*愛人契約*

11


 香穂子の意識が戻ってくる。

 快楽にまだぼんやりとしてしまっている。

 吉羅は、香穂子の身体を丁寧に拭いてくれている。その行為自体が恥ずかしくて、香穂子は顔から火が出そうになった。

「今夜はここまでだ。少しずつ慣らしてゆけば良いから」

「吉羅さん……」

 最後まではしたかった。

 それはきっと吉羅なりの気遣いなのだろう。

 だが、香穂子は複雑な気持ちになる。

 吉羅のものにならなかったのは、その気がなかったということなのだろうか。

 香穂子は、吉羅の気持ちが分からなかった。

 身体が鈍く疼いている。

 香穂子は何度も息を吸い込む。

 切ないぐらいに鈍い痛みを感じた。

 吉羅は、香穂子の頬にそっと口付ける。

 先程まで、口には出せないことをしていたなんて思えないぐらいに、吉羅はクールだった。

「……今夜は疲れただろう……。ゆっくりと休みなさい……。おやすみ」

 吉羅は何事もなかったかのように言うと、静かに部屋から出ていってしまう。

 部屋にひとりきりになり、香穂子は寂しさと苦しさでいっぱいになる。

 吉羅にもう少しそばにいて欲しかった。

 もっと抱き締めて欲しかった。

 香穂子は切なくも強くそれを感じていた。

 

 吉羅とは、結局は、最後の一線を越えることはなかった。

 吉羅は、一線を越えるほどに、香穂子のことを思ってはくれていないのではないだろうか。

 そんな後ろ向きなことを考えてしまう。

 そんなことは考えなくても構わないのに。

 吉羅と愛人契約をしてからというもの、本当におかしくなってしまったと、香穂子は自分でも感じていた。

 吉羅のことを考えてばかりいる。

 ヴァイオリンのことなどは疎かになってしまう。

 何だか、吉羅のことばかりを考えてしまい、苦しかった。

 ヴァイオリンでこの苦しさを紛らわしたい。

 香穂子は更にヴァイオリンに集中するようになった。

 吉羅への想いの正体は、本当は解ってはいる。

 だが、それをわざと気付かないふりをしている自分がいた。

 あのことがあってから、香穂子の身体は敏感になってしまい、より感じやすくなってしまう。

 自分でもなんて敏感なのだろうかと、思わずにはいられなかった。

 思い出すだけで身体が熱くなる。

 だが、自分でそれを、真似するなんてことは、到底出来ないと、香穂子は思った。

 恥ずかしくて、そしてなんだか欲望の命ずるままになっているように気がして、香穂子は嫌でたまらなかった。

 恥ずかしさとはしたないと思う気持ちが、何とか香穂子にブレーキをかける。

 だが、生々しく思い出さずにはいられない。

 それが香穂子にはたまらなかった。

 思い出すたびに、吉羅に逢いたいと強く思わずにはいられなかった。

 

 吉羅と会えない。

 くるしい。

 心と身体が苦しい。

 吉羅から与えられた、あの甘美な世界を知らない昔には、もう戻ることは出来ないのだ。

 香穂子が帰宅すると、珍しく吉羅が待ってくれていた。

 久々に逢う吉羅は、相変わらず隙のない素晴らしさだ。

 香穂子はついうっとりと見つめずにはいられない。

 これ以上に甘く満たされた、ときめく瞬間はないのではないかと、香穂子は思わずにはいられなかった。

「日野くん、ヴァイオリンの調子はいかがかね?」

 吉羅は、パトロンとして、ごく真っ当なことを言ってくれる。

「あ、はい、まあ、ぼちぼちというか……」

 まさか吉羅のことばかりを考えすぎて、上手くいっていないだなんて、言える筈がなかった。

「その調子だと、イマイチだということかな?」

 吉羅はスッと目を細めると、香穂子を冷たく見据えてきた。

 吉羅は、香穂子が、ヴァイオリニストとして大成するために、色々と力を尽くしてくれているのだ。だからこそ、今の香穂子の状態は、あまり好ましくはないということだ。

 本当に本末転倒だと、香穂子は思う。

 苦しいぐらいに、痛い眼差しだった。

 香穂子はばつの悪い気持ちになる。針の筵に座っている。

 本当に吉羅にかまけているのは、間違いないことだった。

「……吉羅さんの期待にそえていないですね」

 香穂子は潔く認めるしかなかった。

 すると吉羅は眉を皮肉げに上げた後で、香穂子の手を握りしめてきた。

 表情とは裏腹の態度に、香穂子は戸惑わずにはいられない。

 吉羅の表情を読むように、香穂子はじっと見つめた。

「少し気分転換に行こうか。ドライブなんて良いかもしれないね」

「有り難うございます」

 香穂子は吉羅の気遣いに、つい笑みをこぼす。

「じゃあ行こうか」

 吉羅は、ネクタイだけを外して、ほんの少しだけカジュアルなスタイルになった。

 吉羅がネクタイを外す仕草というのは、なんて色っぽいのだろうかと、つい見惚れてしまった。

 本当にドキドキしてしまい、香穂子は頬を赤らめる。

 あの夜の背徳な気持ちとは裏腹に、爽やかな春風のような気持ちになった。

 吉羅の車に乗り込んで、ドライブに向かう。

 香穂子はドライブが大好きだ。

 車に乗っているだけで、何だか爽快な気持ちになるからだ。

「ドライブって、気分転換にはもってこいですね」

「……そうか。君がそう感じているなら、成功かな」

 吉羅は甘く微笑んでくれる。その横顔を見つめるだけで、香穂子は満たされる。

 そうだ。

 どうしようもないぐらいに、吉羅のことを思っている。

 香穂子は改めてそれを強く感じる。

 パトロンと芸術家という垣根を越えて、吉羅が好きなのだ。

 バランスが取れないのは解っている。

 だが、そんな想いを凌駕してしまうぐらいに、香穂子は吉羅が好きでしょうがなかった。

「君は本当に楽しそうにするね。たかが、ドライブなのに」

「その“たかが”が良いんですよ。吉羅さんが車を運転しているのを見るのは楽しいですから」

 香穂子は素直な気持ちを笑顔で伝える。

 それぐらいならば伝えても構わないと思っていた。

 不意に車が止まる。

 香穂子が吉羅を見つめると、いきなり息が出来ないぐらいに強く抱き締められてしまった。

 強い抱擁に、香穂子は胸がいっぱいになる。

 吉羅が愛しくて、好きで堪らなくなる。

 そう自覚をした瞬間、深みのあるキスをされた。

 香穂子の気持ちが、再び、吉羅を求めて乱れる。

 吉羅が欲しい。

 あの夜の背徳な気持ちが、甦ってくる。

 吉羅に引き寄せるように抱き締められて、香穂子も広くて逞しい背中に腕を回す。

 後戻りできない。

 香穂子は吉羅の激しいキスに溺れていった。 



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