*愛の願い*

5


 夏休みが始まろうとしていた。
 身寄りのない香穂子はといえば、里帰りをすることも叶わずに、ひとり寮に残るつもりだ。
 学院の寮はずっと使えるようにしてあるから、残ったとしても特に支障はなかった。
 しかし。
「…えっ! 今年は寮を改修するから、寮が使えなくなるんですか!?」
 学院長に言われた言葉は余りにも衝撃的で、香穂子は思わず目を剥いた。
 寮が閉鎖されている間は、一体、何処に行けば良いのだろうか。
 香穂子は不安の余りに泣きそうになった。
「あ、あのっ! わ、私だけ特別に寮に残ることは出来ないでしょうか? 私は何処にも行くところがありませんから…。どうして良いか困ってしまいます…」
 香穂子が途方に暮れていると、学院長はそっと封筒を差し出した。
「寮が閉じている間、君は山梨にある別荘に行く手配が出来ています。とても美しい場所で、年老いたご夫婦が切り盛りをされている」
 香穂子は封筒を受け取ると、緊張しながらその封を開く。

 日野香穂子様
 よく頑張った褒美として、夏休み中は山梨の別荘に招待します。
 そこでゆっくりと羽根を伸ばして下さい。

 相変わらずパソコンで打たれた無機質な文字であったが、それでも香穂子は嬉しかった。
 あしながおじさんが気遣ってくれるのが、涙が出てしまうほどに嬉しい。
「…有り難うございます…。やっぱり“あしながおじさん”なんだ…」
「“あしながおじさん”? ああ。確かに君にとっては“あしながおじさん”だね。ええその方が手配をして下さいましたから、お言葉に甘えて行って来て下さい。君には良い経験になると思いますから」
 院長は慈しみが溢れる瞳で香穂子を見つめると、何度も頷いてくれた。
「有り難うございます…」
 香穂子は嬉し涙が溢れる余りに顔をくちゃくちゃにしながら笑った。

 寮に戻ると、あしながおじさんに手紙を書く。
 感謝の手紙はこれで何度目だろうか。本当に感謝してもしきれない。
 香穂子は背筋を伸ばして手紙を書き始めた。

 私の信頼なるたったひとりのあなたへ。
 夏休みのお気遣い、本当に有り難うございます。
 何度お礼をしてもしきれないほどに嬉しかったです。
 本当にどうも有り難うございます。
 寮が閉鎖になってしまうと、私には何処にも行くところはありません。
 あなたさまが手を差し延べて下さらなかったら、私はどうして良いか分かりませんでした。
 本当に有り難うございます。
 夏休みは存分に楽しみますね。
 あんなに憂鬱だった夏休みの到来が、今は楽しみでしょうがないです。
 有り難うございました。
 香穂子

 こころを込めて手紙を認めた後、香穂子は幸せと親愛の情でいっぱいになるのを感じる。
 まだ見ぬ大切なひと。香穂子にとっては、唯一の“家族”だと言えるひとだ。
 だからこそ誰よりも大切にしたいと思っている。
 大切なひとだと、感謝していると、いつか本人に自分の口で伝えられたらと強く思っていた。

 香穂子が郵便を出しに行った後、偶然、吉羅暁彦と顔を合わせた。
 無視するのも何だか悪いような気がして、香穂子は努めて明るく声を掛ける。
「こんにちは!」
「…こんにちは…。君は確か…日野君…だったね…」
 吉羅は以前の印象通りに素っ気無い声と表情だった。
「ヴァイオリンは頑張っているかね?」
「はい。私にはヴァイオリンしかありませんから、しっかり頑張っています」
「…それは結構…」
 吉羅の口角が僅かに上がる。微かな笑みですらも魅力的な男だと思う。
「今日は冬海さんの様子を見に来られたのですか?」
「ここに来る理由が彼女でなくてならないかね?」
「いいえ…。そんなことはないんですけれど…」
「私も学院には色々用があるものでね」
 吉羅はビジネスライクに呟くと、ちらりと香穂子を見た。
「もうすぐ夏休みだが、過ごす宛はあるのかね?」
「はい。お陰様で。山梨のワイナリーにお世話になる予定なんです」
 香穂子はついこころが弾む余りに、明るい声で言ってしまう。
「山梨のワイナリー…ね…。環境には良さそうだね。私の知り合いのワイナリーもその辺りにあるからよく解る。まあ、ゆっくりと良い休日を過ごしたまえ。では」
 吉羅は珍しくフッと微笑むと、香穂子に背中を向けて、院長室がある校舎に向かって歩いていった。
 香穂子もまた釣られるように微笑むと、半ばスキップをするように歩いていった。

