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ワイナリーの奥さんに着付けて貰い、香穂子は振袖を着る。 振袖なんて、もう着る機会などないと思っていたから、純粋なぐらいに嬉しかった。 「さあ出来ましたよ、着付けは。後はほんの少しだけ化粧をしましょうか。あなたならよくお似合いだから」 「有り難うございます」 香穂子を座らせると、手早く和服用に髪をアップしてくれ、ほんのりと化粧をしてくれる。 吉羅が久し振りにそばにいるからこそ、綺麗でいたいと思う。 吉羅に綺麗だと褒めて貰いたかった。 「さあ出来上がったわよ! 本当に綺麗だわ」 うっとりとするような声で奥さんが言うものだから、香穂子は恥ずかしくてしょうがなかった。 「さあ、みんなでささやかなお正月をしましょうか」 「はい。有り難うございます」 香穂子は、奥さんと一緒にダイニングに向かう。 すると既に主人と吉羅が席に腰を下ろしていた。 「あけましておめでとうございます、皆様」 香穂子が深々と頭を下げると、吉羅はほんの少しだけ冷静なまなざしを向けてきた。じっと見つめられて、胸が苦しい。 「あけましておめでとう」 吉羅の余りにも素っ気のない態度に、香穂子は自信を無くしてしまう。 恐らくは振袖姿を気に入らなかったのだろう。 そう思うと、こころに力が入らなくなるのを感じていた。 「さあ、お節料理とお雑煮を食べましょうか?!」 「はい、有り難うございます」 香穂子はほんのりと苦しい胸の内が切なかった。 お節を食べ終わり、香穂子は振袖の写真を撮って貰うことにする。 「大切なひとにこの姿を見せたいんです。なるべく綺麗に撮って下さい。…図々しいかもしれませんが…」 「あいよ」 奥さんはデジタルカメラを取り出すと、香穂子を何枚も撮ってくれる。 それが香穂子には嬉しかった。 「こんな感じになったよ」 デジタルカメラで撮った写真を確認しながら、香穂子は嬉しくなる。こんなにも嬉しいことは他にない。 「この写真を現像して送りたいんです。大切なひとに喜んで貰いたいんですよ」 ほんのりと温かな気持ちになりながら、香穂子は笑顔で言う。 今、香穂子にとっては、大切な家族と同じような気持ちを抱いている。 「…じゃあ綺麗にして現像をしなければならないね。任せておいて」 「有り難うございます」 香穂子が笑顔で言うと、奥さんは笑顔で頷いてくれた。 「その格好で一日を過ごすのは勿体ないだろうから、ぼっちゃんと出掛けてきたらどうかね」 主人が微笑みながら香穂子に言ってくれるのが嬉しくて、期待を込めて吉羅を見る。 「じゃあ行こうか」 吉羅の言葉が嬉しくて、香穂子は笑顔で頷いた。 「おばさんたちは」 「私たちはゆっくりとしておくよ。ぼっちゃんの誕生日が明後日だからね、前倒しのお祝いの準備をしなければならないしね」 「…え…?」 吉羅の誕生日が一月三日だなんて、香穂子は全く知らなかった。 驚いて顔を上げると、吉羅は涼しい顔をする。 「…明日の夜遅くにはこちらを出なければならないからね、バースデイをここでは過ごせないから言わなかっただけだよ」 吉羅は涼しげに言ったが、香穂子は切なくなる。 バースデイだと解っていたならば、プレゼントを事前に用意をしたというのに。 「…さあ行こうか。散歩といっても、少しドライブをするぐらいだが、構わないかね?」 「はい。有り難うございます」 香穂子はそれでも、最高の晴れ着を着て吉羅のそばにいられるのが嬉しかった。 吉羅の車に乗り込み、ゆっくりとドライブをする。 「富士山が見渡せるところがあるんだよ。