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まさか抱き締められるとは思ってもみなかった。 香穂子は吉羅の抱擁に、甘い戸惑いを感じながらも、このままでいたいと強く願う。 これほどまでに幸せで苦しい感情はないと思っていた。 香穂子が息苦しそうにすると、吉羅はハッと息を呑んで抱擁をとく。 「済まなかった…」 吉羅の低い声に、香穂子は首を横に振る。 謝らないで欲しい。 香穂子もこうして抱き締められていたかったのだから。 吉羅にしっかりと抱き締められていたかったのだから。 暫く、ふたりは顔を見ることはなく、向日葵畑をただ見つめる。 風が吹き渡り、ほんの少しだが秋の香りが漂っていた。 「…吉羅さんが先に帰られる頃には、もっと秋めいているかもしれませんね…」 「そうだね…。最後の夜のヴァイオリンコンサートを楽しみにしているよ」 「有り難うございます」 ただそれだけを、ポツリ、ポツリと話した後、お互いに黙り込んでしまう。 香穂子は胸が痛い程の切なさを感じながら、泣きそうになっていた。 暫く、胸の奥が切ないほどに痛んでいるのを感じながら、向日葵を見つめる。 「…そろそろ…行こうか。気分転換は終了だ」 「はい。有り難うございました」 香穂子が丁寧に頭を下げると、吉羅は頷く。 そのまま先に車へと歩いていってしまった。 気まずい訳じゃない。 ただいつもよりもかなりドキドキしてしまう。 まだ腕に吉羅の温もりが染み付いていて、香穂子を蕩けさせていた。 車が出ると、吉羅はようやく口を開く。 「途中で、素朴だが良いレストランがある。そこで昼食を済ませてしまおうか」 「はい」 それだけを言うと、吉羅はいつものようなクールな表情になる。 先ほどの抱擁などなかったかのように振る舞うのが、香穂子には痛い。 香穂子は吉羅をちらりと見つめる。 先ほどの抱擁は、少しびっくりしてしまったが、それでも香穂子にとっては意味のあるものだった。 とても幸せな気分になれたのだから。 だが、今の吉羅を見ていると、何処かしら後悔しているように思えた。 それが辛い。 香穂子にとってはこれほどまでにロマンティックな出来事は、他になかった。 車は、静かにレストランへと入っていく。 向日葵に囲まれた駐車場が印象的な場所だ。 レストランの中に入ると、可愛いロマンティックな雰囲気に、香穂子は再び笑顔になった。 そこでは吉羅と同じオーガニックランチを注文する。 抱き締められたすぐ後のせいか最初は緊張していたが、徐々にほぐれていくのを感じた。 「美味しいです。午後からは最高の演奏をすることが出来ます」 香穂子がほぐれた笑顔で言うと、吉羅もようやく笑みを浮かべてくれる。 「君の演奏を、私もとても楽しみにしているからね」 「はい」 吉羅のためにも最高の演奏をしたい。 香穂子はそう思いながら、ふと大切な“あしながおじさん”の存在を思い出していた。 「吉羅さん、あの…、ワイナリーでのコンサートですが、録音することは出来ないですか?」 「録音…?」 「はい。聴いて頂きたいひとがいるんですが、どうしてもこの場所に来ることが出来ないひとなんです。だから、そのひとの為にも、録音をして、それをお送りしたいんです」 香穂子の言葉に、一瞬、吉羅は柔らかな輝くような笑みを浮かべてくれる。 その笑みはとても魅力的で、香穂子は思わずじっと見つめてしまった。 直ぐに吉羅はいつもの表情に戻ってしまったが、香穂子にとってはとても甘いデザートのような笑みだった。 「解った。録音が出来るように手配をしよう」 「どうも有り難うございます」 香穂子は吉羅に礼を言いながら、あしながおじさんのことを忘れかけていた自分を反省していた。 あしながおじさんがいるからこそ、今、こうしていられるのだ。 吉羅へのふわりとした恋心に夢中になっていた自分を、ほんのりと反省する。 「…そのひとは…君にとっては大切なひとなのかね…?」 「はい。家族がいない私にとっては…、世界で一番大切な方です…。本当に心から感謝して止まないひとなんですよ。夏休みの間、この素敵なところで過ごせるようにと、手配をして下さったのも、その方なんです」 あしながおじさんの話をすると、本当に柔らかな気持ちになる。 こんなにも優しい気持ちになるなんて、思ってもみないほどに。 吉羅は、香穂子の表情をじっと見つめた後、フッと微笑む。 その笑みがとても優しかった。 デザートがやってきた。 甘いハチミツをベースにしたアイスクリームで、香穂子は笑みをこぼす。 「アイスクリーム、本当に美味しそうですよ」 香穂子が無邪気な子どものような気分で、にっこりと笑うと、吉羅は小さな子どもを見つめるようなまなざしを向けてくれる。 それがとても嬉しかった。 「…君は本当に素直だね」 「有り難うございます。素直だけが取り柄で、ここまで来たんですよ」 「そうだろうね。だからこそ…君の大切なひとも、君を大事にするのだろうと思うよ」 「そうだったら、嬉しいです」 香穂子は、自分があしながおじさんを尊敬するように、あしながおじさんも愛してくれたらと思わずにはいられなかった。 食事が終わり、ワイナリーへと向かう。 吉羅との優しい幸せを感じられる時間は、間も無く終わりを告げる。 香穂子はそれが切なくてしょうがない。 ちらりと横にいる吉羅を見つめると、先ほどの抱擁などなかったかのように、クールな横顔で運転をしているのが見えた。 本当に整っているからか、かなり冷たい印象を受ける。 吉羅にとっては、あれぐらいの抱擁など、何ともないのかもしれなかった。 ワイナリーに到着し、香穂子は車から降りる。 「有り難うございました」 「ああ。良い気分転換になったなら良かった。ヴァイオリンに励みたまえ。君にはヴァイオリンしかないのだから」 「はい」 本当にそうだ。 この掌に残っているのはヴァイオリンだけだ。 ヴァイオリンだけしか本当にない。 だからこそがむしゃらに頑張らなければならないのだ。 「…コンサートでは…、わたしが満足出来るような演奏を、是非、聴かせて貰いたいものだがね」 「頑張ります」 香穂子がキッパリと宣言をすると、吉羅は頷いてくれる。 香穂子は期待に答えるためにも、頑張らなければならないと強く思った。 香穂子と駐車スペースで別れた後、吉羅は溜め息を吐く。 「…大切な…ひと…か…」 吉羅は反芻すると、僅かに微笑む。 こんなにも強く慕って貰えるのは、手を差し延べる者として、こんなにも嬉しいものはない。 だがそれは、親を慕うのに似ていて、男としては見て貰ってはいないことをさす。 ひとりの男として、香穂子には見て欲しいと思う。 最初は、経済的な理由でその才能を潰すのは勿体ないと思ったから、手を差し延べた。 だが今は違う。 香穂子と関わることで、いつの間にかひとりの女としてかなり意識をするようになってしまった。 とうとう自分を抑えることが出来なくなって、あのように抱き締めてしまっていた。 息苦しい程の抱擁に、香穂子が驚いて息を呑まなければ、更なるものを求めていただろう。 そこは何とか踏みとどまったものの、次はもう抑える自信は全くなかった。 「…参ったな…」 あんな子どもに夢中になるなんて、今まで思ってもみなかった。 吉羅は更に恋情が燻るのを感じていた。 |