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無駄な結婚をこれ以上続ける必要はない。 香穂子は覚悟を決めて、ふたりの姿を見ていた。 ひょっとして吉羅は、香穂子と結婚したくて結婚したのではなくて、何か事情があったから結婚したのではなかろうか。 どう考えてもそれしか考えられない。 あの吉羅暁彦が、メリットのない結婚をして、こんなにも続ける筈はないのだから。 利用が何処かにあるのかもしれない。 だが、今はその理由がないのならば、結婚を続ける理由などはないだろうと、香穂子は思った。 吉羅暁彦を解放してあげよう。 ただ戸籍上の夫婦は必要ないだろうから。 香穂子は、仲睦まじく話に夢中になっている吉羅と女性を残して、ひとりになれるところを探した。 すると庭の一角に子供用の遊戯スペースがあり、たまたま誰もいなかった。 ホテルの庭と調和させるために、外国製のロマンティックなデザインのブランコが置いてある。 香穂子は懐かしさが込み上げてくるのを感じながら、のんびりとブランコを漕ぎ始めた。 こうしていると小さな頃に戻ったみたいだ。 吉羅を本当の兄以上に慕っていた、子供の頃を思い出す。 懐かしくてノスタルジックで、胸が張り裂ける程に締め付けられる。 香穂子は何時しか泣きそうになっていた。 いざ、吉羅を解放してあげようと決めると、胸が苦しくて苦しくて仕方がなくて、香穂子は息が出来なくなるぐらい辛くなる。 吉羅のことは本当に好きだ。 執着してしまいたいぐらいに好きでたまらない。 香穂子は吉羅のことを思うだけで泣けて来る。 こんなにも好きだなんて思ってもみなかった。 ここならば恐らくは誰もいないだろうから、思い切り泣けるはずだ。 香穂子は洟を啜りながら、まるで子供のように泣いた。 誰も見られないし、化粧が崩れたところで、吉羅が気にするとは想えないから。 香穂子は誰にも分からないように、肩を震わせて泣いた。 こうしてブランコを漕ぎながら泣いていると、小さな頃に戻ったようだ。 香穂子は小さな女の子と同じように、何度もしゃくりあげていた。 不意に目の前が曇る。 泣きすぎて視界がおかしくなったのかと思った。 だが。 「こんなところで何をしているんだ、君は…」 吉羅の呆れ果てた声が響いた途端、香穂子の瞳から涙が消えた。 顔を上げると、冷徹な程に怒りをにじましている吉羅がいた。 「…全く…君は…」 吉羅はすっかり呆れ果ててしまっている。 「…ブランコを漕いでみたかったので」 香穂子は吉羅に対抗するかのようにわざと悪びれてみた。 「…ったく、君は…」 「ご挨拶も終わりましたし、構わないと思っただけです」 「確かに挨拶は済んだ。君の役割は終わったかもしれないね」 吉羅の言葉に、胸が張り裂けるような気持ちになった。 妻としての役割も終わったと、吉羅は言いたかったのかもしれない。 「…香穂子…。君はどうしてそんなに子供なんだ」 吉羅は苦悩しているように言うが、言われた香穂子も胸が痛かった。 「私は子供のままであなたと結婚をしたんです。暁彦さん、私と結婚していてもあなたには何のメリットもないのではないですか」 香穂子は、吉羅を攻めるようなまなざしを向ける。 闘わなければならない。 吉羅暁彦とは。 「香穂子、君は何を言っているのかね? 結婚するのに、メリット、デメリットは余り関係ないだろう…」 吉羅はスッと目を細めると、明らかな不快感を現した。 「…私と結婚をしていても、あなたには何にもないですよ…。私はあなたと別れますから、どうぞ、あなたの大好きな女性と結婚されて下さい」 自分で言っていて、香穂子は苦しくて涙が零れ落ちてくる。 だがそれを何とか瞳で塞き止めて、空を見上げた。 「香穂子、君は本気で言っているのかね?」 吉羅はあからさまに怒りを現す。 喜ぶと思っていたのに、吉羅は明らかに怒ってしまった。 ようやく幼妻から解放されるなんて想わないのだろうか。 「…一緒にいられた方と結婚出来ますよ。あなたにとってはメリットがあるのではないですか?」 香穂子が真直ぐ吉羅を見つめても、少しも動揺しない。それどころか、不快感と怒りを滲ませているだけだ。 「彼女とは結婚はしないし、そんなことすら考えたことはないがね。私は君と結婚しているんだから」 吉羅はピシャリ言うと、話にならないとばかりの表情になった。 「だったら私と別れれば、そんな枷は取れるのではないですか? それとも彼女を愛人のままにしておくとも?」 吉羅は何処まで女心を愚弄するのだろうか。 飽きれる余りに、香穂子は溜め息を吐いた。 「…君は、何処からそれほどまでに想像力を逞しくするのかね。ったく…」 吉羅は、逆に香穂子を攻めるように見つめてくる。 吉羅暁彦にそのようなまなざしで見つめられてしまったら、息が出来なくなるぐらいに恐ろしくなる。 「…暁彦さん。私たちはこのままではいけないと思うんです。戸籍上は夫婦かもしれませんが、現実ではそうではないです。だから、この際、別れたほうが良いのではないですか?」 香穂子はキッパリと言ったが、吉羅は更に不機嫌になった。 いつもはクールで、感情を面に出すことは少ないというのに、吉羅は怒りに満ちている。 香穂子は危険だと察知した。 「…私は君と離婚をする気は少しもない。それとも君は私と別れたいとでも言うのかね!? そうなれば、君はヴァイオリンの勉強を今までのように出来なくなる。それで構わないのかね?」 吉羅は全く痛いところを突いて来る。 意地が悪過ぎる。 「暁彦さんはどうなんでしょうか? あなたは私と別れたいと思っているんじゃないですか?」 吉羅自身がそう思っているのではないかと、香穂子は思わずにはいられない。 だが、吉羅の言葉は、全くと言って良い程に予想外だった。 「いいや。私は君と別れたいと思ったことは一度もない」 吉羅がキッパリと言い切り、香穂子は逆にかなり驚いてしまった。 「え…?」 益々、訳が分からない。 吉羅にとっては続けても全く意味のない結婚をこれ以上続けようとしているなんて。 唖然としていると、吉羅は香穂子をまなざしで攻撃してくる。 「…香穂子…、ならば君はどうして私と別れようとしているのかね? 君が別れたいと思っているとしか思えないがね。その理由は、他に好きな男でも出来たのかね」 吉羅は珍しくまるで嫉妬をしているかのような厳しいまなざしを向けてきた。 「…好きなひとなんていません…」 他に好きな男性なんて本当にいない。 好きな男性はただひとり。 昔から吉羅暁彦だけだというのに。 恐らくは分かってはいないだろう。 「そんな男性はいません」 香穂子が僅かに声を震わせながら言うと、吉羅は皮肉げに僅かに眉を上げた。 「そうなのかね。だったら、君は私と別れる理由は持ち合わせてはいないだろう。別れる気はない」 吉羅は言い切ると、香穂子から背中を向けた。 「私たちは何も共にしていないままごと夫婦です。それをお続けになるおつもりなんですか!?」 香穂子は吉羅に言葉を投げ付ける。 「ほう…。君は本当の意味で私の妻になりたいということなのかね…」 吉羅はまるで威嚇するかのように香穂子を見つめる。 本当の意味での妻。 想像するだけで顔が熱くなる。 「その表情では…満更でもないようだね。来るんだ」 吉羅は命令すると、香穂子の腕を思い切り掴んだ。 |