12
今日は、アンサンブル仲間との合同練習会に、朝から出掛けることになった。 香穂子にとっては、良い刺激を生むことが出来る練習だ。 彼らは心からの仲間ではあるが、同時にライバルでもある。 お互いに切磋琢磨しながら、頑張ることが出来る貴重な存在だ。 特に同級生で同じヴァイオリンの月森は、特に刺激的な相手でもある。 香穂子は、サラブレッドである月森の良い点を少しでも盗みたくて、一生懸命その演奏を聴いた。 自分にはない美点を沢山持ち合わせているから、とても勉強になった。 「月森君、あなたの演奏を聴いていたら、物凄く勉強になるよ。本当に色々と参考になる点が多いから」 香穂子が素直に言うと、月森は少し厳し目なまなざしを向けて来た。 「おれなんかを参考にしているなんて、まだまだのレベルだ。日野、お前はもっと良い演奏を聴いて勉強しなければならないだろうな。おれよりも素晴らしい演奏家はいくらでもいる。お前はもっと高みを見なければならないだろうな」 「…高み…」 香穂子にとっては、月森もかなりの高みだ。 ヴァイオリンの技倆は、プロよりも学ぶ点が沢山ある程だ。 「私は月森君の演奏が大好きだし、そこから良い点を沢山学ぼうと思っているよ」 「…そうか…。お互いに切磋琢磨することが出来ると良いな」 「うん」 同じ年頃のライバルというにはおこがましいけれど、香穂子にはかなりの刺激を与えてくれる存在だ。 香穂子は漲るやる気ににっこりと笑いながら、更に更にヴァイオリンに対して前向きでいられると感じていた。 ワイナリーに戻ると、吉羅がウッドデッキで仕事をしている姿が見えた。 秋色が僅かに滲み始めた太陽光に照らされた吉羅は、本当に魅力的で綺麗だ。 香穂子は暫くじっと見つめるしか出来ない。 不意に吉羅は香穂子の視線に気付いたらしく、顔を上げた。 「日野君か…」 「ただいま戻りました」 「練習は上手くいったのかね?」 吉羅に柔らかく言われて、香穂子はにっこりと笑う。 「良い刺激になっています。とっても。本当に。同じ年頃の同じ音楽を志すひとたちとは、とても刺激になりますよ」 「…それは良かった…」 吉羅が薄く笑ってくれたのが嬉しくて、香穂子はもっと笑みになるのを感じる。 「…本当にとても良い経験をさせて頂いています。彼らとの練習は刺激的で学ぶことも多いんです。今日は同じヴァイオリンの月森君と色々とお話をしました。やる気と前向きな気持ちを沢山貰えて、凄く有意義でしたよ」 「それは良かった」 吉羅は静かに言うと、光を見つめる。 何処か遠くを見つめるようなまなざしが、香穂子には痛い。 まるで吉羅の世界にはいる場所がないように思えてしまう。 世界の違いを見せつけられているような気がした。 「…日野君…、この風景にふさわしい曲を奏でてくれないかね?」 「…はい。喜んで」 この美しき世界にふさわしい曲。 香穂子は、迷いなくドヴォルザークの「新世界より」を選択した。 ヴァイオリンでこの曲を弾くのは、本当に大好きだ。 深呼吸をして集中をすると、香穂子は静かにヴァイオリンを奏で始めた。 気持ちが前向きになる。 とても清々しい瞬間だ。 吉羅は仕事の手を休めて、口許で指を組んで聞き入っている。 目を深々と閉じている姿がとても魅力的だった。 ヴァイオリンを奏で終わり、香穂子はちらりと吉羅を見る。 様々な良い演奏を聴き続けている吉羅にとっては、香穂子の演奏などは大したことがないと響くだろう。 だが、それでも吉羅のこころに響けば、それだけで幸せだと香穂子は思った。 吉羅は静かに目を開けると、浅く呼吸をする。 「…まだまだ技術は磨かなければならないね。君は…。