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年が明けた。 いよいよ卒業試験が始まる。 これが終われば自由登校になるのだ。勿論、香穂子はヴァイオリン練習の為に学校には通うつもりでいる。 大学には寮があるので、引越しをするのも楽で安心だ。 とにかく前を向いて歩いて行こうと、香穂子は強く思っている。 吉羅のことはもう忘れなければならない。 恋心をきれいさっぱり忘れて、吉羅とは笑顔で挨拶が出来る間柄になりたいと、前向きに考えている。 今度逢う時までにはそうなっていたいと、香穂子は思わずにはいられなかった。 ようやくあしながおじさんにも手紙を書けるようになった。 素直に今の自分の気持ちをきちんと書けるようになっている。 こころの傷はまだまだ癒えてはいないが、いつか癒えると信じている。 今は時間が大切だと思わずにはいられなかった。 あしながおじ様 私の大切な方へ。 長い間、お手紙を書かずに申し訳ありません。 手紙を書くことが出来なかったのです。 それは精神的なことです。 私、恋をしました。 そして破れました。 相手の方は私よりもかなり年上の方です。 先日、恋心を告白したところ、妹のようにしか見て貰えてはいなかったのです。 ショックでしたが仕方がありません。 そのショックが切なくて、今まで手紙を書くことが出来なかったのです。 ごめんなさい。 だけど今はとても元気です。 恋をしたことはとても素敵な経験だと思えるようになりました。 恋の経験が、良い演奏に繋げられると今は思っています。 これからもまたお手紙を沢山書いて行きますので、また、宜しくお願い致します。 後、間も無く高校を卒業します。 卒業式に来て下さい。お願いします。 卒業式に貴方様が来て下さったら、こんなにも幸せなことはないと思っています。 将来のことを色々とお話したいと思っています。 あなたになら色々と悩みを訊いて下さるような気がします。 どうか一目あなたにお逢いしたいと思っています。 あなたとお逢いしたいです。 香穂子 香穂子はこころに熱い想いを抱きながら、手紙を送った。 香穂子から、“あしながおじさん”として手紙を受け取り、吉羅はきちんと丁寧に読む。 香穂子の想いが綴られていて、吉羅は息が出来ないほどに切なくなる。 香穂子のことを誰よりも愛してはいるが、まだ一緒になれやしない。 だが後少しの辛抱だ。 吉羅は香穂子の切なくも痛い心情を理解しながら、自分も同じように痛みを感じていた。 香穂子を余り切なくさせたくはない。 香穂子に想いをきちんと伝えなければならない。 吉羅は、香穂子に手紙を書くことにした。 日野香穂子さま。 ずっと返事を書いてはきませんでしたね。 初めてあなたに手紙を書きます。 高校生活ご苦労様でした。 とてもよく頑張りましたね。 これからもその調子で頑張って行って下さい。 卒業式の件ですが、申し訳ありませんが、私は行くことが出来ません。 ただあなたとお逢いすることは出来ます。 卒業式の後で、車を手配しておきます。 それに乗って私のところに来て下さると嬉しくて思います。 色々とお話をしましょう。 あなたの佳き隣人より。 吉羅は手紙を送る。 香穂子が高校生でなくなる日に、きちんと話をしようと思う。 香穂子が抱く誤解もときたい。 吉羅は清々しい気分と同時に、まるで中学生に戻ったような気分になった。 それだけ純粋に香穂子に恋をしている。 香穂子に“あしながおじさん”は自分と伝えれば、喜んでくれるのだろうか。 それとも騙されていたと怒るだろうか。 真相は解らない。 吉羅は手紙に封をすると、想いを込めて封筒を見つめた。 香穂子は寮のポストに、住所から直筆で書かれた手紙を見つけた。 