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吉羅の為に最高のコンサートを開きたい。 香穂子は強く想いながら、ヴァイオリンの練習を重ねる。 ヴァイオリンの勉強もあるが、この一週間はそれに集中したかった。 香穂子が使っている部屋は防音が素晴らしく、心置きなく練習が出来るのが嬉しい。 楽譜と睨めっこをしながら、ヴァイオリンと格闘する。 不意にノックが鳴り響き、香穂子は練習を中断させる。 「はい」 「日野君、少し良いかね?」 よく響く吉羅の声に、香穂子は慌ててドアを開いた。 「吉羅さん」 現われた吉羅の姿に、香穂子はドキドキしてしまう。 白いシャツに黒いジーンズ姿で、とても艶やかだ。 いつものスーツ姿も良いが、こうしてたまにしか見せないカジュアルなスタイルもとても素敵だと思う。 「気分転換をしないかね? 君はヴァイオリンにかかりきり過ぎるぐらいだからね。たまには息抜きをしなければ、良い演奏は難しいと思うよ」 「有り難うございます。嬉しいです」 「少し行ったところに、非常に美しい向日葵畑がある。行こうか」 吉羅の気遣いが嬉しくて、香穂子は幸せな気分でにっこりと笑った。 吉羅の車に乗って、のんびりとドライブをする。 こんなにもゆったりとした気分で車を乗るのは、久し振りかもしれない。 香穂子は心地好さを感じながら、助手席に甘い緊張ぎみに背中を預けた。 田園地域の夏ドライブにしては、似合わない車だとは思う。 フェラーリはスタイリッシュでアーバン過ぎる。 ここではとても浮いた存在のような気がした。 だが、それでもロマンティックなドライブだ。 横には香穂子の“王子様”…、いや、その上をいく“皇帝”がいるのだから。 夏の田園地域は本当にのんびりとしていて、とても心地が良い。 「…気分転換も良いものですね…。たまには」 「そうだね…。私の場合はここにいることが、最高の息抜きだがね…」 「ですが、吉羅さんは、ここでも仕事をされているでしょう? 休みの時まで仕事をされて、疲れないですか?」 「いつもよりも仕事はしていないよ。1日のうち、数時間程度で、後はゆっくりとさせて貰っている。心配しなくて大丈夫だ」 「…だったら良いんですけれど…。だけど、吉羅さんは本当に働き過ぎだと私は思いますよ」 香穂子が母親のような口調で言うと、吉羅は苦笑いを浮かべる。 「ここにいる間は、かなりぐっすりと眠れているからね。いつもよりも疲れも取れている。ビジネスマンは、めりはりのある生活が、成果を生むんだ。日野君、君も覚えておきたまえ。休む時は思い切り休み楽しみ自分を解放し、働く時は全力を尽くす。それだけだ。きちんと切り替えをしなければ良い仕事など出来やしないよ」 吉羅はかなり成功しているビジネスマンであるせいか、言葉には説得力がある。 香穂子は熱心に聴きながら、頷いていた。 その姿に、吉羅が優しく笑う。 「日野君、君は素直だね」 「…素直って言われても、その通りだと思うので…」 吉羅に褒められると、恥ずかしいので、香穂子は真っ赤になりながらはにかんだ。 「…そういうところが真直ぐなんだよ。君はこれからもそういった長所はしっかりと伸ばすんだ。君のとても良いところだ」 「有り難うございます」 厳しい男性だとずっと思っていた。だが、こうして褒めてくれるのが、何よりも嬉しかった。 「とにかく。君もヴァイオリニストとして、気分転換を覚えたほうが良い。がむしゃらにやり過ぎて、かえって潰れてしまうヴァイオリニストが沢山いるからね。だから程よい気分転換を覚えるんだ」 「…アドバイス、有り難うございます」 「どう致しまして。ここからは硬い話は抜きにして楽しもうか」 「はい、有り難うございます」 香穂子は車窓と吉羅の姿を交互に見つめながら、幸せな気分になる。 