15
パーティが終わり、吉羅はずっと一緒にいた女性を送りに行ってしまった。 女性を送った人物が帰ってしまったからなのだが。 折角、話をすることが出来ると思っていたのに、それは叶わなかった。 香穂子は、パーティの後片付けをした後、お風呂に入る。 明日の朝、吉羅が早く行ってしまう。 それまでに話をすることが出来るのかと、香穂子は考える。 答えは否だろう。 吉羅は、香穂子に何も話す事なく出ていってしまうのだろう。 それが泣きたいぐらいに辛かった。 泣くつもりなんてなかったのに、つい瞳に涙を滲ませてしまう。 いつの間にかポロポロと涙を零していた。 こんなにも好きだ。 どうしようもないほどに吉羅が好きでしょうがない。 今までにないぐらいに好きな男性だ。 この生身を引き裂かれるような痛い気持ちを、香穂子はどうして良いかが分からなかった。 お風呂から上がり、ぼんやりとする。 全く眠れないと思っていたのに、意外にも、寝付けてしまった。 恐らくはくたくただったからだろう。 香穂子は夢の世界に漂っていた。 吉羅のことばかりを切ない程に考えていたからだろうか。 吉羅の夢を見た。 何故か、いばら姫のようにベッドに寝かされていた。 そこに何故かスーツを着た王子様、吉羅が現われる。 香穂子の寝顔をじっと見つめた後で、そっと触れるだけのキスをしてきた。 少し硬くて潔癖な感じがする、やけに生々しい唇の感触がする。 なのに余りにロマンティックで、香穂子は甘いふわふわとした幸せに溺れていく、。 あんなにも切ないことがあったから、神様が気の毒に思って見せてくれた夢なのだろうか。 香穂子はいつまでもこの世界に溺れていたかった。 たゆたゆと夢の世界に漂っていると、遠くから車のエンジンの音が聞こえる。 香穂子はハッとして目を開けて飛び起きる。 直ぐに窓のカーテンを開けると、吉羅の愛車であるフェラーリが走り去るのが見えた。 涙がこぼれ落ちた。 唇が不意に疼く。 なんてリアリティな夢だと思わずにはいられなかった。 吉羅が帰ってしまって、香穂子もワイナリーの管理人夫妻も、こころに穴がぽっかりと空いてしまったような気分だった。 吉羅が座っていた席をつい見つめては、こころの中で溜め息を吐いてしまう。 それはワイナリーの夫妻も同じことだった。 香穂子はなるべく彼らが笑顔でいられるようにと、明るく振る舞ったり、ヴァイオリンを聴かせたりする。 自分に出来ることと言えば、それぐらいしかないと、香穂子は思っていた。 夏が黄昏ていく。 練習を重ねてきたアンサンブル仲間は、誰もが帰京していく。 今日が夏休み最後のレッスンだ。 土浦とふたりだけ。 土浦もまた明日には帰ってしまうのだ。 香穂子がピアノに合わせてヴァイオリンを奏でていると、土浦は驚いたように頷いた。 「…日野、お前、またステップアップしたんじゃないのか? 以前に比べて技術的もそうだが、ヴァイオリンに情緒がついたというか…。まあ、どう表現して良いかが、俺にはよく解ってはいないが、凄く、良い音だと俺は思っている…」 「有り難う。そう言って貰えると、物凄く嬉しいよ。本当にどうも有り難う」 香穂子がにっこりと微笑むと、土浦は何処か照れたような笑みを浮かべる。 土浦にそう言って貰えて、香穂子はかなり嬉しかった。 またひとつ階段を確実に昇れたような気がした。 この夢行き階段を。 これでひとりで練習する日々に入る。 ヴァイオリンと宿題をする日々のせいか、いつも以上に余裕が生まれていた。 香穂子はギリギリまでここに止まり、ヴァイオリンを練習するつもりだ。 あしながおじさんへの手紙も、吉羅と過ごしていた時よりも頻繁に書くことが出来るようになっていた。 私の親愛なる方へ。 山梨はもう秋の匂いがかなり漂ってきました。 赤とんぼを見るようになってきたんですよ。 朝晩、かなり涼しくなったので、とても過ごしやすくなりました。 ヴァイオリンの練習も捗っています。 この間、仲間と最後の夏休み練習をした時に、音が情緒的になって進化をしたと言って貰えました。 とても嬉しかったです。 いつか、あなたの前で演奏をする機会があれば、最高の演奏をお届けしたいと思っています。 それまでは一生懸命練習に明け暮れたいと思っています。 いつか、ヴァイオリンを生でおきかせしたい。 その時は、どうか聴いて下さいね。 秋色を湛え始めた今宵の月はとても綺麗です。 同じ月をあなたさまも見ていますように。 では、また。 香穂子 手紙を認めながら、香穂子はほっこりと優しい気分になるのを感じる。 柔らかな気持ちがこころを満たして、何とも言えない幸せな気分になった。 吉羅は香穂子からの手紙を受け取った後、甘く柔らかな幸せに満たされた。 もし自分が香穂子の“あしながおじさん”だと知ったら、あの真直ぐな向日葵のような娘は、どう思うだろうか。 そんなことを考えてしまう。 吉羅は、“音が情緒的になった”というフレーズが気になり、ワイナリー夫妻に電話を入れてみることにした。 「もしもし、暁彦です」 「まあ!ぼっちゃん!」 ぼっちゃんというフレーズには、些か苦笑いをしてしまうが、夫妻にとっては、吉羅はいつまでも子どもなのだろう。 「日野君はいかがですか?」 「香穂子ちゃんは本当に良い娘さんですよ。お手伝いもしてくれ、その上、ヴァイオリンも聴かせてくれたり…。本当に楽しい時間を過ごさせて貰っていますよ!あ、ヴァイオリンもしっかり練習をしていますよ。最近は、音が変わったというか、更によくなっていますね。艶が加わったというような…。彼女も年頃ですから、恋をしていてもおかしくはない年頃ですからね」 「確かにそうですね…」 香穂子が誰かに恋をしている。 これほどまでに痛い事実は他にないのではないだろうか。 吉羅は胸が痛むのを感じる。 同時に、自覚をするしかなかった。 香穂子に恋をしていることを。 新学期が始まる二日前、香穂子は学院に戻った。 本当にギリギリまでワイナリーでお世話になってしまった。 本当に泣きたくなるぐらいに素敵な夏を過ごして、香穂子はワイナリーの夫妻と、駅でしっかりと抱き合って別れた。 「冬休みにまたいらっしゃい。待っているからね」 「はい、有り難うございます」 今年の夏休みはなんて有意義だったのだろうかと思う。 こんなにも素晴らしい夏は初めてだったかもしれない。 学院に戻ると、山梨とは違って、茹るような暑さで驚いてしまった。 まだ熱いシーズンは続く。 アンサンブルはこれからなのだから。 香穂子は気合いを入れて、新学期へと臨む。 頑張れる。 沢山の人々から沢山の元気を貰ったから。 私の大切なあなたへ。 山梨から無事に学院へと戻って参りました。 本当に沢山の大切な想い出を作ることが出来ました。 あなたさまには感謝しています。 楽しくて成長が出来た時間でした。 本当に嬉しく、楽しい時間でした。 有り難うございます。 こんなにも素晴らしい時間を提供して下さいまして、心から感謝しています。 本当に嬉しかったんですよ。 あなたには感謝しか出来ないです。 有り難うございます。 これ以上ない夏休みでした。 明日から新学期です。 先ずはアンサンブルを頑張ります。 前向きに走って行こうと思います。 見守っていて下さい。 香穂子 |