには理想的な男性であることを、改めて感じている。 吉羅とは、婚約前と後で変わっているかと言われたら、変わっていない。 香穂子とは恋人同士というよりは、昔と同じように大人と子供だった。 吉羅はあくまでも香穂子を幼い妹のように扱う。 それが苦い感情を生むことを吉羅は知らないだろう。 香穂子は、吉羅にクールに気遣われる度に、切ない想いが蓄積してくるのを感じた。 いよいよ結婚式を迎えた。 最も晴れやかな日である筈だと言うのに、香穂子の気持ちはどんよりとしていた。 美しい最高級のウェディングドレスを身に纏っているというのに、少しも嬉しくなんかない。 それどころか苦しみのほうが大きい。 結局、結婚式まで、吉羅の態度に甘さなどなかった。 甘い態度を見せてくれたのは、本当にプロポーズをしてくれた日だけだった。 あれからは、優しいが、結婚前特有の甘い幸せなんて何処にもなかった。 香穂子は、こんな状態でずっといられるのだろうかと、不安ばかりを感じてしまう。 それが憂鬱となって重苦しくのしかかってきた。 「まあ、本当にお綺麗ね!」 メイクアップアーティストの女性が、香穂子を見て、自画自賛のように声を掛けてくれる。 確かに、いつもよりも綺麗になってはいる。 吉羅に綺麗な自分を見せるのは嬉しいが、香穂子は、心が全く満たされていないのを感じていた。 大好きな男性のお嫁さんになる筈なのに、どうしてこんなにも切なくて苦しいのだろうか。 吉羅の妻になる自体は、全く嫌なことではないというのに。 吉羅の愛が全く感じられないからだ。 吉羅が愛していると、態度でも言葉でも出してくれているのであれば、これほどまでにブルーになる必要はなかったというのに。 「では行きましょうか、花嫁さん」 「はい」 スタッフに呼ばれて、香穂子は控え室を出る。 神様の前で永久に愛を誓う。 香穂子は吉羅を本当に大好きであるから、神に誓うことは出来るけれども、吉羅はどうなのだろうか。 そもそも、結婚したいからと結婚したことも、理由にはなっていない。 愛情があることを信じて、香穂子は教会へと向かった。 誰もが羨むセレブ婚。 それは本当に表面上だけだ。 まさか十八で結婚するとは思ってもみないことだった。 こんなに早く、しかも大好きな男性と結婚することになるなんて、香穂子は思ってもみなかった。 いよいよ結婚式が始まる。 父親と腕を組んでヴァージンロードを進み、やがて吉羅と腕を組み替える。 祭壇の前で愛を誓うための宣誓を読み上げる。 何処か絵空事のように空しく響いた。 誓いのキス。 まさか結婚する男女が、キスすらもしていないことを、ここにいる誰もが思ってはいないだろう。 香穂子は唇に触れるだけの軽いキスを受ける。 ただ唇に触れるだけだというのに、背筋に電流が走り抜けるような感覚になる。 香穂子はその感覚がいつまでも続けば良いのにと、思わずにはいられなかった。 祝福された結婚。 傍から見れば、全く障害などはない理想的な結婚。 だが、まさか新婚初夜でも、新婚旅行でも、何もないなんて思ってもみなかった。 吉羅とは常に別のベッドに眠り、その上、結婚しても部屋は別だった。 実質的には全く夫婦ではないと言っても過言ではなかった。 香穂子は、受け入れる準備をつけていたから、これはショックの他ない。 こんなにも苦しいのだろうか仕打ちがあるとは思ってもみなかった。 吉羅とこうして新婚生活をスタートさせた。 夫婦としての甘い日常は何もない。 ただ一緒に暮らしている同居人に過ぎない。 吉羅はパトロンとしては最高だったが、夫としては最低だった。 やがてその生活にも慣れて、吉羅との仮面夫婦も上手く演じられるようになってきている。 だが、そんな日常は余り長くは続かなかった。 |