 金澤に呼び出されたのは、翌日の放課後。呼び出しを受けたメンバーを見るなり、香穂子は目を剥いた。
 所謂、学院のエリートばかりだ。
 ヴァイオリンの月森、ピアノの土浦、フルートの柚木、トランペットの火原、クラリネットの冬海、チェロの志水、ヴィオラの加地…。
 周りのメンバーを見て、香穂子は驚いたように金澤を見上げた。
「お前さんたちは総合文化祭に向けてのアンサンブルメンバーに選ばれた。総合文化祭とは、教育科学省が新たに創設した、芸術家を育成するためのフェスティバルだ。ここのアンサンブル部門で、学院代表として、お前さんたちに頑張って貰いたい。理事長さんと学院長が選抜したメンバーだ。お前さんたちならしっかりとやってくれると、俺は思っているがな」
 金澤は生徒にかなりの信頼を置いているからか、さらりとごく当たり前のように言う。
「え!? 総合文化祭のアンサンブルメンバーに選ばれたんですか!?」
 香穂子は俄かには信じられなくて、思わず金澤に聞き返してしまった。
「鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔をしているが、確かにお前も選ばれている。創立祭で演奏したんだから、まあ当然だろうがな。しっかりと頑張れよ」
 期待しているからなのか、緩く考えているからなのか、さっぱり解らないままで金澤は飄々と言う。
「本格的な始動は夏休み明けからだ。それまでにお互いに課題曲をマスターしておいてくれ。かなりあるから、夏休み中にクリアーするのは難しいかもしれないが、お前さんたちなら何とかなるだろう。頑張ってくれ。本番は十一月の最終日曜日だ。二学期に入ったら、本格的にアンサンブルを合わせていくから、そのつもりでな」
 金澤の言葉に、香穂子は思わず生唾を呑んで頷く。
 どうなるかは解らないが、気を引き締めて当たらなければならないだろう。
「…先輩、先輩と一緒でとても嬉しいです。頑張りましょう」
冬海はにっこりと笑うと、香穂子に縋るような瞳を向けてくる。
「うん頑張ろうね」
 メンバーを見ると緊張をするが、それでもこれはチャンスだ。頑張らなければならない。
「日野ちゃんよろしくね!」
 笑顔で声を掛けてきてくれたのは、火原だ。人好きする笑顔に、香穂子はホッとした。
「日野、宜しく頼むな」
 次に声を掛けてきてくれたのは土浦だ。香穂子は力強く頷いた。
「…日野さん、お手柔らかにね」
 優美な雰囲気で言うのは柚木。
「日野…、お互いに恥ずかしくないよう努力しよう」
 月森は相変わらずクールだ。
「日野さんと音を合わせられるのは嬉しいよ。頑張ろうね」
 加地はいつものようにとてもフレンドリーだ。
「…先輩…、よろしくお願いします…」
 マイペースで呟いたのは、“天才”と噂される志水だった。
「おー! みんなしっかりやれよ!」
 金澤が緊張をほぐすように言ってくれたので、香穂子は笑うことが出来た。
 アンサンブルメンバーと誓いあう。
 必ず成功させると。
 熱い日々の幕開けだった。



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