*愛の願い*

32


 コンクールの曲は、“ジュ・トゥ・ヴ”と決めていた。
 情熱的でとても美しい曲だ。
 香穂子にとってはとても大切な曲だ。
 それをこうして演奏が出来るのが、何よりも嬉しい。
 吉羅への激しくも密やかな甘い蜂蜜よりも満ちている恋心を、香穂子はヴァイオリンの音に託す。
 そして、ずっと影から遠くから見守ってくれていた“あしながおじさん”への感謝を込めた想いも同時に音に織り込む。
 ヴァイオリンの音色は、香穂子にとって伝えきられない想いを表現する場所になっている。
 自分自身の内側にある想いを、しっかりと音色に託した。
 客席に語りかけるように、ここにいないひとにも語りかけるように、香穂子はヴァイオリン演奏を続けた。
 演奏が終わった瞬間、躰から総てが抜け落ちたような気分になった。
 同時に華やかな清々しさを感じずにはいられない。
 香穂子は半ば放心状態になりながら、ゆっくりと頭を下げた。
 お辞儀をして顔を上げると、温かな拍手が香穂子に向かって多数贈られる。
 こんなに温かくて素晴らしい贈り物は他にないのではないかと、香穂子は思った。
 息が出来ないほどに満ち足りていて、お腹の底が暴れ出す程に嬉しいのに何処か切ない色がする。
 喜びが黄金色になって、香穂子を輝かせてくれた。
 ステージの袖に入ると、途端に力がふにゃふにゃと抜けるのを感じた。
 やり遂げたという充実感がそうさせているのだろう。
 嬉しいような、何処か寂しいような気分になったのは言うまでもなかった。
「後は審査結果を待つだけですから、客席に待機をして下さい」
 係員に言われて香穂子は頷くと、用意された客席へと向かう。
 席に着くと、ちょうど月森の演奏が始まるところだった。
 流石に技量は素晴らしい。
 同じヴァイオリンを志す者として、かなり勉強になるし、同時に鳥肌が立つ程に素晴らしいと思う。
 演奏を終えて満ち足りていたし、きちんと演奏が出来たことだけでかなり満足をしている。
 だがやはり、折角、ヴァイオリンをここまで頑張ってきたのだから、様々なひとに見守られてここまでやってこれたのだから、やはり賞は欲しい。
 欲張りかもしれないが、賞を貰って最初のメダルをあしながおじさんに渡したかった。
 香穂子は、月森の演奏が素晴らしいことを認めながら、何処か切ない気分になっていた。
 ヴァイオリン部門が終了し、いよいよ審査の発表になる。
 冷静に考えても、月森が優勝なのは解ってはいる。
 だが、審査が難航しているのか、発表の時間になっても、一向に発表されなかった。
 確かに今年は上手いプレイヤーが沢山いたから、しょうがないと香穂子は思っていた。
 待っている間、香穂子は再び吉羅との楽しくも幸せな時間を思い出し、落ち着いた気分になっていた。
 コンクールが終わっても、まだ入試は終わってはいない。
 結果がどうであれ、明日からは気分を借り換えて頑張らなければならないのだ。
 香穂子は背筋をスッと伸ばすと、結果を待つことにした。
 ようやくコンクールの審査委員長がステージに出て来て、いよいよ結果発表が行われる。
「発表致します。今年の学生ヴァイオリン部門の優勝は、月森蓮君」
 やはり優勝は予想通り月森だった。
 香穂子は胸と躰が失望で震えるのを感じる。なのに心は冷静なぐらいに満ち足りていた。
 不思議な感覚だと。
 あしながおじさんと吉羅にはこころの中で、“ごめんなさい”と呟く。
 だが今はこれが精一杯の実力なのだから仕方がない。
「…後、イレギュラーですが、優勝はもうお一人。日野香穂子さん」
 これには香穂子も驚いてしまい、目を見開いて思わず顔を上げた。
 まさかこんなことになるとは思ってもみなかったのだ。
