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“ハッピーバースデイ”の演奏が終わった後、吉羅は暫く沈黙を保っていた。 気に入って貰えなかったのではないかと思い、ドキドキしてしまう。 喉がからからに渇いてしまうと感じるほどに、香穂子は緊張していた。 吉羅はフッと笑顔になると、拍手をしてくれる。 僅かに浮かんだ吉羅の笑みに、香穂子はホッと胸を撫で下ろした。 「有り難う。とても良い演奏だったよ」 「嬉しいです。こちらこそ有り難うございます」 香穂子は、吉羅が喜んでくれて本当に嬉しいと思う。 誕生日とは、その日に生まれたひとのめでたいアニバーサリーであるけれども、本当はお祝いをするひとのためにあるのではないかと思う。 こんなにも幸せだからだ。 お祝いをすることで、幸せでしょうがない気分にさせてくれるからだ。 吉羅が喜んでくれるだけで、香穂子にとっては幸せなのだ。 「吉羅さん、これ、もし途中でお腹が空いたら、召し上がって下さい」 香穂子は一生懸命作ったレアチーズケーキを、おずおずと吉羅に差し出す。 「有り難う」 吉羅に御礼を言って貰えるだけでこんなに嬉しいとは思わなかった。 吉羅は香穂子が手渡したパッケージを丁寧に鞄の中に片付ける。 タイムリミットらしく、吉羅は時計を見ると立ち上がった。 「そろそろ失礼します。良い正月を過ごさせて貰いました。有り難うございます」 吉羅は挨拶をすると、静かにバッグを手に取る。 その瞬間がたまらなく切なかった。 吉羅を車を置いているところまで送っていく。 今にも泣きそうな気分を、香穂子は必死になって堪えた。 「…吉羅さん、また横浜で」 「ああ。また横浜で逢おう」 吉羅はあっさりと言うと、別れを惜しむことなく、そのまま車に乗り込んでしまう。 今夜立つということは、明日のバースデイは大切な女性と過ごすということなのだろう。 痛い。 だけど自分には泣きわめく資格なんてないのだ。 泣くなんて行為は出来ない。 香穂子は笑顔で吉羅を見送ることしか出来なかった。 吉羅はバックミラーを見ながら、香穂子が見えなくなるまで見送ってくれるのを見つめる。 正月の二日だけでも無理をして来たかいがあったと思う。 香穂子の美しい晴れ姿を見ることが出来たのだから。 本当に、逢う度に香穂子は大人になっていく。日に日に美しくなっていくのを感じる。 香穂子をこのまま腕の中に閉じ込めたくなる衝動にかられた。 だがそれは許されないことだ。 香穂子はまだ高校生なのだから。 このまま奪い去りたいと思うなんて、今までなかったことだった。 吉羅は香穂子が見えなくなると、落胆の溜め息を吐いて、ゆっくりと姿勢をただす。 明日からはまた仕事に情熱を注がなければならない。 香穂子と過ごした時間が、吉羅に活力を与えてくれる。 それが嬉しかった。 六本木の自宅に到着したのは深夜を回っていた。 吉羅は部屋に入り、香穂子からのプレゼントをそっと開ける。 入っていたのはレアチーズケーキ。 甘いものを余り食べない吉羅に気遣ってのことなのだろう。 吉羅はフッと優しい気分になって微笑むと、レアチーズケーキを一口食べる。 優しい甘さが疲れた躰を癒してくれる。香穂子のこころが沢山詰まっているような気がして、嬉しかった。 本当に最高のバースデイプレゼントだ。 まるで香穂子と同じように優しくて甘いケーキ。 吉羅はそれをまた一口食べた。 吉羅がいなくなってしまい、香穂子は楽しいがほんのりと喪失感のある日々を過ごす。 やがて冬休みが終わり、新学期が始まるギリギリ前で横浜へと戻った。 そこからは授業に集中する日々が続いた。 吉羅にも逢えない日々が続く。 そのような状況のなかで、あしながおじさんへの手紙は、香穂子を確実に癒してくれた。 