*愛の願い*

13


 吉羅と夜のドライブ。
 これほどまでにロマンティックなことはないのではないかと、香穂子は思う。
 大好きな男性とのドライブ。
 それが香穂子にとってどれほど素敵なものかということを、きっと吉羅は気付かないだろう。
「さあ、行こうか」
「…はい。有り難うございます」
 夏のラフなサマーワンピースがほんのりと恥ずかしいが、しょうがないと香穂子は思った。
 吉羅とふたりで母屋を出て、ガレージに向かう。
 季節ごとにドライブのロマンティックさは違う。
 夏は開放的な明るいロマンティックさ、秋は深まる想いに苦しくなるようなロマンスがあり、冬は成熟した想いが温まるようなロマンティックさがあり、春は生命の煌めきが滲むような心弾むスウィートなロマンティックさがある。
 どれも吉羅と経験してみたいだなんて、何となく思ってしまう。
 そう。こんなにもロマンティックなことはないよ。なんて言いそうになる。
 香穂子は吉羅の車に乗り込み、ほんのりと緊張をしながらも開放的な明るいロマンティックを感じている。
 同時に、深まる想いをどうして良いのか解らない面もある。
 なんて素敵な、そして甘くて苦しい感情なのだろうかと、香穂子は思った。
 車が走り出し、香穂子は車窓を眺める。
 本当に無駄なものは総て排除されたような夜景。
 だがその分、夜空の美しさが際立っているような気分になる。
 本当に美しい。
 都会だと、どうしてもイルミネーションの灯で、暗い星はかき消されてしまう。
 しかも見事な人工的な光に、何処か心を奪われてしまっている節もある。
 こうして純粋に自然の灯を感じられるのが、とてもロマンティックなのかもしれない。
 しかも空が綺麗だ。
 東京や横浜の空は、人間の社会活動故に、これほどまでに美しいとは感じられないのだから。
「…窓の外を見ても、何も見えないだろう…?」
「いいえ。真の闇のなかにも光は輝いていますよ。美しい星の光が。本当に綺麗です」
「そうだね。都会にいると、つい忘れてしまうね。夜空にはこんなにも星が煌めいていることを」
「はい」
 車がゆっくりと減速し、広い野原のようなところで停まる。
「降りなさい」
「はい」
 香穂子は車から降りて息が出来ないほどに驚く。
 本当に綺麗でびっくりしてしまう。
 空からは星が落ちてきそうだ。
 だが、月は見えない。
 いつの間にか香穂子の横にいる吉羅の横顔を見上げた。
「吉羅さん、とても星は綺麗ですけれど、月は見えませんが…」
 こんなにも綺麗に澄み渡った夜空なのに、月の瞬きを感じることが出来なくて、香穂子は不思議に思った。
「月は出ているよ。ただし今夜は新月なんだ。生まれたての月だから、見えないよ。…ただ新月は、願い事を叶えてくれると言われているよ…。君の願いを叶えてくれるかもしれないね。何か願い事はあるかね…?」
「…願い事…」
 香穂子は反芻しながら夜空を見上げる。
 新月が願い事を叶えてくれるなら、願いたいことは幾つもある。
「…欲張っても構わないそうだよ。むしろひとつはダメらしい…。後、自分のことでないとダメらしいよ」
 吉羅の言葉に、香穂子は微笑む。
 多少欲張るならば、願い事をするのは簡単だ。
 ヴァイオリニストとしての更なる向上。
 プロのヴァイオリニストになること。
 ヴァイオリニストとしての演奏に幅を広げる。
 吉羅への想いの成就。
 そして吉羅とずっと一緒にいたい。