 今度は喜びで躰が震えて、香穂子は暫く動けないでいた。
 審査委員長は満ち足りたような笑みを浮かべると、真直ぐ客席を見た。
「今年は稀に見る豊作の年で、ふたりの若いヴァイオリニストが素晴らし過ぎて、甲乙をつけることが出来ませんでした。本当に素晴らしくて、どちらも優勝ということにさせて頂きました。このコンクールは若手の有能な才能を発掘するためにあるものです。決して競わせる為にあるものではありません。ですから本来の目的に従って、本当に素晴らしい才能を発掘するために、あえて優勝者をふたりとしました」
 取りたいとは思ってはいたが、取るのは難しいと思っていた。
「では表彰式を行ないますから、受賞者の方は前へ」
 月森はスマートに立ち上がったが、香穂子は上手く出来ない。
「日野」
「あ、うんっ」
 なかなか立ち上がれないでいると、月森が手を貸してくれた。
「…有り難う…」
「行こう」
 月森に半ば連れて行かれるようなかたちで、香穂子はステージに上がった。
 俄かに喜びが滲んでくるのを感じる。香穂子は月森と共に、賞状と盾を受け取った。
 こんなにも嬉しいことはないかもしれない。
 香穂子は涙を滲ませながら、深々と頭を下げた。
 ステージから客席を見ると、ひとつの影が動いたのが解った。
 吉羅暁彦だ。
 香穂子の演奏を聴いてくれていたのだ。
 お礼をしたい。
 香穂子は表彰式が終わるなり、吉羅を追い掛けた。
 吉羅はかなり先に歩いている。一際スタイルが良くて、背筋が伸びているから、直ぐに吉羅だということが解った。
「吉羅さん!」
 香穂子が名前を呼ぶと、吉羅はゆっくりと振り返った。
 立ち止まり、香穂子を待ってくれている。
 香穂子は息を弾ませながら、吉羅を見上げた。
「吉羅さん、有り難うございました」
 今一番言いたい言葉を言うと、香穂子は大きく息を吸い込んだ。
「私は何もしていないよ」
 吉羅はいつものようにとてもクールで静かに言う。まなざしも冬の星のように冷たい。
「…吉羅さん、今日は聴きに来て下さいまして有り難うございます」
「たまたまこの前を通りかかっただけだよ」
「嬉しかったです。有り難うございます。吉羅さんが私を落ち着かせる為にカフェに連れて行って下さったお陰で、今日は落ち着いてヴァイオリンを演奏することが出来ました。だから、とても感謝しています。本当に有り難うございます」
 香穂子が深々と頭を下げても、吉羅はいつも以上にクールだった。
「私は何もしてはいないよ。本当に」
「だけど吉羅さんのお陰なんです。本当に有り難うございます」
 香穂子は何度も頭を下げた後、この感謝を伝えたくて、吉羅に賞状を手渡した。
「…何だね…? これは…」
「コンクールの賞状です。受け取って下さい」
 香穂子が賞状を差し出すと、吉羅は困ったような表情を浮かべた。
「これは君にとってはとても大切なものだろう?」
「大切なものだからこそ、吉羅さんに持っていて欲しいんです。私には優勝した事実があるから、構わないんです。ですからお願いします」
 香穂子の言葉に、吉羅は溜め息を吐いた。
「…解った。一応は預かっておこう…。君が返却を希望した場合は、いつでも返そう」
「有り難うございます」
 受け取ってくれてとても嬉しくて、香穂子は満面の笑みを浮かべた。
「では賞状は私が預かっておこう」
「有り難うございます」
「それでは私はこれで」
「はい。有り難うございました」
 香穂子は、吉羅が背を向けて立ち去るのをじっと見送る。
 その姿を見つめながら、胸が甘酸っぱい恋心でいっぱいになるのを感じていた。



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