返事は全くといってなかったが、お正月の晴れ着を送ったり、世間話を書いた手紙を送付するのが、ほんのりと幸せだった。 私の大切なあなたへ。 このお正月も、ワイナリーで楽しい日々を送ることが出来ました。 本当に美しい富士山を見たり、晴れ着を着たり…、ヨーロッパ風のクリスマスを体験したり…。 本当に楽しかったです。 このような楽しい経験をさせて頂いて、本当に感謝しています。 嬉しくて、楽しくて、言葉では言い表すことが出来ない程に、楽しかったです。 どうも有り難うございます。 お正月に着せて下さいました振袖写真をお送り致します。 少し恥ずかしいですが…。 ではまたお手紙をします。 香穂子 世間は恋する乙女の大切なイベント、バレンタインデーへと向かう。 香穂子がチョコレートを贈るのは、あしながおじさん、アンサンブル仲間、ワイナリーの主人。そして吉羅にも贈りたいと思う。 だが、どのようにコンタクトを取って良いのかが、全く分からなかった。 香穂子は、あしながおじさんとワイナリーの主人にはドライフルーツケーキにチョコレートのコーティングをしたものを作り贈る。 吉羅には特別な想いを抱いているせいか、ビターなチョコレートケーキを作ってみた。 甘いものが苦手な吉羅でも食べられるようにと、こころを込めて作る。 だが、このケーキをどのように渡して良いかが解らない。 それに吉羅に渡したところで、どうにもならないというのに。 恐らくは子どもの戯言だと思うに違いない。 渡したいのに渡せない。 どうして良いかが解らない。 香穂子は本当にどうして良いかが分からなくて、誰に相談して良いのかが分からなくて、あしながおじさんに一方的な手紙を書いてしまっていた。 私の大切なあなたへ。 もうすぐバレンタインですね。 バレンタインのチョコレートケーキをお贈りします。 召し上がって頂けると嬉しいです。 大好きなひとにチョコレートを渡す習慣って、何だかとても素敵だと思います。 大切なあなたと同じぐらいに大切な方がいます。 その方にチョコレートケーキをお贈りしたいんですが、どうやって渡して良いかが分かりません。 私はその方と逢う術が分からないのです。 住所も何もかもが解らない。 分かるのは名前だけなのです。 そう考えたら、何だかあなたみたいですね。 どうしたら渡すことが出来るのかが分からなくて、とうとうあなたに訊いてしまいました。 お返事がないのは解っているくせに、つい訊いてしまいました。 何だか近況ではなく、悩みを書いているようですね。 またお手紙します。 もうすぐ最上級生ですよ。 何だか信じられません。 では、また。 バレンタインデーに吉羅が目の前に現われる訳などないと思っていたのに、神様が味方をしてくれたからか、なんと吉羅が学校の中庭を歩いているのが見えた。 「吉羅さん」 慌てて声を掛けると、吉羅が足を止めてゆっくりと振り返る。 「どうしたのかね? 日野君」 「あ、こんにちは、あ、あの…」 吉羅がいつものようにクールだから、何も言えなくなる。 だが、ここで何もアクションを起こせなければ、吉羅にチョコレートケーキを渡せない。 「…あ、あの、渡したいものがありまして…」 「…渡したいもの…?」 吉羅は不思議そうに眉根を寄せる。 「いつもお世話になっているから…」 受け取っては貰えないかもしれない。 だが、香穂子は覚悟を決めてチョコレートケーキを手渡した。 「有り難う…。受け取るよ」 吉羅は低く甘い声で言うと、しっかりとチョコレートケーキを受け取ってくれる。 「時間がないからこれで失礼をするが、何かの機会でお返しをさせて貰おう。ではまた」 吉羅はクールに言うと、静かに立ち去る。 その後ろ姿を見つめながら、香穂子はこころが温かくなるのを感じた。 |