*愛の願い*

16


 アンサンブル中心の生活が始まる。
 楽曲もほぼ固まってきて、担当の曲も決まりつつある。
 後は楽譜をしっかりとやりこむだけだ。
 担当教師である金澤も、いつもの飄々とした態度ではなく、きちんと親身になって指導をしてくれた。
 香穂子は、ヴァイオリンに夢中になる余りに、時間が気にならなくなっていた。

 吉羅は久々に理事長室に顔を出し、金澤を呼び出した。
 理事長としての実務をしっかりとこなしてはいるが、学院にある理事長室には余り顔を出さない。
 これは他の職務のほうが多忙を極めるのにほかならない。
「金澤さん、アンサンブルの様子は如何ですか?」
「ああ。完成度はかなり高くなっている。この分だと、良いところが狙えそうだ。チームワークも良くなっているからな、それもある。あいつらは、夏休みに一緒に練習したことで、かなり結束が固くなっているからな」
「それは良かったです。…で、日野君は…」
 吉羅は一番訊きたかったことを、何でもないことのようにさらりと訊く。
「日野か? あいつはかなり良くなっているのは確かだ。最近、音に艶が出てきたというか…、好きなヤツでもいるんじゃないか、なんて思っちまうけれどな」
 金澤は煙草を吸いながら、何処か寂しそうに言う。
「…恋…ですか…」
「…そう…。あれは多分な…。若いって良いよなー」
 金澤が眩しそうに言うのを聞きながらも、吉羅の心情は穏やかではなかった。
 香穂子が誰かに恋をして結ばれるなんて、本当は我慢ならない。
 我が儘な感情なのは解ってはいたが、それでもこの想いを抱かずにはいられなかった。
「…まあ、日野も、頑張っているからな。お前も安心だろう? このアンサンブルは、あいつが欠かせない軸になっているからな。あいつがいるからこそ、あのチームワークが生まれたんだろうけれどな」
 金澤が関心するように頷くのを横目で見ながら、吉羅はじっと考え込んでしまう。
 香穂子の恋の相手は、アンサンブルのメンバーだろうか。
 それは充分に有り得ることだ。
 香穂子ならば。
 吉羅はそのことばかりが頭にぐるぐると回り、金澤の他の報告が全く耳に入らなかった。

 アンサンブルの練習を終えた後、香穂子は更に楽譜の習熟度をアップさせる為に、ひとりで練習を重ねる。
 6時近くになるとかなり薄暗くなってきた。
 香穂子は紫の夕闇に染まりながら、ヴァイオリンを奏でる。
「…こんな時間まで熱心だね、君は」
 低くよく通る艶のある声に、香穂子は思わずヴァイオリンを止めた。
「吉羅さん…!」
 顔を上げると、そこには吉羅暁彦がいる。
 逢うのは一月振りだ。
 ずっと逢いたいと思っていたせいか、涙が出てしまういそうになるぐらいに嬉しかった。
「こんな時間まで熱心なことだ。寮に帰らなくても良いのかね」
「あ、そろそろ帰ります。寮の練習室で、また練習をしなければならないですから」
 時計を見て頷くと、香穂子はヴァイオリンを片付けた。
「吉羅さんは学院に用事で見えられたんですか?」
「少し野暮用でね。だが、また仕事に戻らなければならないがね」
 吉羅はさらりと言うと、香穂子の横をすり抜けていく。
 本当に香穂子なんて興味はないと言わんばかりだ。
 解っている。
 吉羅は香穂子に興味がないということぐらいは。
 あの夏の出来事は、本当に奇跡と言っても良かったかもしれない。
「あ、あのっ! ま、またヴァイオリンを聴いて下さい」
「…今度、総合文化祭の時にでも機会があれば聴かせて貰おう。では」
 香穂子がいかに強く懇願するように言っても、吉羅には全く通じなかった。
 それが辛い。
「待ってますから…」
 香穂子は幾分か元気を無くしてしまい、小さく呟いてしまう。
 吉羅は何も反応することなく、ただ背中を向けたまま歩いていってしまった。
 吉羅ともう少し話したかった。
 一緒にいたかった。
 なのに吉羅は行ってしまう。
 香穂子にはそれが切なくてしょうがなかった。

