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夕食は流石に温かなお粥しか食べることが出来なかった。 消化の良いものを食べれば、明日には治っていることだろう。 ベッドで食べるなんて贅沢をさせて貰い、香穂子は幸せな気分になった。 食べ終わった後で、香穂子がキッチンに皿を持って行くと、奥さんの話し声が聞こえた。 吉羅のことを話しているようだ。 「ぼっちゃんもお風邪みたいだね。熱があるようで、このままおやすみになるようだよ」 「…ぼっちゃんも疲れていらっしゃるからね」 ワイナリーの夫妻の会話を聞きながら、香穂子は心配で堪らなくなる。 恐らく、吉羅も一緒に雨に降られたからかなりひどい熱が出ているのかもしれない」 香穂子が不安になっていると、夫妻が気付いたように顔を上げて。 「香穂子ちゃん! 有り難う」 奥さんはにっこりと笑うと皿をしっかり受け取ってくれる。 「顔色もよくなったようだねえ」 頬をそっと触れて、奥さんは香穂子の様子を確かめてくれる。 その優しい手のひらに香穂子はかなり癒されていた。 「今夜は薬を飲んでしっかりと休むんだよ。明日には元気だよ」 「はい! 私もそう思います」 香穂子がにっこりと笑うと、夫妻も頷いてくれた。 だが、吉羅のことがかなり気になってしまう。 「…吉羅さんも…具合が余り良くないのですか?」 「ちょっと熱っぽいご様子だけれど、恐らくは大丈夫だと思うよ。ぼっちゃんはもうおやすみになったから、薬を飲めば治るからね」 「はい…」 奥さんは香穂子に心配させないようにと言っているのだろう。 だが、心配で心配で堪らなくなる。 「本当に…明日、吉羅さんもお元気になられたら良いのに…」 「…そうだね。きっと大丈夫だよ。香穂子ちゃん、あなたは本当に優しい子だね」 奥さんはまるで母親のように、香穂子の頭を撫でてくれた。 それが嬉しくてしょうがなかった。 洗面所で寝る準備をして部屋に戻ったものの、吉羅が心配で上手く寝付けない。 吉羅が苦しんでいるのが、心配でたまらなかった。 何度も寝返りを打って、香穂子は結局、吉羅が眠る部屋にそっと忍び込んだ。 吉羅は眠っていたが、かなり苦しそうだ。 香穂子は恐る恐る吉羅の額に触れてみる。 するとかなり熱くて驚いてしまった。 横にボールに入った水とタオルが置いてあり、香穂子はタオルを水に漬けて絞って、吉羅の額にあてがった。 気持ちが良さそうな顔をしてくれる。 本当に堪らないぐらいに気持ちが良さそうだ。 香穂子は心配で、暫く、吉羅の様子を見ていた。 まめにタオルを変えて、やがて吉羅の呼吸も穏やかになっていく。 その穏やかさに、香穂子はホッとしていた。 本当に良かった。 吉羅が自分以上に苦しい想いをするのは嫌なのだ。 香穂子は吉羅が穏やかな表情になったことに安堵する。 吉羅の表情が精悍でいつもの潔癖なものになると、香穂子は思わず唇を重ねてしまう。 寝込みを襲うなんて、なんて大胆なのだろうか。 だが。こうでもしないとキスすることなんて出来やしないのに。 リアルなキスは、少し固くて甘い感触がした。 キスを終えると、不意に吉羅の瞼が動く。 バ レてしまうのが恐ろしくて、香穂子は慌てて吉羅から離れた。 切 なくも痛い想いを遺して。 吉羅は、香穂子によく似ている天使のような女性に看病されている夢を見た。 熱を出すなんて不覚だった。 香穂子に口移しで薬を飲ませたことへの罰なのだろうか。 吉羅はそんなことを思いながら、心地よい看病に身を任せていた。 現実か夢かが解らない。そんなボーダーを歩いているような気分だ。 香穂子に看病されるなんて、こんなにも幸せなことはないのではないかと思った。 