*愛人契約*

12


 吉羅の背中をしっかりといると情熱が沸騰して行く。

 吉羅のキスは激しくて、香穂子は自分の自分のものだと強く主張しているように見える。

 香穂子は、吉羅に夢中になりすぎるぐらいに夢中になってしまう。

 ドキドキし過ぎて、更にそれよりも上のときめきが欲しくなった。

 どのようなものであるかは分かっている。

 それを欲しいと、女としての本能が、香穂子に囁いていた。

 吉羅は、香穂子に自分を刻み付けるかのように、口腔内を舌先で愛撫して行く。

 背中がゾクゾクとしてくる。

 もっと甘い戦慄が欲しいと、香穂子は思わずにはいられない。

 香穂子がとことんまで愛欲に乱れるような、深い、深いキスをしながら、吉羅はほんのりと、香穂子のボディラインを撫でてくる。

 それが更に香穂子に甘い戦慄を感じた。

 ようやく唇を離されても、香穂子はぐったりと吉羅に身体を預けることしか、出来なかった。

 甘くて何処か倦怠感のある感覚だ。

 深いキスなんてしなかったとばかりに、吉羅は平然と香穂子を見た。

「ドライブの続きをしようか。香穂子……」

ドライブをしていたことを、香穂子はすっかり忘れてしまっていた。

 これにははずかし過ぎて、香穂子はつい小さくなってしまう。

 吉羅は再びステアリングを握ると、何事もなかったように車を走り出した。

 香穂子はこんなにも恥ずかしいのに、どうして吉羅はこんなにも平然としていられるのだろうか。

 それは、香穂子には分からなかった。

 香穂子はこんなにもドキドキしているというのに、吉羅は全く何もない。

 一方的に自分だけが好きなのではないかと、思ってしまう。

 どうしても、愛人契約を結んでいるという、後ろめたさが、香穂子を苦しめる。

 恋人ならば、太陽の輝かしい下にいたとしても、とても微笑ましいと感じれる。

 だが、愛人と言う響きはそうじゃない。

 かなり重たい気持ちになってしまう。

 それが香穂子は苦しかった。

 一線は越えてはいないが、それが香穂子にはかえって苦しかった。

 辛くて苦しい。

 いっそ、そのような関係にならば、それはそれで割りきれたかもしれない。

 だが、それが出来ないのは、この苦しい立場にあるからだと、香穂子は改めて感じずにはいられなかった。

「どうしたのかね、日野くん。先程から気分転換にはなっていないような雰囲気だね?」

 吉羅はあくまでソフトに訊いてくる。

 それがかえって、苦しかった。

 本当に香穂子を戯れの感情のおもちゃとぐらいにしか、思ってはいないのだろうかと、思わずにはいられない。

 香穂子はただ曖昧にしか笑えなかった。

「ドライブぐらいでは、君の気持ちは晴れないかな?」

「いいえ、そんなことはありません。楽しいですよ」

 香穂子は、なるべく吉羅を見ないようにしながら、にっこりと微笑んだ。

 ひょっとして、先程のキスがなければ、もっとときめくことが出来たのではないかと、思わずにはいられない。

「更なる気分転換が必要かな?その調子だとね……」

 吉羅は困ったように薄く笑う。

「ドライブでも充分に楽しいですよ」

「そうは思えないからね」

 吉羅は苦笑いを浮かべた後、香穂子を見ることなく、運転に集中している。

 その横顔を見つめていると、余計に苦しくなる。

 こんなにも苦しいことが他にないのではないかと、思わずにはいられないぐらいだった。

 吉羅の運転に集中し続ける横顔は、隙がないぐらいに素晴らしく、香穂子はつい魅入られる。

 こんなにも素敵で大人なひとが、自分なんかを好きになるはずなんてない。

 香穂子はずっと自問自答し続けた。

 

 吉羅に呼ばれて、香穂子は、会社に向かっていた。

 吉羅への恋心に苦しみすぎているからか、最近は、ヴァイオリンの調子が全く出ない。

 これには香穂子自身もかなり困っていた。

 恋をしている女の子ならば、いつも素敵な音楽を奏でられるとずっと思っていた。

 だが、今の自分は違う。

 明らかに吉羅に恋をしているのは、もう自覚している。

 だが、それが苦しい恋であるのは間違いなく考えれば、考えるほどに、香穂子を余計に苦しくさせた。

 ヴァイオリンの調子が悪いことを、吉羅に指摘されるのだろうか。

 安易に予測できるのは、それぐらいなのだ。

 香穂子は溜め息を吐きたくなる。

 それが事実なのは分かっているのだから。

 重い気持ちで、吉羅がいる、CEO室のドアをノックする。

「……吉羅さん、日野香穂子です」

「入りたまえ」

 吉羅はクールに返事をする。香穂子は静かに部屋に入る。

 すると吉羅は相変わらず完璧な姿で、仕事をしていた。

「ご用は何でしょうか?」

「ああ。気分転換をしようと言っていただろう? クラシックのコンサートに行くよ。ただし、かなりの格調がある演奏会だからね、ここに行って、綺麗にしてもらって来なさい」

 吉羅はテキパキと言うと、香穂子にメモを渡してくれた。

「はい。こちらに向かえば良いんですね。ですが、いつから……?」

「今からだよ。車は手配しておいたから、行きたまえ」

 吉羅は有無を言わせないとばかりに、言う。

 香穂子のスケジュールは全く確認すらしない。

「あ、あの、私のスケジュールは無視ですか?」

 香穂子が困惑ぎみに訊くと、吉羅は眉を寄せる。そんなことは当然だとばかりに。

「君は暇だろう?」

「まあ、そうですが」

 吉羅の眼差しの前では嘘なんて吐けるはずもなくて、香穂子は認めるしかなかった。

「だったら構わないだろう。行きなさい。今回は君にはかなり勉強になるコンサートだからね」

 吉羅はさらりと言うと、チケットを見せてくれた。

「……!!!」

 香穂子がかなり憧れているヴァイオリニストも参加するコンサートだ。

 だが、今回はかなり格調が高いコンサートで、チケットもプラチナだと噂があった。

 とてもではないが、香穂子がチケットを取れるレベルではないと思うぐらいの、価額設定であり、競争率だった。

 これは本当に行きたい。

 香穂子はついうっとりとした笑顔になった。

「あ、あのっ!是非にでも行きたいです!」

 つい、勢いで言ってしまい、香穂子は恥ずかしくなってしまう。

 吉羅はフッと笑う。

「そう言うと思っていたよ。行ってきなさい。君が支度が終わるタイミングで迎えに行くから」

「はい」

「では、いっておいで」

 吉羅の気遣いに、香穂子は胸がほんのりと暖かくなった。

 少しだけ、後ろ向きで暗い恋心が何処かにいってしまった。

「では、行って参ります」

「ああ」

 吉羅に見送られて、香穂子は車が用意されていた駐車場に向かった。

 何だかシンデレラにでもなたような気分だった。



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