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吉羅が用意してくれた席は最高の席で、香穂子は緊張せずにはいられなかった。 そもそも、このようなコンサートで、こんなにも素晴らしい席で見ることになったことなど、今までで一度としてなかったからだ。 嬉しいし、吉羅にも感謝しているのだが、それ以上に緊張してしまう。 香穂子は身体を固くしながら、ちんまりと席に腰かけていた。すると吉羅が顔を覗き込んでくる。 「どうしたのかね?」 「こんなに素敵な席を用意していただいて有り難うございます。このような席は初めてだから、緊張してしまって……」 香穂子が苦笑いをしながら言うと、吉羅はフッと笑う。香穂子は一瞬、バカにされたのではないかと思ってしまった。 だが、それが違っていることは、次の瞬間で理解することが出来た。 吉羅はまるで香穂子を見守るかのようにしっかりと手を握り締めてくる。 流石に緊張せずにはいられなかった。 「こうしていれば、落ち着くかな?」 「あ、あの、余計に緊張します……。べ、別の意味で」 ときめきすぎて、ロマンティック過ぎてドキドキしてしまうなんて、なかなか言えない。 「別の意味?」 吉羅は少しだけ傷ついたような表情をする。 「あ、あの。甘いドキドキというんでしょうか……?私にはよく、分からないんですが……」 香穂子は恥ずかしすぎて段々と声を小さくしてゆく。 すると吉羅は、更に手を強く握り締めてきた。 息が出来ないぐらいにドキドキして、香穂子は酸欠になりそうになった。 それだけ、吉羅のことを慕っているのだろう。 「落ち着かないのなら、離そうか?」 離されるのは嫌だ。 ずっと手を繋ぎたい。 「離したくないです」 「そうか。では、離さないでおこう」 「……有り難うございます……」 吉羅に手を握りしめてもらい、香穂子の胸は甘さでいっぱいになる。 吉羅と手を繋いでいるだけで、香穂子はロマンティックで素晴らしい気持ちになった。 これが、音楽でよく歌われている恋する気持ちなのだろうかと思う。 この気持ちをヴァイオリンで上手く表現出来ないかなんて、ヴァイオリニスト特有の考え方をしてしまう。 こうして吉羅を想う気持ちが、香穂子にとってはかなりのプラスになるということは、本当に間違いはないと思わずにはいられなかった。 コンサートがいよいよ始まる。 香穂子は集中して聴き込むことにした。 これ以上の素晴らしき勉強方法はないのだから。 ヴァイオリンを特に聴き込んでゆく。 本当に素晴らしいとしか言いようがないほどの音の表現力だった。 香穂子はじっくりと聞き入りながら、こんなにも素晴らしい音が他にあるのかと、感動してしまうほどだ。 今や音と自分だけの世界にどっぷりと浸かる。 こんなにも集中して聴くことが出来るのは、香穂子にとっては初めてだった。 夢中になって聴く。 そうするとヴァイオリンだけが集中して聴こえた。 音を確認しながら、香穂子は手の動きも判断できる限り、確認してゆく。 結局、香穂子は一部が終わるまで集中し続けた。 「日野くん、休憩だ。ロビーに出ようか」 「は、はい」 吉羅に言われて、香穂子は慌てて立ち上がる。 音の余韻に浸ってしまうぐらいに、香穂子は自分の世界に入り込んでしまっていた。 ここまで音にのめり込んでしまうなんて、思ってもみなかった。 「君をそこまで夢中にさせるなんて、憎らしいかもしれないね」 吉羅は苦笑いを浮かべながら、しみじみと呟いた。 「ごめんなさい……。つい、うっかりと集中してしまいました」 「いいや。そこまで熱心に勉強してくれると、こちらとしては逆に本望だと思うけれどね。後半もしっかりと勉強してくれたまえ」 「はい。有り難うございます」 吉羅の気遣いに、香穂子は笑顔で感謝をした。 後半の演奏も素晴らしかった。 香穂子は夢中になりながら、ヴァイオリンを、耳で、目で確認をする。 本当に勉強になる。 香穂子が夢中になっている間も、吉羅は手を握りしめていてくれた。 こうして吉羅に見守られながら、ヴァイオリンに集中するなんて、ほんとうに恵まれている。 香穂子はなんて恵まれているのだろうかと思わずにはいられなかった。 素晴らしい機会を与えてくれた吉羅に感謝せずにはいられなかった。 コンサートが終わり、香穂子はまだふわふわと雲の上を歩いているような気分になった。 こんなに幸せな瞬間は他にないだろうと、香穂子は思う。 「食事をして行こうか。こんな時間だから、寿司屋にでもしようか」 「はい。有り難うございます」 香穂子が笑顔で礼を言うと、吉羅はしっかりと引き寄せてくる。 密着したまま駐車場に向かったが、その間もドキドキしっぱなしだった。 寿司屋では、新鮮なお寿司を沢山食べた。 吉羅と食べる寿司は本当に美味しくて、香穂子は笑顔になるり ヴァイオリンのことを話したり、お寿司のことを話したり。 まるで恋人同士のような甘い時間をしっかりと楽しんだ。 こんなに楽しんだ時間は他にないと思ったぐらいだ。 香穂子にとっては、夢のような時間だった。 素敵な時間。 まるで奇跡のようだと、香穂子は思った。 食事が終わり、外の風に吹かれる。とても気持ちが良い。 吉羅と手を繋いで、駐車場まで歩いてゆく。 ただふたりで並んで歩くだけなのに、映画の中にいるような気分になった。 美しく着飾った自分。 心地好い夜風。 そして、誰よりも大好きなひと。 駐車場までの短い距離が切ない。 これが終わってしまえば、このロマンティックな時間は終わりを告げる。 シンデレラのように魔法が切れるのだ。 「吉羅さん、今日は本当に有り難うございました。最高の夜になりました。ヴァイオリンの勉強も出来て、そして綺麗にもして頂いて、吉羅さんと一緒にいられた……。夢のような時間でした!魔法みたいな時間でした」 香穂子が笑顔で言うと、次の瞬間、吉羅に強く抱き締められた。 息が出来ないほどにロマンティックを感じて、香穂子は泣きそうになる。 「日野くん、私はまだ、魔法をときたくはない……。君は?」 「……私もです……」 香穂子もまた、吉羅を強く抱きしめた。 ふたりは見つめあう。 そのまま唇を重ねると、更に甘い、甘い、魔法を、お互いに掛け合った。 もう誰も恋する気持ちを止めることは出来ない。 香穂子は強く思った。
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