*愛の願い*

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 新学期が始まった。
 香穂子にとっては、文字通り戦闘体制に入ったと言っても過言ではない。
 推薦入試。
 そしてジャパンクラシックコンクールの本選が待っているのだから。
 香穂子は気持ちを引き締めて、二学期に臨む。
 運命の分かれ道である大切な時間だ。
 香穂子は悔いないように頑張るしかないと誓った。

 授業に加えて、厳しい練習が加わる。
 授業が終わってからも、香穂子は練習室でひたすらヴァイオリンの技術を研いていく。
 学院で許されるまでヴァイオリンの技術を研いた後、寮に帰っても練習を続ける。
 ひたすらヴァイオリン漬けの毎日だ。だが、香穂子にとってはそれが何よりも素晴らしい時間になった。

 私の大切なあなたへ。
 間も無く、大学の音楽学部の推薦入試と、ジャパンクラシックコンクールの本選が始まります。
 私にとっては勝負の日々になってきます。
 しっかりと頑張って、どちらの栄冠も手にしたいと思っています。
 毎日ヴァイオリン漬けですが、それもまた幸せです。
 入試までもコンクールまでも余り時間はありません。
 だから、時間を無駄にすることなく頑張っていきたいと思っています。
 こうしてヴァイオリン漬けでいられるのは、本当にあなたさまのお陰です。
 有り難うございます。
 どちらについてもあなたさまに良い報告が出来ますように頑張りますね。
 本当に有り難うございます。
 これからも、あなたさまの善意に恥じないように頑張っていきます。
 いつもいつも有り難うございます。
 あなたさまが見守って下さるからこそ、こうして頑張ることが出来るんですよ。
 またお手紙をします。
 香穂子

 いよいよ明日はジャパンクラシックコンクール。
 香穂子は最終リハーサルを講堂で行なった。
 泣いても笑っても、本番に備えるだけだ。
「なかなか良くなったんじゃないか? 日野、この調子で本番もしっかりと頑張ってくれ」
 リハーサルを見てくれた金澤が、納得するように頷いてくれた。
 少しは目標に近付けたかもしれない。
 これだけ一生懸命頑張ったから、後は悔いなく頑張るだけだ。
「いよいよ明日は本番だな。しっかりと今夜は眠れよ」
「有り難うございます」
 もう足掻いてもしょうがない。
 香穂子は覚悟を決めると、笑顔で金澤に頷いた。
 練習室から出ると、校舎がロマンティックに秋色の夕陽に染まっていた。
 それを彩るように様々な色の枯れ葉の布団が、道路に敷き詰められている。
 なんて素晴らしき風景。
 中学生の頃、学院の見学を兼ねて学園祭へと赴いた。
 その時に見た、秋の見事な風景に一目ぼれをして決めたのだ。
 ここにしようと。
 星奏学院以外には考えられないと。
 今年も見事なまでに素敵でだけど何処かロマンティックな寂しさが漂う風景がやってきた。
 あの頃は夢見ていた。
 この風景を素敵なひとと共有をして、笑顔と愛を溢れさせながら一緒に歩きたいと。
 それが実現で来たらこれほど幸せなことはないと。
 そこまで思ったところで香穂子はハッとする。
 目の前に吉羅のシルエットが見えた。
 秋の夕陽に照らされた姿は、なんて素敵なのだろうかと思う。
 うっとりと見つめながら近付くと、タイミング良く吉羅が振り返った。
 吉羅の深みがある美しき艶のある瞳に見つめられて、鼓動を高めながら香穂子は頭を下げた。
「…こ、こんにちは! 吉羅さん、お久し振りです」
「こんにちは。夏休み以来だね」
 吉羅は相変わらず低くて甘い声で呟くと、香穂子にゆっくりと近付いてきた。
 相変わらずのポーカーフェースだが、今はそこにほんの少しではあるが笑顔が感じられる。
「…ヴァイオリンの調子はどうかね? 明日はコンクールと聴いてね」
「はい。明日はもう精一杯頑張るだけです。今さら足掻いてもしょうがないですから」
 香穂子が微笑みながら言うと、吉羅も頷いた。
「そうだね。確かに。前日はベストコンディションになるためにも早く眠ったほうが良いからね」
「はい。ですから今夜はゆっくりしようと思っています」
「それは良いことだ。日野君、そこのカフェで気分転換に付き合わないかね? 時間はあるようだからね」
「有り難うございます。勿論、お付き合い致します」
「じゃあ行くか」
「はいっ!」
 吉羅とお茶が出来る。
 それだけでも香穂子は嬉しくて、つい笑顔になってしまう。
 吉羅と一緒に学院から程近い老舗のカフェへと向かった。
 紅茶の美味しさと、ケーキの程よい美味しさが有名なカフェだ。
 香穂子は、定番であるオリジナリティーとモンブランを選び、吉羅もオリジナリティーとレアチーズケーキを選んだ。
「コンクールの前日には、こうやって気分転換をするのが大切だよ」
「はい。有り難うございます。こうして吉羅さんと気分転換が出来て本当に嬉しいです。これで明日も頑張ってヴァイオリンが弾けそうです」
 吉羅と話しているだけで、落ち着いてくるのが解る。
 吉羅と過ごすだけで前向きな活力を得られるのは、やはり恋心を抱く相手だからだと思った。
「…これぐらい本番でも落ち着いていたら、いつもの実力は発揮出来そうだね」
 吉羅は香穂子にそれで良いとばかりに頷いてくれる。
「はい。明日までこの落ち着きが維持出来るように頑張ります。落ち着いていないと、集中することは難しいですから」
「確かにね」
 コンクール前日に吉羅とこうして逢えて話すことが出来て良かったと思っている。
 きっと今話していることを思い出せば、落ち着いてヴァイオリンを演奏することが出来るだろうから。
 香穂子はこのほのぼのとした幸せを、決して忘れまいと誓った。