あしながおじさんからだ。 綺麗な筆跡に香穂子は、きっとかなり年配の男性なのだろうと思った。 ドキドキしながらも丁寧に手紙の封を切り、香穂子は深呼吸を深くする。 ゆっくりと丁寧に字面を追っていく。 嬉しくて呼吸がままならないのではないかと思った。 手紙を何度も読み返しながら、香穂子は幸せの余りに呼吸を乱す。 遂に“あしながおじさん”に逢えるのだ。 それが嬉しくてたまらなかった。 卒業式に出ることが出来ないとすると、恐らくはかなり高齢なのだろう。 品の良い老紳士なのかもしれない。 想像するだけで、華やかな気分になった。 今から逢って話をするのが楽しみだ。 吉羅のことも相談が出来るだろう。 大切な“家族”と逢うことが出来る。 香穂子にとってはそれが温かな希望になった。 「…早いなあ…、もう日野も卒業か…」 しみじみと呟く金澤に、吉羅も感慨深くなる。 「これで重い重い枷はなくなるな。理事長」 金澤は意味ありげに吉羅を見つめて来る。それを適当にあしらうように、吉羅はクールに眉を上げた。 「どういうことでしょうか。私にはさっぱり分かりません」 吉羅の言葉に、金澤は苦笑いを浮かべた。 「…まあ、いいさ。日野が卒業しても手をこまねいていたら、あっという間に横取りをされるぜ。現にあいつを 密かに慕っている輩はかなりいるからな」 吉羅は黙っていたが、そのことなら十二分に解っていると思っていた。 「まあ、後はおまえさん次第…。おまえさんが一番優位な位置にいるのは、間違いはないんだからな」 金澤は煙草を吸いながら静かに微笑む。本当はそんなことなどない。 香穂子の一番近くにいるのは自分でないような気がするのだ。 「ま、頑張れや」 「何を頑張るんですか」 「さあな…」 金澤はまた薄く笑みを浮かべると、紫煙を宙に吐き捨てる。 吉羅はその姿を見つめながら、溜め息を吐くことしか出来なかった。 卒業式までの間は、長いようで短かった。 振返ると短いような気にもなったが、一日、一日は長いような気がした。 慌ただしくみっちりとヴァイオリンの練習も毎日のように行い、香穂子はヴァイオリニストとしての更なるステップアップを模索する日々だ。 卒業。 何だかピンと来ない。 これからも学院で頑張っていくのは変わらないからだろう。そしてこれはひとつの通過点に過ぎないのだから。 吉羅とはあれから逢ってはいない。 今度逢えた時に果たして笑顔でいられるかどうかは解らないが、とにかく前向きに頑張ろうと思っている。 卒業式が始まる。 厳かな雰囲気で、心も躰も澄んで行くのが解った。 旅立ちの時だ。 校長の話を聞いていると、本当にもう高校生でいられなくなることを実感した。 もうきらきらと輝いていた日々は遥か遠くに置き去りにしなければならないのだ。 そう思うと寂しくて、切なさが込み上げてきた。 相変わらず理事長は欠席していて、香穂子はいったいどのようなひとが理事長なのかと思った。 卒業式が終わり挨拶を済ませると、いよいよあしながおじさんに逢う時がやってくる。 大学の寮に戻って着替えた後、卒業証書を持って、寮の前で車を待つ。 静かに黒塗りのハイヤーがやってきて、ドアが開けられた。中には金澤が乗っていて、香穂子は本当に驚いてしまった。 「金澤先生…?」 「おまえさんを無事に送り届けるように頼まれた。行こう」 「はい」 香穂子が安心するようにと、最大限の気遣いをしてくれたのが、本当に嬉しかった。 車に乗っている間もかなりドキドキしてしまい、鼓動が高まってくるのを感じる。 やがて車は立派なオフィスビルの前に停まった。 「ここからはおまえさんひとりだ。二十階のオフィスだ。しっかり頑張ってこい」 「はい」 金澤に背中を押されて、香穂子は車を降りると、約束の場所に向かった。 |