*愛の願い*


 冷たい表情がよく似合う整い過ぎた顔立ちに、香穂子は一瞬魅了される。
「…失礼ですが、あなたは…」
 香穂子は男の顔を見つめながら、何処か夢見がちに呟く。
 もし自分の“あしながおじさん”の関係者だったら、今すぐお礼を言えるのに。
「この学院にいる冬海笙子の遠縁にあたる者だ。今日は彼女の様子を見に来た。それだけだ」
「そうですか…」
 ほんの少しではあるが、がっかりとしてしまう。先日、院長室で見掛けたのは保護者として来ていたからなのだろう。
「君はまだまだ練習が足りない。しっかりと頑張りたまえ。君がどれぐらい成長したか、また聴かせて貰いたいからね」
 男は冷たい笑みを口角に僅かに滲ませながら、香穂子を見つめてきた。
「今度、創立祭でヴァイオリンを演奏する予定なんです。まだまだかもしれませんが、もしお越しになられるのならば聴いて下さい」
 香穂子が頭を深々と下げると、男は感情なく頷いてくれる。
「…楽しみにしていよう…。行けるのであればね」
「はい。来られるのならば聴いて下さい」
「ああ。それでは」
 男は静かに背中を向けると、堂々と歩いて行く。
 その広い背中が、香穂子には何よりも逞しいものに見えていた。

 男が立ち去った後、香穂子はヴァイオリンをひたすらに奏でる。
 あの男の冷徹な顔が忘れられない。
 あの顔に笑みを浮かべてくれる日はないのだろうかと、思わずにはいられなかった。

 翌日、香穂子は冬海笙子を探し出すことにした。
 どうしてかは分からない。
 どうしても探さなければならないような気がする。
 星奏学院は少人数で、しかも音楽専攻は特に少ないから、直ぐに見つけ出すことが出来た。
 教室の外から冬海笙子を伺うと、清楚な雰囲気の何処かか弱い雰囲気の少女だ。
「…あの子か…」
 あの男と血の繋がりがあるとは思えない程の、何処かか細い雰囲気の少女だ。
 香穂子が見つめていると、本人が気付いたのか、はにかんだような笑みを浮かべてきた。
 香穂子も思わず笑みを浮かべると、冬海は更に嬉しそうに笑う。
 こんなにも清らかな笑みを浮かべられるとこちらまで嬉しくなってしまう。
 香穂子はにっこりと笑ってみせた。
 今度、カフェテリアで見掛けた時には、声を掛けてみよう。
 あの男と関係なく、話してみたい。
 香穂子は、ほんのりと幸せな気分に浸りながら、冬海の教室を後にした。

 昼休み、カフェテリアで冬海笙子を見掛けた。
 香穂子は思い切って声を掛けるかける。
「こんにちは!」
「あ…。こ、こんにちは…」
 少し頼りなさげに呟くと、冬海は香穂子に微笑んだ。
「…嬉しいです…。先輩のこと憬れていたから…、こうして声を掛けて下さるのがとても嬉しいです」
「私もあなたとお話をしたかったんだ。嬉しいよ」
「先輩も創立祭に出られるんですよね…。私も創立祭に出るんですよ…」
「じゃあお互いに頑張らないとね。しっかりと練習をして、頑張ろうね」
「…はい。有り難うございます。先輩と一緒に頑張れるのが、とても嬉しいです」
「私もだよ。お互いに頑張ろうね」
「はい」
 冬海と話していると、ほわほわとした温かさを感じる。こちらまで幸せな気分にさせてくれるのが嬉しい。
「じゃあまたお話をしよう! またね」
「はい」
 香穂子は温かな気分になりながら教室に戻る。
 創立祭は何がなんでも頑張らなければならないと思った。