そこに行こうか」 「はいっ! お正月といえば、富士山ですよねっ!」 香穂子が笑顔で言うと、吉羅も僅かだが笑顔になってくれる。 それが嬉しい。 「さあ、行こうか」 「はい。有り難うございます」 吉羅とならただ一緒にいるだけで飽きない。 こうして何も話さなくても、一緒にいるだけで幸せだった。 「吉羅さん、何だか沢山プレゼントを頂いたみたいです。有り難うございます」 香穂子は本当にそんな気分になった。 やがて車はとっておきの風景を見せてくれる場所に向かう。 「ここからの富士山が最高に綺麗に見えるんだよ」 「嬉しいです。こうして吉羅さんと富士山を見ることが出来るのが…」 「それは何よりだ」 吉羅はフッと微笑むと車を静かに停めた。 「日野君、降りたまえ」 「はい」 吉羅に促されるままに、香穂子は車から降りる。 目の前に広がる景色を見るなり、香穂子は思わず息を呑む。 「なんて綺麗…」 富士山をこのような雄大なアングルで見たことは、未だかつてなかったことだ。 本当に美しくて、香穂子は目を奪われる。 雪で頂きを化粧する富士山は、涙が滲むぐらいに美しかった。 澄んだ青空が輝きに命を吹き込んでいる。 「本当に綺麗です…」 「私も最近はここに来てはいなかったが、こうして見ると美しいものだね。君のおかげで美しいものを見られた」 吉羅とこうして同じ感動を共有しているのが嬉しい。 香穂子はいつまでも見つめていたくなった。 「少しこのあたりを歩こうか。折角だからね」 「はい」 振袖を着て足下がおぼつかないからか、吉羅はごく自然に手を握り締めてくれた。 さりげない心遣いが、とても嬉しい。 吉羅としっかり手を繋いで歩くのは、何だかデートをしているようで、嬉しくてしょうがない。 こうして一緒に歩くことが出来るのが、嬉しい。 「こうしてお散歩が出来るのが、とても嬉しいです」 「私も休みの良い気分転換になったよ。有り難う日野君」 ふたりでこうしているだけで、蕩けてしまう程に幸せだ。これ以上の幸せな瞬間は、他にないのではないかと思ってしまう。 富士山を見て、吉羅を見て、ただそれだけで楽しくて、嬉しい。 香穂子は、とても素晴らしい一年になることを予感していた。 ふたりでぶらぶらと歩いた後、再び車に戻る。 短いランデブーが終わり、後には幸せの余韻とほんのりと寂しい気持ちに包まれた。 ワイナリーに戻り、振袖を脱ぐ頃には、魔法が解けたような気分になる。 素敵な魔法。 切ないシンデレラのような気分になった。 豪華な夕食で楽しくお正月を楽しんだ後、香穂子は吉羅のバースデイのことを考える。 出来ることといえば、ヴァイオリン演奏とバースデイカード、そしてちょっとしたお菓子を作るぐらいだ。 お店が開いていないのだからしょうがない。 吉羅の誕生日を知ることが出来て、それだけで嬉しいのだから。 翌日、夜に出発をする吉羅の為に、香穂子は甘さを控え目にしたレアチーズケーキを持ちやすい大きさで 作り、バースデイカードを添えたささやかなプレゼントを用意した。 勿論、少し早目のディナータイムの為に、奥さんの手伝いをしたのは言うまでもない。 吉羅の為にとっておきのプレバースデイを用意してあげたかった。 ディナータイムになり、香穂子はとっておきのワンピースを着て、ヴァイオリンを片手に席に着く。 今、自分が出来る精一杯のことをしたかった。 「では、吉羅さんのバースデイに、シンプルに“ハッピーバースデイ”を」 香穂子は背筋を伸ばすと、大好きな男性のために“ハッピーバースデイ”を演奏する。 あなたが生まれてきて有り難うと、想いを込めて。 吉羅に出会えた奇跡を、香穂子は感謝せずにはいられなかった。 |