やがて香穂子の穏やかな笑顔が吉羅に向けられると、初々しく口付けられる。 その幸せな感覚に、吉羅は酔い痴れたくなっていた。 だが唇の感覚がやけにリアルだ。 吉羅は意識をゆっくりと現実へと戻していった。 吉羅にバレてしまう。 それだけはかなり拙い。 香穂子はそっと吉羅の部屋から出ると、こそこそと自分の部屋へと戻っていく。 頭から上掛けを被ると、そのまま眠りに落ちた。 見る夢はとても幸せなものに違いないと思いながら。 まさか、ここに香穂子がいたのだろうか。 想像するだけで甘い気分になる。 吉羅は、そっと起き上がると、香穂子の部屋に向かう。 するとぐっすりと寝ている様子が見えたのでホッとする。 吉羅はフッと笑顔になると、香穂子の部屋から解らないようにそっと出た。 ふたりの様子をワイナリーの夫妻が微笑ましいと思って見ていたことを、勿論、ふたりは気付いてはいなかった。 「…あのふたり、本当に純粋な恋をしているんですね…。ふたりが結ばれてくれたならばこんなにも嬉しいことはないです」 「そうだな」 夫妻は本当に幸せそうに見つめ合って微笑みあっている。 「私の新しい夢が出来ましたよ」 奥さんは幸せと希望が満ち溢れた声で呟く。 「おふたりが一緒になって、その子どもが夏休みにここにやってきて、そのお世話をすることが、今の一番の夢になりましたよ」 「そうだな」 ふたりは顔を合わせると、そうなれば良いと祈らずにはいられなかった。 翌朝には、香穂子も吉羅もすっかりいつも通りの状態になっていた。 いつものように香穂子はヴァイオリンの練習をし、そして吉羅は涼しい時間に軽く仕事をする。 何処かのんびりとした光景だ。 香穂子が午前中の練習を終えると、仲間たちとの合同練習に出掛けた。 和気藹々な雰囲気ではなく、誰もが真剣にコンクールへと取り組んでいる。 ピリリとした引き締まった雰囲気が悪くないと香穂子は思っていた。 本当に少しの休憩時間以外は、とにかく技術を研く時間に費やされる。 ひたすら練習だ。 それがまた充実していて良いと思う。 ヴァイオリンの練習をしていると、とても落ち着いた気分になれるのが良かった。 練習が終わると、いつもはワイナリーのご主人が車で迎えに来てくれる。 だが、いつもの待ち合わせ場所に、美しきフェラーリが停まっていた。 吉羅が迎えに来てくれたのだろうか。 そう考えるだけで、香穂子は鼓動がおかしくなった。 だが、フェラーリなら吉羅以外でもいくらでも乗っているひとぐらいはいる。 だが、香穂子が通り過ぎようとすると、フェラーリのドアが開いた。 同時に吉羅の姿が見える。 「…乗りたまえ」 「…有り難うございます」 香穂子がドキドキしながら言うと、フェラーリに乗り込んだ。 「おじさんはどうされたのですか?」 「忙しいようだったから、私が代わったんだよ」 「有り難うございます。嬉しいです。だけど…ひとりでも帰れましたから、ご連絡いただければ大丈夫でしたよ」 「最近は物騒な世の中だからね。君が思っているよりもずっと。こんな避暑地でもね」 吉羅は淡々と言うと、静かに車を出発させた。 「練習はどうかね?」 「今のところは上手くいっていますよ。切磋琢磨することが出来るのが良いです」 「そうか。上手くいっているなら良かった」 吉羅の言葉に、香穂子は笑顔で頷く。 「切磋琢磨出来る環境があることは良いことだね」 「はい。明確な目標があると、頑張れるんです」 「そうだね」 吉羅と音楽のことを中心に話しながら、香穂子は楽しくも穏やかな気分になった。 車は直ぐにワイナリーに着いてしまい、香穂子は残念な気分になる。 吉羅とふたりで車を降りた瞬間、香穂子は息を呑む。 「暁彦さん!」 あの美しい女性が現われた。 |