…だが、技術が伴えば、君は…良いヴァイオリニストになれるかもしれない…。…まあ、それは私の希望的観測ではあるがね」 吉羅はクールに言い、決して手放しで褒めてはくれなかったが、それでも香穂子には嬉しかった。 「頑張ります。もっと! そして、いつか吉羅さんに“ブラボー”と言って貰えるようなヴァイオリニストになります」 「…ああ。期待しているよ」 吉羅は静かに言うと、再び仕事に集中を始める。 「では、私…、おばさんのお手伝いをしてきますね」 香穂子は吉羅に声を掛けた後、ワイナリーの母屋に向かう。 また一歩、夢に向かって前進が出来たような気がした。 その夜、香穂子はあしながおじさんに手紙を認める。 メール全盛の時代だが、こうしてこころを込めたものを送る時は、手書きで書きたい。 急ぐ時や、他愛ないものを書く時はメールを使うが、こうした気持ちを認める時は、手書きが良かった。 私の尊敬し親愛なあなたへ。 アンサンブル結成に向けての練習が本格的に始まりました。 みんなは忙しいので、そんなには一緒に練習することは出来ないですが、とても刺激になっています。 こうして素敵に前向きでいられることが、何よりも今は嬉しいです。 今、恐らくはあなたの知人でいらっしゃるでしょう吉羅暁彦さんが、ワイナリーに来ています。 この間は、向日葵畑に連れて行って下さいました。 本当に綺麗で癒されました。 吉羅さんには本当に感謝しています。 私に前向きさを与えて下さる方です。 来週には東京にお帰りになるのがとても残念ですが、その前日に、ワイナリーの蔵で、小さなヴァイオリンコ ンサートをすることになりました。 あなたにお聴かせしたいのは山々ですが、録音して下さるとのことでしたので、そのCDをまたお送りしますね。 楽しみにしていて下さい。 最後にこのような機会を与えて下さいまして、本当に有り難うございます。 本当に嬉しくて、仕方がない程です。 どうも有り難うございます。 残りの時間も有意義に過ぎそうです。 有り難うございます。 またお手紙とメールを致します。 香穂子 本当に大好きなあなたへ。 ヴァイオリンミニコンサートの準備は着実に行われている。 香穂子はコンサートが近付くにつれ、楽しみである気持ちと、寂しさが込み上げてくるのを感じる。 寂しさは、恐らく吉羅がいなくなってしまうことが大きい。 そばにいたい。 そばにいて欲しい。 そんな気持ちのせめぎあいに、香穂子は泣きたくなってしまう。 アンサンブルの練習と、コンサートに向けての練習。 コンサートは、本当に内輪だけで、周りのワイナリーの人々が僅かにやってくるぐらいだ。 だが、香穂子にとっては単独での初めてのコンサートであるから、かなり緊張していた。 夕食後に、吉羅やワイナリーの夫妻の前で数曲演奏するのが、良いリハーサルになっていた。 夕食後、ワイナリーの奥さんが溜め息を吐いた。 「ぼっちゃんは明後日には帰ってしまうんですねぇ…。寂しくなりますよ。こうして四人で食事をするのは、今夜でお終いですね」 余りに切なそうに呟くものだから、香穂子も泣きそうになってしまう。 「…また、こうして四人で食事をしましょう」 吉羅は落ち着いた声で、静かに言う。 本当に、またこの四人で夕食を取ることが出来たら良いのに。 香穂子は切なく思いながら、吉羅を見つめることしか出来なかった。 夕食の後、香穂子が片付けをした後で、吉羅に声を掛けられる。 「日野君、夜のドライブに行かないか? 今夜は月も星も美しいからね」 吉羅の誘いが嬉しくて、香穂子はドキドキしながら頷く。 こんなにも緊張する瞬間は他にないとすら思っていた。 |