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きちんと吉羅にはお別れを言おう。 それが一番良いかもしれない。 吉羅のために、離れたほうが良いのかもしれない。 香穂子は強く決意をした。 きちんと話して、お礼とお別れを言いたかった。 香穂子の望みはそれだけだ。 香穂子はこっそりと吉羅から離れる準備をし、新しいアルバイトを探し、再び入寮の手続きを取った。 総ての手筈を整えてから、吉羅に挨拶をすることにする。 これで大丈夫だ。 吉羅と契約を終えてもやって行ける。 元の生活に戻るだけなのだ。 妊娠している心配もない。 ただ、香穂子が吉羅に恋破れた事実だけが残るだけだ。 本当にそれだけなのだ。 初めての恋に破れたのは、かなりの痛手だが、それでもまた勇気を持って頑張ってゆける。 恋を糧にすることが、いつかは出来るはずだ。 たとえ今は難しくても。 香穂子は覚悟を決めて、吉羅に挑む。 吉羅が帰ってきた時に、きちんと伝えれば良い。 離れること。 そして、どうして離れたいのかを。きちんと伝えなければならない。 離れなければならないと言うよりは、離れたくないが離れるしかしょうがないことを、伝えよう。 後悔しないように。 本当の気持ちもちゃんと伝えよう。 香穂子はそれだけは決めていた。 もう吉羅とは逢うことはないから、そうなっても後悔しないように。 言わなければ伝わらない。 黙ったままでは伝わらないのだから。 そう決意はしたものの、最近はなかなか会えないが、近日中に逢って話をしなければならないと、香穂子は感じていた。 今夜もまたひとりだ。 最近は、ひとりで、夜空を見上げることが多くなった。 同時に、ヴァイオリンの練習をすることが多かった。 梅雨も明けて、雨も降ることがなくなってきたので、ヴァイオリンを練習することが多くなってきた。 香穂子はひとりで夜空を見ながら、切ない気持ちでヴァイオリンを弾いていた。 誰かの気配がする。 振り返ると、そこには吉羅が立っていた。 艶やかな瞳で見つめられると、動けなくなる。 眼差しに溺れたい。 そう考えるだけで、香穂子はまだまだ深く吉羅を愛していることに気付いた。 早く、一刻も早く、香穂子の元に行きたい。 そばにいたい。 ただそれだけだ。 会いたくて堪らない。 心から会いたくて堪らない。 ずっと会えなかった。 仕事が立て込んでいたこと。 そして、準備に忙しくて会えなかった。 早く準備をして、手遅れにならないように、香穂子を繋ぎ止めて置くために。 吉羅はやらなければならないことが多かった。 こんなにもロマンティックで素敵なことは、他にはないのではないかと思わずにはいられなかった。 だからこそ成功させたい。 今までは、ロマンティックだとか、正直言って考えたことなんてなかったのだから。 ロマンティックなことなんて、自分には全く縁のない、どちらかというと、小馬鹿にしていることだった。 だからこそ、自分自身がこんなにも情熱的になって、随分と年下のひとのために頑張ることなんて、想像することが出来なかった。 今夜は間に合うだろう。 香穂子に逢えるだろう。 吉羅は逸る気持ち抑えながら、自宅へと戻った。 香穂子は日に日に美しくなる。 抱いてからは、益々美しくて、大人の女性になりつつある。 本当に透明感のある美しさだ。 同時に、儚さも感じずにはいられない。 いつかどこかに行ってしまうのではないか……。 そのことばかりをつい考えてしまうぐらいに、香穂子は美しく、吉羅が手を伸ばしたら消えてしまうのではないかと、思ってしまった。 吉羅が家に入ると、透明感のある美しいヴァイオリンの音色が部屋に響いていた。 また、ベランダで香穂子がヴァイオリンを演奏しているのだろう。 吉羅は胸が苦しくなる程に、高まるのを感じながら、香穂子にゆっくりと近付いていった。 苦しくて堪らない。 風に吹かれながらヴァイオリン演奏を行う香穂子は、うっとりとしてしまうほどに魅力的だった。 自分のものにしたい。 自分だけのものにしたい。 そう思わずにはいられなかった。 見つめられると、本当に吉羅を愛していることを、感じずにはいられない。 だが、もう潮時なのだ。 吉羅から引かなければならない。 香穂子は対峙すべきことが来たのだと、感じずにはいられなかった。 「吉羅さん、おかえりなさい」 「ただいま」 こうして挨拶をするのも最後かもしれない。 そう考えるだけで、香穂子は胸が苦しくなる。 ずっと吉羅のそばにいたい。 だが、それは決して許されることではないのだ。 「吉羅さん、お話があります」 香穂子は覚悟を決めて、吉羅を真っ直ぐ見た。 吉羅は目をスッと神経質に細める。 きっと不快だと感じたのだろう。 だが、話すしかないのだ。 それが、香穂子のため、吉羅のためなのだから。 「吉羅さん、今まで、有り難うございました」 香穂子は瞳に涙をしっからと浮かべながら、吉羅を見つめる。 吉羅は更に不機嫌な顔をする。 解っている。 吉羅は、今まで良くしてきたのに、恩を仇で返すようなことをしている香穂子が不快なのだろう。 だが、吉羅ならば、香穂子のような愛人は、きっと直ぐに出来る筈だ。 だから大丈夫だ。 「吉羅さん、私は……、もうこれ以上……、愛人を続けられません……」 香穂子は声を震わせながら呟くと、吉羅を真っ直ぐ見た。 吉羅はかなり厳しい顔をしている。それが苦しい。 「……理由は?」 吉羅は低い声で冷静に訊いてくる。 恐ろしいぐらいに冷たい声だ。 香穂子は一瞬、怯んだ。 だが、ここできちんと伝えよう。 伝えられなくて、後悔するよりは余程良い。 「……吉羅さんが好きだから、愛人という立場に耐えられなかったんです……。このままでは、あなたの枷になってしまうような気がするから。すがってしまうような気がするから、離れなければならないと思ったんです……」 最後だから、香穂子は包み隠さずに呟く。 吉羅は静かに訊いてくれている。 それが切なくて厳しい。 香穂子は目を伏せた。 まともに見ていられなかった。 「解った。君の愛人契約を破棄しよう」 吉羅はなんの迷いもないとばかりにいう。 愛されていたなかったのだ。 そう思った瞬間、香穂子は吉羅に強く抱き締められていた。 「愛人ではなく、本当の意味でずっとそばにいてくれ……」 吉羅は魂の底から絞り出すかのような声で呟いた。
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