*愛の願い*

27


 吉羅に力強く抱き締められている。
 見た目よりもずっと逞しい吉羅の胸にしっかりと抱き締められて、香穂子は息が出来なくなる。
 今にも泣きそうなぐらいの恋心が溢れ出してくるのを感じた。
 吉羅に抱き締められているだけで、感きわまる恋情が迸り、全身を駆け巡っていく。
 こんなにも好きだということを、改めてかんじた。
 このままじっとしていたい。
 ずっと抱き締められていたい。
 吉羅にいつでも抱き締められる立場であれば、こんなにも嬉しいことはないのにと、香穂子は思わずにはいられなかった。
 鼻孔をくすぐる吉羅の男らしい落ち着きのある華やいだ香りに、胸がいっぱいになった。
 恋をするには背伸びをし過ぎているのは解っているのに、吉羅に恋をせずにはいられない。
 もう、吉羅への恋にブレーキをかけることが出来なくなっていた。
 鼓動を速めながら、暫くの間、抱き締められている。
「…雨、止まないね」
 吉羅の低くてよく通る声が、鎖骨を通じて甘く響いてくる。
 香穂子は離れたくはなくて、吉羅の背中に腕をしっかりと回した。
「…雨…止みませんね…」
 香穂子をただそれだけを呟くと、吉羅に躰を預けていた。
 躰が熱いのに寒くて、頭がぼんやりとしてくる。
 不意に躰が震えてしまい、香穂子は熱っぽい躰を吉羅に預けた。
「…大丈夫かね…!?」
「…吉羅さんにこうして温めて頂いているので…、寒くはないんですが…少しだけ熱っぽいんです…」
 恋の熱さか。
 それとも本当に熱があるかは香穂子にも解らない。
 ぼんやりとしていると、吉羅が更に抱き締めてくれた。
「…ワイナリーに連絡をしたほうが良いかもしれないね…」
 ワイナリーに連絡をしたら、このまま抱擁して貰えなくなる。
 それは嫌だ。
 香穂子は小さな子どものように、“いやいや”と首を振ると、吉羅の胸に顔を埋めた。
「…君は小さな子どものようだね…」
 吉羅は苦笑いを浮かべると、まるで子どもをあやすように抱き締めてくれていた。
 それから暫くして、雨は上がったが、香穂子は上手く歩ける状態ではなかった。
 そのせいか、吉羅は躰を屈ませると、背中を示してくれた。
「おぶさりなさい。その状態では歩けないだろう…」
「…有り難うございます…」
 遠慮をするというような理性は、もう何処かへ吹き飛んでしまっていた。
 このまま遠慮をせずに、香穂子は広い背中におぶさる。
 小さな子どもと同じように。
 ずぶ濡れの服でおぶさるのは申し訳ないとは思ったが、気分の悪さには勝てなかった。
 吉羅は香穂子を背負うと、ゆっくりと来た道を歩いていく。
 雨の後だからとても滑り易い。
 慎重に歩いてくれているのが解る。
 雨の雫を抱いた樹々の葉が、瑞々しいほどの緑を輝かせている。
 本当に綺麗だ。
 だが、その美しさを堪能出来ずに、香穂子は眠りに身を任せてしまう。
 心地よくて何処か柔らかなリズムだった。
 そのまま夢の世界に連れていかれる。
 とても良い夢だった。
 吉羅と手を繋いで、先ほど登った丘を歩いている夢だ。
 丘は太陽の光に照らされた鮮やかな緑に溢れていて、本当に美しい。
 そしてふたりの横には、何故かボブカットの可愛い天使のような女の子がいた。

