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音楽学部受験のための体勢に入った。 香穂子はヴァイオリンの技術に磨きをかけたり、音楽の知識を詰め込んだりと、かなり忙しい。 ヴァイオリン漬けの日々が続いている。 香穂子にとってはそれでも嬉しい。 音楽に集中出来る環境が有り難かった。 「日野、ちょっと来いや」 金澤に呼び出されて、香穂子は小首を傾げながら、金澤専用の音楽準備室に入る。 「お前さん、コンクールに出てみたいとは思わないか?」 「コンクール?」 金澤からの思いもよらない言葉に、香穂子は目を大きく見開いた。 コンクールなんて今まで考えてみたこともなかった。 「お前の実力ならコンクールに出始めても問題はないと思うぞ。これがヴァイオリン部門の要項だ」 金澤は香穂子にプリントを手渡してくれる。それを見た途端に、香穂子は驚いた。 「ジャパンクラシックコンクールじゃないですか…! 腕試しにしては、凄過ぎますよ…!」 ジャパンクラシックコンクールといえばかなりの大会だ。ここで夕食すれば、プロのプレイヤーになる確率はかなり高くなってなるのだ。 香穂子は、金澤を思わず見上げた。 「理事長もお前を推薦している。挑戦する価値はかなりあると俺は思うがな」 「…先生…」 香穂子が金澤を見つめると、柔らかな笑みをくれる。 見守られるようなまなざしを貰うと、チャレンジをしようという気分になってくる。 「要項をよく読んで、こちらの書類を記入しろ。後は、学院側でやっておく」 「有り難うございます。ダメもとで頑張ってみますね」 「お前なら頑張れるだろうからな」 「有り難うございます」 香穂子は、申込書を眺めながら、先ずはやってみなければ解らないと思う。 香穂子は金澤に頭を下げると、音楽準備室から出た。 私の大切な方へ。 今日、担任の金澤先生から、ジャパンクラシックコンクールに出てみないかと提案されました。 今までコンクールに出たことがなかった私ですが、今回は頑張ってみようと思います。 初めてのチャレンジでかなりドキドキしています。 私が本選に出ることが出来るのかなって、正直言って思うこともありますが、夏の予選に向かって頑張りたいと思います。 どうか見守っていて下さいね。 では、また。 香穂子 受験の準備を進めながら、コンクールの準備に余念がない。 金澤を始めとする教師が、放課後に練習を見てくれるのも有り難かった。 コンクールに出る者のなかには個人でレッスンを受ける者も少なくはないが、学校で行われるレッスンの質が高いことを知っている者は、参加していた。 参加者の中には冬海もいる。 「冬海ちゃんもレッスンを受けるんだね」 「…はい…。個人レッスンも良いかもしれませんが…、学院のレッスンはかなり密度が高いので、こちらが良いかと思いまして」 「そうだね。私もそう思って参加しているんだよ」 「先輩とは部門が違いますが…、ご一緒出来るのがとても嬉しいです」 「私もだよ」 冬海を見ていて、吉羅のことを思い出した。 吉羅は、最近、余り見掛けない。恐らくは仕事がかなり忙しいのだろう。 吉羅がどのような仕事をしているかは、香穂子は詳しくは知らないが、かなり多忙を極める経済人であることは、間違いないようだった。 吉羅がどうしているのかを冬海に訊こうと、喉まで言葉が出掛かっていたが、香穂子は上手く言えなかった。 香穂子は冬海と挨拶を終えた後、ヴァイオリンの練習に集中することにする。 今は、自分の夢の為に集中する時期だ。 他のことにこころを乱されてはならない。 だが、逢えない時間が重なる度に、こころの奥底が苦しくなるのは間違いなかった。 このような時には、あしながおじさんに手紙を書くとこころが癒された。香穂子を大きな愛で包み込んでくれるひと。 このひとがいるからこそ、こうしてヴァイオリンに集中出来るのだ。 夢を叶えて、恩返しをするためにも、香穂子はヴァイオリンに集中しようと誓った。 練習途中の状態ではあるが、どのように頑張っているかを知って貰いたくて、香穂子はCDに録音をして手紙と一緒に送付していた。 私の大切なあなたへ。 コンクールと受験の為に、毎日、ヴァイオリン漬けです。 だけどとっても楽しいです。 大好きなヴァイオリンを思う存分に練習出来るのですから。 進学は、今のところは学内推薦で大丈夫なようです。 ですが、これに安堵はせずに、更に頑張っていきたいと思っています。 前向きに、一生懸命、頑張ることが出来たら幸せだなあって思っています。 これからもまだまだ頑張っていきます。 まだまだ完成度は高くないですが、演奏を収録をしたCDをお送り致します。 香穂子 予選が刻々と近付いてくる。 本当に時間がいくらあっても足りない。 まだまだ練習しなければならないのに、なかなか納得するほどの時間を取ることが出来ない。 香穂子は、自分の不甲斐なさに少し苛立ちながらも、ヴァイオリンの練習に集中していった。 コンクール予選を控えた日、香穂子は最後の仕上げを中庭で行なうことにした。 ここだと自然なかたちで演奏に集中することが出来る。 課題曲と自由曲の二曲を丁寧に演奏する。 もうあがいたとしてもしょうがない。 決戦は明日なのだ。 香穂子が一通りヴァイオリンを弾き終えた時、柔らかな拍手が中庭に響き渡った。 現われたのは吉羅。 夕暮れの陽射しに染まる吉羅は、うっとりとするほどに美しい。 「日野くん、悪くないのではないかね。君の演奏は」 吉羅はあくまでクールだったが、少しは満足してくれているようだった。 「有り難うございます」 吉羅に褒められたのは、素直に嬉しかった。 「以前よりはかなり上手くなっていると思う。この調子で頑張りたまえ」 「有り難うございます」 香穂子はほんの少しだけ笑顔になりながら、吉羅に頭を下げた。 「…日野君、少し、気分転換をしないかね。コンクールばかりに余り気を取られていても、良い演奏は出来ないからね」 「有り難うございます。気分転換をしたかったところなんです」 吉羅の心遣いに感謝をしながら、香穂子は笑顔になった。 学院近くにある老舗のカフェに連れていって貰い、香穂子はそこで特製の紅茶と、フォンダンフロマージュを頼んだ。 ケーキの甘味が、疲れた脳を癒してくれる。 「久し振りだが、元気そうで何よりだ。ヴァイオリンの調子も悪くないようだね。これからもしっかり頑張りたまえ」 「はい。有り難うございます」 吉羅とこうしてお茶をしているだけで、これまで頑張ってきた疲れが癒されるような気がする。 香穂子は他愛ないひとときに、温かな幸せを感じていた。 お茶が終わり、吉羅とはカフェの前で別れる。 「有り難うございました」 「コンクールの予選、君ならば大丈夫だろう。頑張りたまえ」 「はい!」 明日のコンクール予選。 不思議と頑張れるような気がする。 香穂子は不思議な自信に満ち溢れていた。 予選当日。 昨日の幸せな気分を思い出すと、不思議と冷静になれる。 同じコンクールの予選に出る、月森、加地、土浦、冬海とお互いにエールを送りあう。 互いの予選突破を誓いあって。 香穂子は、予選のステージに立つと、ヴァイオリン演奏に集中することが出来た。 今までで、一番の出来ではないかと思わずにはいられなかった。 |