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香穂子にかいがいしく看病をして貰えたことが、吉羅には嬉しくてたまらなかった。 吉羅は香穂子の寝顔を堪能するように見つめる。 本当は、早く香穂子の寝室に運んでやらなければならないことぐらい解ってはいた。 それでも欲望には勝てなかった。 本当に純粋なぐらいに愛らしい寝顔だ。 香穂子の髪を柔らかく撫でてやると、本当に気持ち良さそうな表情をする。それがそこはかとなく色気があり、また、愛らしかった。 吉羅は香穂子の寝顔を堪能した後で、ベッドから起き上がり、香穂子を抱き上げて寝室へと連れていった。 本当にいつでもこの寝顔を見つめていたいと思う。 それほどまでにとっておきの寝顔だった。 吉羅は、香穂子をベッドに寝かせた後で、再び額にキスをする。 このままずっとそばにいたいと思わずにはいられなかった。 翌朝、香穂子が目覚めたのはベッドだった。 まさか吉羅の看病をして寝てしまった挙句に、ここまで運ばれたなんて。 吉羅に迷惑を掛けただけで、全く看病になんてならなかったと香穂子は思わずにはいられなかった。 「…これじゃあただの迷惑行為だよー」 自分のしてしまったことが恥ずかしくて、香穂子はうなだれるしかない。 こんなにも恥ずかしくなることになるなんて、思ってもみなかった。 香穂子は取りあえずは起き上がり、素早く朝の仕度をする。 奥さんの朝食準備の手伝いをしたかったのだ。 香穂子はダイニングルームに向かった。 朝食の準備をせっせとしていると、吉羅がダイニングに入ってきた。 顔色がかなり良くなってきている。 それが嬉しくて、香穂子はホッと溜め息を吐いた。 だが、まともに顔を見ることが出来ない。 自分がしてしまったことが、恥ずかしくてしょうがなかったからだ。 吉羅の前に朝食を並べたあと、香穂子は俯いたまま食事をするしかない。 「ぼっちゃん、随分と顔色が良くなられたですね。良かったです」 「これで夕方にはこちらを出発することが出来ます。有り難うございます」 風邪が治る。 それは吉羅が東京へと帰ることを意味する以外にはない。 離れてしまうのが、香穂子は寂しくてたまらなかった。 「食欲もありますから、大丈夫です」 「それは良かったですよ。ぼっちゃん」 「お陰様で」 香穂子はご馳走さまをして一足早く片付ける準備をしようとする。 だがそこで吉羅に呼び止められてしまった。 「日野君、少し構わないかね?」 「は、はいっ!」 香穂子がガチガチになって返事をすると、吉羅は甘い笑みを浮かべてきた。 「日野君、朝食の後、少しだけで構わないから、時間を貰えないかね?」 吉羅の申し出に香穂子はガチガチになったままで返事をした。 「は、はいっ!」 「だったら待っているから、食後の散歩に行こう」 「はいっ」 香穂子は元気良く返事をすると、手早く片付けることにした。 朝食の後の片付けを手早く済ませた後、香穂子は吉羅が待っている玄関ホールへと向かった。 「お待たせ致しました」 「ああ。じゃあ行こうか」 「はい」 歩きだした吉羅にちょこまかと着いていった。 吉羅は近くののんびりと美しい景色が楽しめる林まで連れて行ってくれる。 こうして吉羅とふたりでのんびりと散歩をすることが毎日出来たら良いのにと、香穂子は思わずにはいられない。 「日野君、昨日は有り難う」 「…あ…」 やはり吉羅がベッドまで運んでくれたのだろう。香穂子は逆に迷惑を掛けてしまった自分が恥ずかしくてしょうがなかった。 「…逆にご迷惑を掛けてしまったみたいで、申し訳ありません…」 「いいや。こちらこそ有り難う。君のおかげで、私の熱も下がったからね。こちらこそ感謝しているよ」 吉羅の言葉が嬉しくて、香穂子はふわふわと柔らかな雲の上を歩いているような気分になった。 香穂子は頬を染め上げながら、吉羅を見上げる。 「吉羅さん、もう熱の具合は大丈夫なのですか?」 「ああ、大丈夫だよ。随分と心配を掛けてしまったね。君のお陰だよわ有り難う」 吉羅の言葉に本当に有頂天になってしまう。 そんな甘い言葉ばかりを貰うと、それこそとろとろに融けてしまいそうになる。 「私は今日帰らなければならないから、こうして君にきちんと礼を言わなければならないと思ってね」 吉羅が東京に帰ってしまう。 その事実がとてつもなく切なくて重い。 もっと一緒にいたい。 なのに素直に言うことが出来なかった。 香穂子は誤魔化すように笑うと、わざと木を見上げた。 木はナチュラルに美しい。瑞々しくて優しい朝陽を一身に浴びて、葉の緑を輝かせている。 宝石以上に美しい緑だ。 朝露が朝の陽光を弾いて、この世界で最も美しいものを見せてくれている。 「本当に綺麗です…」 ワイナリーに来た頃は、もっと躍動感のある光であったのに、今はすっかり秋色を纏い始めている。 こんなにも美しい光景は他にないと、香穂子は思った。 「本当に綺麗だね…」 「はいっ! この林を満たす光のような音をヴァイオリンで表現することが出来ればと思っています。本当に美しくて、優しくて、強くて堅いのに柔らかい…。何だか言葉で表現するのはとても大変ですね」 「そうだね…」 香穂子は木を見上げる余りに足下に気付かなくて、足を踏み出そうとしたところで、木の根っこに足を取られてしまった。 「おっと」 声を上げてしまう前に、吉羅に軽々と抱き留められる。 そのしっかりとした感覚に、香穂子の鼓動は高まっていった。 吉羅を更に男として意識してしまう。 吉羅に抱き留められるだけで、心地が良いほどの酸欠を感じた。 「君は危なっかしいね」 「…ごめんなさい…」 吉羅は呆れたように溜め息を吐くと、香穂子の手をしっかりと握り締めてくれた。 その力強さに、香穂子はまたふらふらするほどに魅了されてしまう。 「…有り難うございます」 「これで君も躓いて倒れることはないだろう」 「はい」 手を繋いで散歩をする。 吉羅にとっては何気ないことかもしれないが、香穂子にとっては、ドキドキと恋情が充実沸騰してしまうだけの行為だ。 こんなにも幸せな気分は他にないのではないかと思う。 「…本当に朝の空気は美味しくて…綺麗ですね…」 「そうだね」 それ以上言うことはないのかと、自分に言ってしまいたくなるほどに、言葉が全く出て来なかった。 香穂子は自分の話題のなさに辟易する。 だが、こうして何も話さなくても、こうして手を繋いで一緒に歩いているだけで幸せだと思った。 しかも、これ以上ないぐらいに幸せだ。 「…君なら、この朝をヴァイオリンで上手く表現することが出来ると、私は思っているよ」 「…有り難うございます」 吉羅に言われると、本当にそうなるような気がするし、出来るような気になるのが不思議だ。 「吉羅さんがおっしゃるように出来るよう頑張りますね」 「ああ」 香穂子は吉羅てまなざしを合わせて微笑み合う。 こんなにも素敵な幸せは他にないと感じていた。 吉羅は夕方に東京へと帰ってしまった。 吉羅を見送りながら、香穂子は優しい夕暮れのような幸せな気分になる。 吉羅にはまた横浜や東京で逢えるだろう。 今度逢える時にはもっと成長していたいと、強く感じていた。 間も無く夏も終わる。 香穂子にとっては本格的な戦いのシーズンが始まろうとしていた。 |