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香穂子の意識が戻ってくる。 快楽にまだぼんやりとしてしまっている。 吉羅は、香穂子の身体を丁寧に拭いてくれている。その行為自体が恥ずかしくて、香穂子は顔から火が出そうになった。 「今夜はここまでだ。少しずつ慣らしてゆけば良いから」 「吉羅さん……」 最後まではしたかった。 それはきっと吉羅なりの気遣いなのだろう。 だが、香穂子は複雑な気持ちになる。 吉羅のものにならなかったのは、その気がなかったということなのだろうか。 香穂子は、吉羅の気持ちが分からなかった。 身体が鈍く疼いている。 香穂子は何度も息を吸い込む。 切ないぐらいに鈍い痛みを感じた。 吉羅は、香穂子の頬にそっと口付ける。 先程まで、口には出せないことをしていたなんて思えないぐらいに、吉羅はクールだった。 「……今夜は疲れただろう……。ゆっくりと休みなさい……。おやすみ」 吉羅は何事もなかったかのように言うと、静かに部屋から出ていってしまう。 部屋にひとりきりになり、香穂子は寂しさと苦しさでいっぱいになる。 吉羅にもう少しそばにいて欲しかった。 もっと抱き締めて欲しかった。 香穂子は切なくも強くそれを感じていた。 吉羅とは、結局は、最後の一線を越えることはなかった。 吉羅は、一線を越えるほどに、香穂子のことを思ってはくれていないのではないだろうか。 そんな後ろ向きなことを考えてしまう。 そんなことは考えなくても構わないのに。 吉羅と愛人契約をしてからというもの、本当におかしくなってしまったと、香穂子は自分でも感じていた。 吉羅のことを考えてばかりいる。 ヴァイオリンのことなどは疎かになってしまう。 何だか、吉羅のことばかりを考えてしまい、苦しかった。 ヴァイオリンでこの苦しさを紛らわしたい。 香穂子は更にヴァイオリンに集中するようになった。 吉羅への想いの正体は、本当は解ってはいる。 だが、それをわざと気付かないふりをしている自分がいた。 あのことがあってから、香穂子の身体は敏感になってしまい、より感じやすくなってしまう。 自分でもなんて敏感なのだろうかと、思わずにはいられなかった。 思い出すだけで身体が熱くなる。 だが、自分でそれを、真似するなんてことは、到底出来ないと、香穂子は思った。 恥ずかしくて、そしてなんだか欲望の命ずるままになっているように気がして、香穂子は嫌でたまらなかった。 恥ずかしさとはしたないと思う気持ちが、何とか香穂子にブレーキをかける。 だが、生々しく思い出さずにはいられない。 それが香穂子にはたまらなかった。 思い出すたびに、吉羅に逢いたいと強く思わずにはいられなかった。 吉羅と会えない。 くるしい。 心と身体が苦しい。 吉羅から与えられた、あの甘美な世界を知らない昔には、もう戻ることは出来ないのだ。 香穂子が帰宅すると、珍しく吉羅が待ってくれていた。 久々に逢う吉羅は、相変わらず隙のない素晴らしさだ。 香穂子はついうっとりと見つめずにはいられない。 これ以上に甘く満たされた、ときめく瞬間はないのではないかと、香穂子は思わずにはいられなかった。 「日野くん、ヴァイオリンの調子はいかがかね?」 吉羅は、パトロンとして、ごく真っ当なことを言ってくれる。 「あ、はい、まあ、ぼちぼちというか……」 まさか吉羅のことばかりを考えすぎて、上手くいっていないだなんて、言える筈がなかった。 「その調子だと、イマイチだということかな?」 吉羅はスッと目を細めると、香穂子を冷たく見据えてきた。 吉羅は、香穂子が、ヴァイオリニストとして大成するために、色々と力を尽くしてくれているのだ。だからこそ、今の香穂子の状態は、あまり好ましくはないということだ。 本当に本末転倒だと、香穂子は思う。 苦しいぐらいに、痛い眼差しだった。 香穂子はばつの悪い気持ちになる。針の筵に座っている。 本当に吉羅にかまけているのは、間違いないことだった。 「……吉羅さんの期待にそえていないですね」 香穂子は潔く認めるしかなかった。 すると吉羅は眉を皮肉げに上げた後で、香穂子の手を握りしめてきた。 表情とは裏腹の態度に、香穂子は戸惑わずにはいられない。 吉羅の表情を読むように、香穂子はじっと見つめた。 「少し気分転換に行こうか。ドライブなんて良いかもしれないね」 「有り難うございます」 香穂子は吉羅の気遣いに、つい笑みをこぼす。 「じゃあ行こうか」 吉羅は、ネクタイだけを外して、ほんの少しだけカジュアルなスタイルになった。 吉羅がネクタイを外す仕草というのは、なんて色っぽいのだろうかと、つい見惚れてしまった。 本当にドキドキしてしまい、香穂子は頬を赤らめる。 あの夜の背徳な気持ちとは裏腹に、爽やかな春風のような気持ちになった。 吉羅の車に乗り込んで、ドライブに向かう。 香穂子はドライブが大好きだ。 車に乗っているだけで、何だか爽快な気持ちになるからだ。 「ドライブって、気分転換にはもってこいですね」 「……そうか。君がそう感じているなら、成功かな」 吉羅は甘く微笑んでくれる。その横顔を見つめるだけで、香穂子は満たされる。 そうだ。 どうしようもないぐらいに、吉羅のことを思っている。 香穂子は改めてそれを強く感じる。 パトロンと芸術家という垣根を越えて、吉羅が好きなのだ。 バランスが取れないのは解っている。 だが、そんな想いを凌駕してしまうぐらいに、香穂子は吉羅が好きでしょうがなかった。 「君は本当に楽しそうにするね。たかが、ドライブなのに」 「その“たかが”が良いんですよ。吉羅さんが車を運転しているのを見るのは楽しいですから」 香穂子は素直な気持ちを笑顔で伝える。 それぐらいならば伝えても構わないと思っていた。 不意に車が止まる。 香穂子が吉羅を見つめると、いきなり息が出来ないぐらいに強く抱き締められてしまった。 強い抱擁に、香穂子は胸がいっぱいになる。 吉羅が愛しくて、好きで堪らなくなる。 そう自覚をした瞬間、深みのあるキスをされた。 香穂子の気持ちが、再び、吉羅を求めて乱れる。 吉羅が欲しい。 あの夜の背徳な気持ちが、甦ってくる。 吉羅に引き寄せるように抱き締められて、香穂子も広くて逞しい背中に腕を回す。 後戻りできない。 香穂子は吉羅の激しいキスに溺れていった。 |