「では健闘を祈っているよ」
「有り難うございます」
 カフェの前で吉羅と別れ、後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、香穂子は寮に戻った。

 寮に戻ると、香穂子宛てにとても大きな荷物が届いていた。
 送り主は香穂子の大切な“あしながおじさん”だ。
 香穂子はふらふらになりながら箱を自室に運んで開けてみた。
「うわあ!」
 箱の中には、演奏用のドレス、ハイヒール、ヘッドドレス、イヤリングが入っていた。
 カードが添えられており、香穂子はそれを手に取る。
 嬉しさの余りに泣きそうになる。
 指先が震えてしまうのを感じた。

 日野香穂子様
 明日のコンクールの本選、頑張って下さい。

 シンプルにそれだけが書かれたカード。
 それを見るだけで泣けてしまう。
 ドレスは白に近いピンクで、ヘッドドレスもハイヒールもコーディネートがしてある。
 香穂子は嬉しくて堪らなくて、声を出さないように泣く。
 どうして幸せ過ぎる時にも涙は溢れてしまうのだろうか。
 香穂子はそんなことを考えながら、何時までもドレスの一式を眺めていた。
 頑張れる。
 沢山に人々にこうして見守られているのだから。
 前向きに自分のベストを尽くせば良い。
 香穂子は最高のステージになる予感がする。
 結果よりも、むしろどれだけ感動を与えられる演奏がしたいと強く願っていた。

 コンクール当日、香穂子はドレスに身を包み、とても落ち着いた気分で自分の番を待っていた。
 あしながおじさんのドレスが自信を与えてくれ、吉羅とお茶をした昨日の記憶が、落ち着きと活力を与えてくれる。
 香穂子は透明になった気分で、出番を待つ。
「次、日野香穂子さん」
「はい」
 名前を呼ばれて香穂子は背筋を伸ばすと、ステージへと向かった。



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