 なんて贅沢三昧な願い事だろうか。
 だが、叶うと言われているのならば、少し乗っかってみたいとも思う。
「願い事は決まったかね?」
「はい。決まりました。しっかりとお願いをします」
「それは良いことだね」
 吉羅はフッと微笑むと、香穂子を見つめる。
「吉羅さんも願い事はありますか?」
「…そうだね。私も幾つか願うかな…」
 吉羅は優しいまなざしを夜空に向けると、ポツリと甘い声で呟いた。
 まるで恋の願いでもあるかのような、表情と声だ。
 吉羅にこのような顔と声をさせる誰かさんが羨ましくて、香穂子はほんのりと嫉妬を感じていた。
「だったら一緒にお願いをしましょう」
「そうだね」
 ふたりで並んで同じ月を眺める。
 同じ願いではないだろうが、同じように願い事をするのが、とても嬉しかった。
 香穂子はこころが澄み渡るのを感じながら深呼吸をし、ゆっくりと願う。
 吉羅のこと。
 ヴァイオリンのこと。
 触れ合うことも何もない瞬間だが、うっとりとするほどにロマンティックだと、香穂子は思った。
 本当にこれ以上にロマンティックはないのではないかと思う程だった。
 願い事が終わった後、香穂子は夜空の星を見る。
「本当に綺麗です…。お月様も大好きだけれど、私は夜空の星も大好きです。やっぱり自然の美しさに敵うものはないんですね」
「そうだね…」
 暫く、ふたりで空を見上げる。
 この時間がいつまでも続けば良いのにと、思わずにはいられなかった。

 再びワイナリーに向かう。
 香穂子は吉羅の車に揺られながら、きっとこの瞬間を忘れないと思った。
 本当にロマンティックで、こころが豊かな気分になる。
 夜のドライブというよりは、何処か天体観測に近いかもしれない。
「今夜は有り難うございました。本当に素敵な経験をさせて頂きました。有り難うございます」
 香穂子は言葉では伝えることが出来ないと想う程に、吉羅には感謝している。
 だが言葉でないと想いは伝えられないから、自分の言葉で出来る範囲のことを伝えた。
「…それは良かった。私も、君とこのような時間を持てて嬉しいと思うよ」
 吉羅の言葉に、香穂子も思わず笑みをこぼす。
 同じ空間を同じ想いでシェア出来たのが、嬉しくてしょうがなかった。
 車はゆっくりとガレージに入り、束の間の幸せな逢瀬は終わりを告げる。
「着いたよ、日野君」
「…有り難うございました…」
 吉羅ともう少しだけ一緒にいたい。
 だが、それは叶わない夢だ。
 香穂子は諦めるように溜め息を吐くと、そっと車から降りた。
「おやすみ、日野君」
「おやすみなさい、吉羅さん」
 香穂子は、遊園地の帰りのような失望感を感じながら、母屋に入っていった。
 明後日の早朝には、吉羅は東京に向かってしまう。
 吉羅がいなくなる。
 それだけでこの先をどうして良いかが分からなくなっていた。
 香穂子はシャワーを浴びながら、切なくて涙が零れるのを感じる。
 吉羅にはまた逢えるのに、何だか二度と逢えないような気分になった。
 香穂子は溜め息を吐くと、バスルームから出てベッドに倒れ込む。
 そのままベッドに入っても、胸が痛くて何も出来なかった。

 翌日。
 吉羅のためのフェアウェルパーティの準備で、ワイナリーは大忙しいだった。
 内輪のパーティだと思っていたのだが、近くのワイナリーのオーナーなどを招待しているせいで、かなりの規模になっていた。
 ワイナリーの貯蔵庫ならばそれぐらいの人数は入ることが出来るからだろう。
 大勢の前で演奏するのはかなり久し振りで、香穂子は緊張してしまう。
 手伝いをして気分を紛らわそうとしたが、それも出来ない。
 ヴァイオリニストには、今日は一切手伝わせないというのが、ワイナリーの奥さんの方針だった。
 せめてテーブルの準備をしたいと申し出て、何とか認められた。
 香穂子はテーブルのセッティングをしながら、緊張を紛らわそうするが、上手くいかない。
 何とか緊張を紛らわそうと頑張ったが、徒労に終わってしまった。



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