こんなにもじっくりと吉羅と話したのは初めてだ。 香穂子は余りにもの心地好さに、このまま時が止まってしまえば良いのにと、思わずにはいられなかった。 「日野君、もうすぐ向日葵畑だ」 「はい。楽しみです」 香穂子は背筋を伸ばすと、にっこりと笑う。 吉羅に微笑むと、いつもよりも甘い表情をしてくれたのが、嬉しくてしょうがなかった。 車は向日葵畑を通り過ぎて行く。 その見事な美しさに、香穂子は声にならない声を上げると、車窓にしがみついた。 日本では余り見ない背の高いひまわりが、夏の陽射しを一身に受けて、輝いているのが見える。 本当に綺麗だ。 太陽に向かってまるで愛を誓うかのように、ただ真直ぐと見つめている。 まるで自分のようだと香穂子は思う。 吉羅という、香穂子にとっては太陽の存在がそばにいるから、輝いていられるのだ。 「…本当に綺麗です…」 「それは良かった。だが、実際に目で見て貰うよりはずっと美しい。もうすぐ到着するから、楽しみにしておいてくれたまえ。 「はい。有り難うございます」 車は静かに減速を始めた。 向日葵畑をかなり近いところで見られるのが、香穂子には嬉しくてしょうがない。 しかも吉羅と一緒だなんて、こんなにも嬉しいことはない。 車が駐車スペースに止まると、助手席のドアが開かれた。 「有り難うございます」 香穂子は先に車を降りると、目の前に広がる見事な向日葵畑に息を呑んだ。 「…凄い…!」 思わず声を大きく上げると、吉羅はフッと微笑んだ。 「気に入ったみたいで良かった。君にとっては、良い息抜きになるだろうからね」 「有り難うございます。ここで思い切り息抜きが出来るなんて、凄く嬉しいです!」 「それは良かった」 香穂子は、向日葵に吸い寄せられるように、ゆっくり、ゆっくりと近付いていく。 こんなにも明るくて素晴らしい向日葵畑を見たのは、本当に初めてだ。 向日葵は大好きだ。 明るくて真直ぐで、ただ太陽だけを見つめている。 ふと見ると、横には吉羅がいて、眩しそうに向日葵を見つめていた。 「向日葵は本当に太陽に対して一途な花だね。太陽に向かって、真直ぐな気持ちを表すように咲いている…」 「…そうですね。羨ましいぐらいに素直な花だと思います」 香穂子は頷きながら、自然と笑顔で向日葵を見る。 「…君は向日葵のようだと私は思うがね」 吉羅の思いがけない嬉しい一言に、香穂子はうろたえてしまう。 嬉しくて恥ずかしくて、どうして良いか分からず、耳まで真っ赤にさせたままで俯いてしまった。 「あ、有り難うございます…」 吉羅がフッと僅かに笑う。 少ししか笑わなかったのに、香穂子には太陽の光よりも眩しい笑顔に思えた。 香穂子は、吉羅が太陽ならば、本当に自分は向日葵だと思える。 吉羅だけを思って真直ぐ咲き誇るのだ。 「ひまわり、本当に綺麗です。明るくて元気が良くて。だけど…、何処か切ないものも持ち合わせている…。見ていると、元気になるのと同時に、何処か胸が締め付けられるような気分になりますね」 「そうだね…」 吉羅は静かに呟くと、向日葵を見た後で、香穂子にゆっくりと視線を向ける。 吉羅のまなざしに、香穂子の胸が締め付けられる。 こんなにも切ないまなざしをする男性は、他にいないのではないかと思う。 「…日野君、気分転換と言いながらも、一曲、奏でて欲しい…。向日葵に似合う曲を」 「解りました」 無意識に持って来ていたケースからヴァイオリンを取り出すと、香穂子は演奏を始める。 映画「ひまわり」の切ないテーマ曲を。 愛していながらも、戦争という名の運命に翻弄されて身を引く女の物語。 ひまわりの切なさを象徴している。 香穂子がヴァイオリンを奏で終わると、吉羅は強く抱き締めてきた。 |