「まあ! 香穂子ちゃんっ!」
 ワイナリーの奥さんは、吉羅に背負われている香穂子を見るなり、驚いて駆け寄ってきた。
「ぼっちゃん、香穂子ちゃんはどうされたんですか!?」
「少し熱があるようです。山の夕立に遭ってしまってずぶ濡れになってしまったんですよ」
「それは大変だわ! 直ぐに部屋に運んで下さい。まあ、ぼっちゃんもすぶぬれじゃないですか!? 早くシャワーを浴びて躰を温めて、服を着替えて下さい!」
「有り難うございます」
 吉羅は先ずは香穂子を部屋に運ぶ。一緒に来た奥さんは、バスタオルやタオル、香穂子のパジャマを持ってきた。
 濡れないようにと、香穂子のベッドに沢山のバスタオルを敷き、そこに寝かせる。
「では後はやっておきますから」
「頼みます」
 吉羅は奥さんに香穂子を託すと、バスルームへと向かった。
 熱いシャワーを浴びてはいたが、本当は冷たいシャワーを浴びたいほどの熱さを感じていた。
 香穂子の躰はとても温かかった。そして柔らかで、誰よりも優しい感触がした。
 香穂子をあのまま奪いたくなる衝動に駆られ、堪えるのに苦労だった。
 吉羅は溜め息を吐きながら、バスルームを出る。
 香穂子を子どもだと思っていたのに、既に立派な女性だ。
 いや、子どもだと勝手に思い込もうとしていたからかもしれない。
 香穂子はもう女なのだ。
 それも吉羅を惑わすには充分なほどに。
 香穂子は、吉羅を異性として堂々とひきつけてくる。
 吉羅はもう、香穂子をひとりの女としてしか見ることが出来ないことを強く感じていた。
 吉羅はバスルームを出て、香穂子の部屋に向かう。
 すると既に奥さんが香穂子の世話を終えてくれていた。
「ぼっちゃん!」
「日野君の具合は如何ですか?」
「かなり熱は高いようですけれど、眠れば大丈夫かと思います。起きたら薬を飲んで貰って様子をみます。 それでも収まらないようであれば、お医者様にお診せしようかと思います」
「有り難うございます」 
 吉羅は礼を言うと、香穂子の様子を見る。
 かなり息は荒い。
 傍らには薬が置いてあり、吉羅はそれを手に取った。
 苦しそうにしている香穂子をそっと起こすと、吉羅は薬と水を口に含む。
 香穂子の唇にそっと近付くと、吉羅は口移しで薬と水を飲ませた。
「…ん…」
 香穂子の喉が僅かに動き、吉羅はほんの少しだけホッとする。
 だが、それでも予断は許されない。
 今日が日曜日で無ければ、盆の時期でなければ、直ぐに医師を呼んだのに。
 山の天気を侮っていた自分を呪いながら、吉羅は香穂子の様子を見ていた。
 どうか早く治って欲しい。
 ただそれだけだ。
 暫く、吉羅がじっと様子を見ていると、香穂子の瞼が僅かに動いた。
「…吉羅…さ…ん…」
「…日野君…」
 香穂子が僅かに微笑むと、吉羅を見つめて来る。
 その表情がとても可愛く綺麗で、吉羅は思わず香穂子を抱き締めたくなった。
「大丈夫かね!?」
「…はい。大丈夫ですよ…」
 香穂子はにっこりと笑うと、吉羅を見つめた。
 先ほどよりも随分と顔色が良い。
 吉羅はホッと胸を撫で下ろしたのは言うまでもなかった。
「少し休みたまえ。直ぐに顔色はよくなるだろう」
「有り難うございます」
「奥さんに大丈夫なことを伝えておこう」
「有り難うございます」
 吉羅は香穂子に背を向けて、部屋から出る。
 こころの底から安堵をしたのは言うまでもなかった。

 吉羅を見送った後、香穂子は唇をそっと指先で押さえた。
 本当に良い夢だった。
 香穂子は幸せな気分に浸る。
 吉羅とふたりで仲の良い家族になり、キスをしている夢を見た。
 こんなにも素敵な夢は、他にないのではないかと思う。
 本当に輝かしいばかりの夢だった。
 出来ることならば、吉羅との夢の続きが見られたら良いのにと、思わずにはいられなかった。
「…またあの夢が見られたら良いのに…」
 頬がほてるのを感じながら、香穂子は夢を見ずにはいられなかった。
「まあ! 香穂子ちゃん! 具合はどう?」
 部屋に入ってきた奥さんに、香穂子はにっこりと微笑む。
「大丈夫ですよ」
「良かったわ! ぼっちゃんがあなたをおぶってきた時は本当に心配したのよ」
 吉羅がここまで連れてきてくれたことを素直に感謝しつつ、嬉しく思う。
 また恋心が深くなった。



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