 香穂子は寮でのレッスンを集中的に行なった後で、まだ見ぬ“あしながおじさん”に、手紙を認める。

 こんにちは。
 私は今、創立祭に向けてヴァイオリンを懸命に練習をしています。
 皆さんに聴いて良かったと思って頂けるような音を奏でることが出来ればと、頑張っています。
 ヴァイオリンを弾くのは大好きだから、練習は余り気にはなりません。
 むしろもっとヴァイオリンを弾きたいと思ってしまいます。
 こうしてヴァイオリンを弾けるのは、あなたさまのお陰に他なりません。
 だから本当は、あなたさまに一番聴かせたいと思っています。
 だけどそれは難しいですよね。
 お越し頂けたら嬉しいですが。
 お忙しいようならば、先生に頼んで録音して貰おうと思っています。
 また手紙を書きます。
 くれぐれもお身体に気をつけて下さいね。
 香穂子

 香穂子は、もうたったひとりになってしまった自分の“家族”のような気分で、“あしながおじさん”に手紙を認める。
 どうか。
 創立祭に来て貰えますように。
 そう祈らずにはいられなかった。

 創立祭の前日、香穂子の元に荷物が届いた。
 箱を開けると、香穂子は息を呑む。
 薄紅色のノースリーブのドレスが現れる。
 清楚さと大人びた艶が同居するようなデザインに、香穂子はときめきを覚えた。
 送り主の名前を見ると、香穂子の“あしながおじさん”だ。
 本当に綺麗なドレスで、香穂子は夢見心地な気分になった。
 箱の中には手紙が入っていた。
 パソコンで打ってある事務的なものだ。

 日野香穂子様。
 創立祭のコンサート、しっかりと頑張って下さい。
 私は仕事の都合でお伺いすることは出来ませんが、あなたの演奏が様々な人々のこころに響けばと、思わずにはいられません。
 頑張って下さい。

 それだけが書かれたとても事務的な手紙だった。
 それでも香穂はにとっては幸せな手紙であるには違いない。
 ヴァイオリンの音を送れば喜んでくれるだろうか。
 それだけを思いながら、香穂子はヴァイオリンを録音することにした。
 こんなに素晴らしいドレスをプレゼントしてくれたのだから、その感謝を示さなければならないと、香穂子は思っていた。
 ヴァイオリンの音色を贈るなんておこがましいかもとも思ったのだが、やはり自分はこれしか出来ないと思わずにはいられなかった。

 創立祭の当日、香穂子はそわそわとしながらヴァイオリンを握り締めていた。
 こうしておけば、落ち着くことが出来る。
 あしながおじさんのプレゼントしてくれたドレスに恥じないようにと、気合いも入る。だからこそ落ち着かないのかもしれないが。
 香穂子は余りにも落ち着かないせいか、とうとう中庭でヴァイオリンを弾くことにした。
 創立祭で演奏をする曲を一生懸命練習して、香穂子は本番に備える。
 ヴァイオリンを弾き終わったところで、冷たい拍手が背後から聞こえた。
「少しはましになったのかね」
 意地悪な声が聞こえて、香穂子は思わず振り返る。
「あなたは…冬海さんの…」
 香穂子は男の整った顔を仰々しく見つめる。底知れぬ雰囲気がそこにはある。
「彼女も今日の創立祭に演奏するものだからね。聴きにきたんだよ。君も今日は演奏するのか。本番は更に素晴らしい音を聴かせて欲しいものだね」
 男はフッと憎らしい程に魅力的な笑みを浮かべてくる。
「精一杯頑張ります。だから、私の時には立ち上がったりしないで下さい」
「努力しよう」
 男はさらりと言うと、香穂子に背中を向けて歩き出す。
 名前も知らない男性。
 不思議と惹かれる男性だ。
 せめて名前だけでも知りたい。
「あ、あのっ! あなたのお名前は何ですか?」
 唐突な香穂子の声に、吉羅が振り返る。
「何故、知りたい」
「今度お会いする時に、名前を呼ばないと失礼なような気がして」
 香穂子が揺れる声で強い調子で言うと、男はフッと微笑んだ。
「吉羅暁彦」
 男は名前を名乗ると優雅に立ち去っていく。
 これがふたりの本格的な出会いだった。



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