 自分のキャリアのステップアップをするためにも、吉羅にきちんと認めて貰うためにも、しっかりと頑張っていかなければならない。
 香穂子はひとりになり、唇に指をそっとあてがう。
 本当にリアルな夢だった。
 吉羅の唇の感触まで、生々しいぐらいに覚えている。
 なのに、あんな態度を取られている以上は夢なのだろう。
 それ以上も以下もない。
 ならばヴァイオリニストとして認めて貰いたい。
 それで少しでも吉羅に近付けるのならば、それで構わなかった。
 吉羅への恋心を、そしてあしながおじさんへの想いを音に滲ませて、香穂子はヴァイオリンの音に厚みを与えていく。
 これには驚く程の効果があったのか、音楽教師やアンサンブル仲間たちが、香穂子の飛躍に驚いてしまっていたようだった。

 レッスンを重ね、アンサンブルを重ね、とうとう総合文化祭の当日を迎えた。
 全国各地から精鋭が集められているから、油断出来ない。
 自分達存在を知らしめ無ければならない。
 アンサンブルメンバーは、誰もが気負っているように思えた。
「頑張りましょう。ここで良い演奏が当たり前だなんて気負いは、全部棄ててしまおうよ。ただ演奏が出来ることを楽しもう」
 自分自身でも多少の気負いは持ってはいたが、香穂子はあえてそれを隠そうと努力をした。
 言葉にしたことは本当の気持ち。
 あしながおじさんがいなければ、香穂子はヴァイオリンを諦めなければならなかったのだから。
 香穂子の一言に、誰もが緊張を崩してくれたのか、笑顔が見られるようになってきた。
 これで大丈夫だ。
 自分達はきっと最高の演奏を聴かせることが出来る。
 そしてこの音は、今回もきちんと録音をして、あしながおじさんに送るのだ。
 このアンサンブルの演奏を、あしながおじさんにも伝えることが出来るのが、香穂子には嬉しかった。
「星奏学院様、出番です」
「…はいっ!」
 香穂子は背筋を伸ばして、ゆっくりとステージに立つ。
 客席に吉羅が座っている姿が見える。
 その横には、ワイナリーのパーティに来ていた女性がゆったりと腰を下ろしていた。
 胸にナイフが突き刺さったような痛みが、奥深いところから込み上げてくるのが解る。
 涙が滲むほどに痛んだ。
 こんなことで動揺してはならないと香穂子は自分に言い聞かせると、静かにヴァイオリンを奏で始めた。

 今日の香穂子は本当に美しかった。
 誰にも渡したくない等と思ってしまうほどに綺麗だ。
 それが誰かに恋をしているとしか思えないほどに輝いている。
 誰にも渡さない。
 吉羅は、言い表すことが出来ない程の嫉妬を感じていた。
 ステージにいる香穂子にしか、最早、視線を向けてはいない。
 静かに演奏が始まる。
 金澤からアンサンブルの完成度が高いと聞かされてきたが、まさかこれ程までのものだとは、吉羅も思ってもみなかった。
 特に香穂子が奏でる音が、誰よりも美しい。
 抜きに出た清らかさを湛えており、吉羅は耳を澄ませて聞き入った。
 香穂子の音を聴いているだけで、かなり癒される気分になる。
 他校に比べても、学院生たちの演奏は群を抜いていた。
 吉羅は頷くと、これならば何処に出しても恥ずかしくない。
 それどころか、香穂子たち以上の演奏をする者は他にはないと思っていた。
 特にヴァイオリンソナタが素晴らしい。
 こんなにも厚みのある音を奏でられるとは、思ってはいなかった。

 演奏が終了した瞬間、香穂子たちはスタンディングオベーションで迎えられる。
 嵐のような喝采と喜びのなかで、吉羅は帰ってしまい、その評価を聞くことが出来なかったのが、残念だ。
 みんなで喜んだ後、楽屋に戻ってみると、カサブランカの百合の花束が香穂子宛てに届いていた。
 名乗らないひと。
 それがあしながおじさんだと直ぐに解り、香穂子は花束に埋もれながら泣きじゃくった。



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