*愛人契約*

20


 きちんと吉羅にはお別れを言おう。

 それが一番良いかもしれない。

 吉羅のために、離れたほうが良いのかもしれない。

 香穂子は強く決意をした。

 きちんと話して、お礼とお別れを言いたかった。

 香穂子の望みはそれだけだ。

 香穂子はこっそりと吉羅から離れる準備をし、新しいアルバイトを探し、再び入寮の手続きを取った。

 総ての手筈を整えてから、吉羅に挨拶をすることにする。

 これで大丈夫だ。

 吉羅と契約を終えてもやって行ける。

 元の生活に戻るだけなのだ。

 妊娠している心配もない。

 ただ、香穂子が吉羅に恋破れた事実だけが残るだけだ。

 本当にそれだけなのだ。

 初めての恋に破れたのは、かなりの痛手だが、それでもまた勇気を持って頑張ってゆける。

 恋を糧にすることが、いつかは出来るはずだ。

 たとえ今は難しくても。

 香穂子は覚悟を決めて、吉羅に挑む。

 吉羅が帰ってきた時に、きちんと伝えれば良い。

 離れること。

 そして、どうして離れたいのかを。きちんと伝えなければならない。

 離れなければならないと言うよりは、離れたくないが離れるしかしょうがないことを、伝えよう。

 後悔しないように。

 本当の気持ちもちゃんと伝えよう。

 香穂子はそれだけは決めていた。

 もう吉羅とは逢うことはないから、そうなっても後悔しないように。

 言わなければ伝わらない。

 黙ったままでは伝わらないのだから。

 そう決意はしたものの、最近はなかなか会えないが、近日中に逢って話をしなければならないと、香穂子は感じていた。

 

 今夜もまたひとりだ。

 最近は、ひとりで、夜空を見上げることが多くなった。

 同時に、ヴァイオリンの練習をすることが多かった。

 梅雨も明けて、雨も降ることがなくなってきたので、ヴァイオリンを練習することが多くなってきた。

 香穂子はひとりで夜空を見ながら、切ない気持ちでヴァイオリンを弾いていた。

 誰かの気配がする。

 振り返ると、そこには吉羅が立っていた。

 艶やかな瞳で見つめられると、動けなくなる。

 眼差しに溺れたい。

 そう考えるだけで、香穂子はまだまだ深く吉羅を愛していることに気付いた。

 

 早く、一刻も早く、香穂子の元に行きたい。

 そばにいたい。

 ただそれだけだ。

 会いたくて堪らない。

 心から会いたくて堪らない。

 ずっと会えなかった。

 仕事が立て込んでいたこと。

 そして、準備に忙しくて会えなかった。

 早く準備をして、手遅れにならないように、香穂子を繋ぎ止めて置くために。

 吉羅はやらなければならないことが多かった。

 こんなにもロマンティックで素敵なことは、他にはないのではないかと思わずにはいられなかった。

 だからこそ成功させたい。

 今までは、ロマンティックだとか、正直言って考えたことなんてなかったのだから。

 ロマンティックなことなんて、自分には全く縁のない、どちらかというと、小馬鹿にしていることだった。

 だからこそ、自分自身がこんなにも情熱的になって、随分と年下のひとのために頑張ることなんて、想像することが出来なかった。

 今夜は間に合うだろう。

 香穂子に逢えるだろう。

 吉羅は逸る気持ち抑えながら、自宅へと戻った。

 香穂子は日に日に美しくなる。

 抱いてからは、益々美しくて、大人の女性になりつつある。

 本当に透明感のある美しさだ。

 同時に、儚さも感じずにはいられない。

 いつかどこかに行ってしまうのではないか……。

 そのことばかりをつい考えてしまうぐらいに、香穂子は美しく、吉羅が手を伸ばしたら消えてしまうのではないかと、思ってしまった。

 吉羅が家に入ると、透明感のある美しいヴァイオリンの音色が部屋に響いていた。

 また、ベランダで香穂子がヴァイオリンを演奏しているのだろう。

 吉羅は胸が苦しくなる程に、高まるのを感じながら、香穂子にゆっくりと近付いていった。

 苦しくて堪らない。

 風に吹かれながらヴァイオリン演奏を行う香穂子は、うっとりとしてしまうほどに魅力的だった。

 自分のものにしたい。

 自分だけのものにしたい。

 そう思わずにはいられなかった。

 

 見つめられると、本当に吉羅を愛していることを、感じずにはいられない。

 だが、もう潮時なのだ。

 吉羅から引かなければならない。

 香穂子は対峙すべきことが来たのだと、感じずにはいられなかった。

「吉羅さん、おかえりなさい」

「ただいま」

 こうして挨拶をするのも最後かもしれない。

 そう考えるだけで、香穂子は胸が苦しくなる。

 ずっと吉羅のそばにいたい。

 だが、それは決して許されることではないのだ。

「吉羅さん、お話があります」

 香穂子は覚悟を決めて、吉羅を真っ直ぐ見た。

 吉羅は目をスッと神経質に細める。

 きっと不快だと感じたのだろう。

 だが、話すしかないのだ。

 それが、香穂子のため、吉羅のためなのだから。

「吉羅さん、今まで、有り難うございました」

 香穂子は瞳に涙をしっからと浮かべながら、吉羅を見つめる。

 吉羅は更に不機嫌な顔をする。

 解っている。

 吉羅は、今まで良くしてきたのに、恩を仇で返すようなことをしている香穂子が不快なのだろう。

 だが、吉羅ならば、香穂子のような愛人は、きっと直ぐに出来る筈だ。

 だから大丈夫だ。

「吉羅さん、私は……、もうこれ以上……、愛人を続けられません……」

 香穂子は声を震わせながら呟くと、吉羅を真っ直ぐ見た。

 吉羅はかなり厳しい顔をしている。それが苦しい。

「……理由は?」

 吉羅は低い声で冷静に訊いてくる。

 恐ろしいぐらいに冷たい声だ。

 香穂子は一瞬、怯んだ。

 だが、ここできちんと伝えよう。

 伝えられなくて、後悔するよりは余程良い。

「……吉羅さんが好きだから、愛人という立場に耐えられなかったんです……。このままでは、あなたの枷になってしまうような気がするから。すがってしまうような気がするから、離れなければならないと思ったんです……」

 最後だから、香穂子は包み隠さずに呟く。

 吉羅は静かに訊いてくれている。

 それが切なくて厳しい。

 香穂子は目を伏せた。

 まともに見ていられなかった。

「解った。君の愛人契約を破棄しよう」

 吉羅はなんの迷いもないとばかりにいう。

 愛されていたなかったのだ。

 そう思った瞬間、香穂子は吉羅に強く抱き締められていた。

「愛人ではなく、本当の意味でずっとそばにいてくれ……」

 吉羅は魂の底から絞り出すかのような声で呟いた。

 



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